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阿蘇熔結凝灰岩の使用停止と蕨手文古墳


 「磐井の乱」以降、「倭国王権」が一時「雌伏」させられたと考えるのは、「磐井の乱」とほぼ同時期以降、「近畿」で「阿蘇熔結凝灰岩」を使用した古墳が造られなくなることなどから推察できます。これは約六十年間続きます。
 「近畿」では五世紀中頃から、「阿蘇熔結凝灰岩(灰色岩)」による石棺などが使用された古墳が造られていました。(産地としては熊本県の氷川と菊池川上流があります)
 その石棺の形も九州(熊本)の古墳のものと同一でした(舟形石棺と呼ばれます)。これはちょうど「倭の五王」の頃に重なっており、形式も材料も「九州」から調達したものと考えられ、墓制の共通化・統一化が図られていった様子がわかります。 
 この「阿蘇熔結凝灰岩(灰色)石棺」を使用した古墳が造られなくなるのが、「六世紀前半」から「六世紀終末」までの「六十年間」なのです。ちょうど「磐井の乱」が起きた頃とほぼ同時期から「阿蘇熔結凝灰岩(灰色)石棺」を使用した古墳が造られなくなるわけですから、これらの間には重大な関係があると思われます。
 「墓制」の統一と云うものは「連帯」と「服属」とを意味すると推定されるものであり、それを止めてしまったわけですから、「服属」という行為そのものを止めたのだと考えるのが理解しやすいことと思われます。つまり、「筑紫王朝」による列島支配、という構図に「破綻」ないし「狂い」が生じたものと思われます。
 それを示すように『書紀』の『推古紀』に以下のような記事があります。

「(推古)十五年(六〇七年)春二月庚辰朔。(中略)戊子。詔曰。朕聞之。曩者我皇祖天皇等宰世也。跼天蹐地。敦禮神祗。周祠山川。幽通乾坤。是以陰陽開和造化共調。今當朕世。祭祠神祗。豈有怠乎。故群臣共爲竭心宜拜神祗。」

ここで言う「宰世」とは「天下を治める」ことを意味する言葉であり、文章全体の意味としては「昔は」(あるいは「以前は」)「吾が皇祖天皇は」「宰世也」「天下を治めていた」と語っているわけです。そして、その時は「ひどく謹み恐れながら、神祇を敦く敬った」というわけであり、(今自分もそのような立場に立ったので、)同様のことをする、と言うわけです。
 この「推古」の言葉からは「昔」と「今」の間に「宰世ではなかった」時期がある事を暗黙に語っていると思われます。これは「磐井」が「物部」に「筑紫」から「追放」されたことを物語っているのではないでしょうか。
 その「昔」とはいつのことかを推察できる記事が『垂仁紀』にあります。

「『日本書紀』巻六垂仁天皇廿五年(丙申前五)春二月丁巳朔甲子甲子条」
「詔阿倍臣遠祖武渟川別。和珥臣遠祖彦國。中臣連遠祖大鹿嶋。物部連遠祖十千根。大伴連遠祖武日。五大夫曰。我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。惟叡作聖。欽明聰達。深執謙損。志懷沖退。綢繆機衡。禮祭神祇。剋己勤躬。日愼一日。是以人民富足。天下太平也。今當朕世。祭祀神祇。豈得有怠乎。」

 つまり「我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。」つまり「崇神天皇」が「神祇」に対する「禮祭」を一日も怠らず続けていたものを自分の代で怠るわけにはいかない、というわけです。そして、それとほぼ同じ文章が『推古紀』に現れるわけです。このことから、「推古」にとって「皇祖」とは、垂仁の言う「我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇。」つまり「崇神天皇」であることとなるでしょう。
 これは「垂仁」の後、「推古」までの間に「主権」を奪われていた期間があることを示すものです。
これが「磐井」が「筑紫」を追放されていた期間を表すとすると、「垂仁」と「倭王武」が重なることとなるでしょう。
 その「垂仁」の「皇后」である「日葉酢媛命」が亡くなられたとき、「垂仁天皇」は「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、それまで「生身の人間」を埋めていた「殉葬」をやめて「埴輪」に代えさせたとされ、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる『書紀』不信論の代表とされています。

「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」
「皇后日葉酢媛命(一云。日葉酢根命也。)薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」

 しかし、考古学的には「人型埴輪」に関する事実(時系列)は、実際には「近畿」ではなく「筑紫」に適合した話であり、そのことからもこの「垂仁天皇」及び「皇祖」である「崇神天皇」は「九州」を拠点としていたことが推察できると思われ、それは「磐井」の墓とされる「岩戸山古墳」が「筑後」にあることと正確につながっているといえるでしょう。そしてこの場所は元々「肥の国」の領域であったものです。

 ところで、このように「磐井」を打倒した、とされている「物部」ですが、「筑紫」には「物部」の本拠があったと見られています。
 「筑後一宮」である「高良大社」の祭神は「高良玉垂命」であり、その「高良大社」の史料である「高良記」には、歴代の「玉垂命」が「物部」であり、このことは「秘すべし」とされ、もし洩れたら「全山滅亡」とまで記されているとされます。(※1)
 「氏姓分布」から見ても「九州」内では「物部」姓は「うきは市浮羽町」に集中しているのが確認できます。(ただし全国的には岡山県にかなり多数がおられるようです)
 『和名類聚抄』には「筑後国生葉郡物部郷」という地名が存在していたことが確認され、「物部郷」は「浮羽町」の近隣にあったと見られます。

 ところで、「装飾古墳」には多種多様の文様が描かれていますが、それらは多くの古墳に共通であり、その「傾向」、例えば「地域」と「装飾文様」の対応などについて何らかの「有意」な事実を見いだすのはなかなか困難なのですが、ただ「蕨手文」という文様については、その描かれている地域に共通する特徴があると思われています。(※2)
 「蕨手文」というのはその形が「蕨の芽」に似た形状をしていることからからつけられた名称ですが、具体的に何をイメージしたものか、何を抽象化したものかはっきりとはわかっていませんが、「盾や短甲に取り付けられた装飾」に起源するという意見があります。つまり、「死者」を守る為の防具の一部というわけですが、また「武門」に関係するものでもあります。(その後も刀剣の装飾として出土例が多い)
 「装飾古墳」の中で、「蕨手文」が描かれている古墳はわずか八つしかありませんが、そのうち七つが筑後川流域と水縄山地の周辺に集中していること、「肥後」には皆無であるという重要な特徴があります。
 この「蕨手文」が描かれている古墳の初出は、「若宮古墳群」にある「日ノ岡古墳」というものですが、時期的には「六世紀前半」であり、「岩戸山古墳」とほぼ同時期と考えられ、「物部」が「磐井」を打倒した時期に重なっています。しかも、これら「若宮古墳群」がある「福岡県浮羽郡吉井町」という場所は先述した「物部郷」があったと考えられている場所の至近です。
 また、「蕨手文古墳」からはほかに「靫、盾、太刀」などの武器文様が描かれている例が多く、これらは戦闘集団「物部」にふさわしいと考えられます。しかも、最後の「蕨手文古墳」と考えられる「重定古墳」が六世紀最終のものと推定されているのも、「物部」の滅亡時期と重なっていて興味深いものです。
 「蕨手文古墳」が「肥後」には皆無である点も、「磐井の乱」で「磐井」の一族が最終的に「肥の国」に逃れたと考えることで理解できるものです。
 つまり、この「蕨手文古墳」は「物部」の古墳であり、「物部」が「筑紫」を制圧していた期間に作られていたものと考えられるわけです。

 「装飾古墳」は「倭国王権」に近い存在にのみ許されたものと考えられ、そのような中で「物部」が「装飾古墳」の一種である「蕨手文古墳」を作っていたということは、自らを「倭国王」に「擬していた」と云うことと考えられます。
 そして、この「物部」滅亡後「近畿」で再び「阿蘇熔結凝灰岩(灰色)」を使用した「石棺」を伴う「古墳」が造られるようになります。(植山古墳など)
 それまでの「石材」の運搬ルートは、「生産地」である「菊池川」上流から川を下り、「有明海」に出て北上し、今度は逆に「筑後川」を遡り、途中でこの当時存在したと考えられる「運河」により北上して「博多湾」へ出て、そこから「海岸沿い」に東行し、瀬戸内海へ入るというものであったと思料されます。つまり、この経路は「筑紫」という地域が自家のものである場合には有効であるものの、そこを物部に押さえられてしまうと利用できなくなるわけであり、このため、「近畿」で「阿蘇熔結凝灰岩」を使用することが出来なくなったものと考えられます。
 そして、再び「九州倭国王権」により「筑紫」が解放され、その権威を列島内に及ぼし始めた事により以前のように「石材」を運搬することが可能となったものと推察されます。

 つまり「近畿」において「古墳」の石室の石材として「阿蘇熔結凝灰岩」を使用しなくなる「六十年間」と、「筑後」において「蕨手文古墳」が見られる「六十年間」それに「物部」が「磐井」を「打倒」(追放)して「筑紫」を制圧していたものが「守屋」に至って滅ぼされるまでの「六十年間」がぴったりと重なっているのです。
 これらのことは「磐井の乱」の「実在の証明」でもあり、また「倭国王」の「逼塞」の事実の証明でもあると思われるのです。

 『推古紀』には「裴世清」がもたらした「国書」をみて「推古」がひどく喜んだことが記されています。

「…東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。…」

 これを見ると「久憶方解」と書かれており、長年の思いが今実現したという趣旨と思われますが、これは「中国」との関係が正常化した、あるいは長く国交が途絶えていた中国との関係が構築できた喜びを示しているとみるべきです。これは当然「南朝」との関係が「梁」付近で途絶えた歴史の裏返しと思われるわけですが、逆に言えば「推古」の時代まで「中国」へ使者を送ることができなかった背景があることを推定させるものです。その理由として最も考えられるのは「筑紫」という外交窓口が自家のものではなかったという事情がそれを許さなかったがためであり、その期間は「物部」により「筑紫」の占拠が行われていたものと考えるべきことを示します。そう考えた場合初めて「推古」の言葉の意味がよく理解できるものです。


(※1)『古賀事務局長の洛中洛外日記第207話』「九州王朝の物部」(二〇〇九年二月二十八日)
(※2)伊東義彰「装飾古墳に描かれた文様〜蕨手(わらびて)文について」(古田史学会報七十七号 二〇〇六年十二月八日による)


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2015/07/10)