「神護石」(神籠石)遺跡というものがあります。この遺跡は「北部九州」「山口県」などかなり広範囲に渡って築かれたもので、全国で「十箇所ほど」確認されているものですが、山の山頂から中腹付近にかなり大規模な「土塁」と「石積み」の遺構があるものですが、いつ頃の年代のものか、誰か設置したのかなどで議論になっており、今だ結論が出ていないものです。
現代の考古学者は「神籠石」という名称は使用せず、単に「古代山城」としているようです。そして、その評価としては「唐」の軍隊に対する防衛の為のものとされ、また、官人や民衆の「緊急避難」のためのものという考えでもあるようです。
これに関しては「大野城」などと同時期ではないか、という説もあり、確かに「朝鮮式山城」としては「大野城」などと「同様」と推察されてはいるものの、明らかにそれに「先行する」様式であり、築造の時期としてもっと早い時期を想定すべきものと思慮されます。
(「高良山」の「神護石」遺跡はその北半分が崩壊しているようであり、これが「六七八年」の「筑紫大地震」に関わるものと推察され、この「神護石」の建設された時期の「下限」としてはこの地震時点と考えられるものです)
この「遺構」の分布は明らかに「筑紫」が中心域となっており、外敵からの侵入に対し「筑紫」を防衛する体制を構築しているように見えます。この「神籠石」というものが「筑紫」を防衛するためのものであるとすると、「神籠石」が構築されたのは「筑紫」に「王権」があり「倭国」の本拠があった時期を想定するべきですが、「筑紫」は「倭の五王」以前の中心地であり、その後は「肥後」に移ったと考えられます。つまり、「前方後円墳」の分布及びその石室の形式の変遷などを見ると、中心地は「肥後」へ移っていたものと考えられます。
中国で「四世紀初め」「西晋」が滅び「五胡十六国」の群雄割拠状態になると、半島に対する影響力、統制力が低下してしまい、それは「倭国」を含む「半島諸国」に対して「対外拡張策」を取る道を選ばせ、半島内は、倭国も含む半島諸国がしのぎを削る舞台となったと推量されます。そのようなことが起きた理由の一つは「鉄」であったと考えられます。「鉄」という重要戦略物資を入手するためには「半島」においてある程度の「覇権」を握る必要があり、各国ともかなり熾烈な戦いを演じていたものと思われます。
そのような中で「防衛戦略上」「倭国王権」は「首都」を「筑紫」から「肥後」へと移動させたと考えられますが、その後も継続して「肥後」に中心があったものと思料されます。そのことは「五世紀」に入り、「阿蘇熔結凝灰岩」を使用した「古墳」が近畿に造られるようになることとも関連しています。
そもそも「近畿」など「東国」に「前方後円墳」ができる、という事が「東国」からみて「外部」からの政治的、宗教的圧力によるものと見られており、石室材料やその形式など各種の徴証から、「九州」などの外的勢力の存在が関与しているというのは「近畿王権一元説」の立場からも議論されているほどです。
つまり、「倭の五王」時代の対外拡張政策は「肥後」を起点として行われていたものと見られ、この時点での「筑紫」は「旧都」であり、また「半島」からの圧力に対する「水際防衛」の最前線として存在していたと思われます。
その後「倭の五王」の時代、各「倭国王」は「東国」などの諸国を平定させていき、(騎馬勢力がその中心か)このような軍事的或いは宗教的な方法による征服行動が国内向けのものとして一段落して以降、一転して「半島」へ進出していったものと考えられます。(やはり戦略上、多方面作戦は危険であり、国内と同時には国外へは進出しなかったと考えられるものです。)
最終的に「筑紫」が本拠になったのは「六世紀末」から「七世紀初め」のことと考えられ、『隋書』に云う「阿毎多利思北孤」や「利歌彌多仏利」のころのことと考えられます。そうであれば、「四世紀」より前か、「六世紀」より後かどちらかの時期に、この「神籠石」が構築されたと考えられることとなります。その意味では「七世紀」半ばに「大野城」などとほぼ同時期に構築されたという考えも可能性としてあり得るものですが、全ての「神籠石」がその時代に作られたと考えるのは「考古学的証拠」と合致しません。それは、一部の「神護石」遺跡からは非常に古い「祭祀」に関わる土器が出ていて、そのことからすでに「古代」からそこに「城」的遺跡があったと考えられる事を示しており、その起源は「卑弥呼」の時代にまで遡る可能性もあるからです。
明らかに「三世紀」の「卑弥呼」の頃には「筑紫」(というより「筑前」)に「王都」が存在していたわけであり、そのことは「古田氏」の数々の研究により明らかにされているところです。
この時代「狗奴国」など国内には反対勢力がいるわけであり、それは「卑弥呼」の「共立」される経緯から見ても、国内が「一枚岩」でなかったことは明白なわけですから、この時点では「筑紫」を防衛しなければならない必然性があるものと考えられます。(海からの上陸に対する防衛としては「一大率」などがその任に当たっていたと考えられます)
つまり「神護石」の一部のものについてはこの段階で「邪馬壹国」など当時の倭国王権を防衛するためのものとして築造されたと考える事もできそうです。
(「大宰府」防衛のための「水城」についても「卑弥呼」の時代にその起源が遡ると考えられており、「神護石」と同時代のものという考えもあり得ると思えます。またそのことから「邪馬壹国」という「卑弥呼」の所在する場所についても「水城」の背後であると云うことも推定できるでしょう。)
このように、「神籠石」の一部については「四世紀」以前の「筑紫」防御施設として機能していたものも含まれていると考えられるものですが、「神護石」遺跡の中にはかなり「新しい」と考えられるものもあり、それらは「七世紀中葉」とされているものです。
このように多様な性格があるわけですが、新しいものについては『隋書俀国伝』に現れる「利歌彌多仏利」以降に「筑紫」防衛の必要性が出て来た事を示していると考えられ、それは「太宰府政庁第Ⅰ期」発掘調査などで判明している「大宰府」都城完成時期(七世紀初め)以降であることを示しているものであり、「難波副都」建設の時期と考えられるものです。
「難波副都」建設は「遣隋使」派遣以降「宣諭事件」以降「隋」との関係がかなり悪化し、緊張関係が高まった中で行われたものであり、「筑紫」はその段階で首都であると同時に「水際防衛」の重要拠点でもあったわけです。この場所を防衛する必要性がこの時期にはあったことは確かであり、その時点で「朝鮮式山城」(ただし「新しいタイプ」)である「大野城」などを「修造」する必要性が高まったことを示しており、最新の「年代測定」などから「七世紀半ば」(六四八年)という年次を示していることが明らかとなっていますが、これは「修造」という語が示すように「創建」時期を表わすものではないと思われます。
国府などの遺跡の調査などからその建て替え間隔は約五十年であることが明らかとなっており、これに従えば「大野城」等の筑紫の山城についてもその修造が約五十年目であったとすると、その創建は六世紀の末のこととなります。
この時期に創建されたとするとその目的はやはり「隋」との関係を第一に考える必要があるものと思われ、後に述べるような「宣諭事件」以降「琉球侵攻」によって「隋」の意思と能力を見せつけられた「倭国王権」は「東国」へ主たる支配地域を移動したと云うことが考えられ、「難波副都」がこの時点で作られたことを意味すると考えられます。
このように「神護石」は「三世紀」以降の各時代に「筑紫」を防衛するために造られたと考えられるわけですが、しかし、その必要性の一番高かったのは、実は「物部」が「筑紫」を奪い「制圧」していた時期ではないかと考えられるものです。
「物部」は「磐井の乱」以降、「倭国王権」から「筑紫」を「奪った」訳であり、当然「倭国王権」の反撃が想定されるものですから、それに備え各所に「山城」を築き、武器や食料を蓄えていたのではないかと考えられるものです。つまり、「神護石」遺跡の大部分は、「物部」が築いた山城ではないかと考えられ、これらは当然「六世紀」半ばの「築造」ではないかと考えられることとなります。
「神護石」と「物部」が深く関係しているというのは、「物部」の本拠地とも「象徴」とも考えられる「高良大社」のある「高良山」の「山腹」に大規模な「神護石」が存在している事、また「神護石」という「名称」も本来「高良山」に特有なものだった事からも窺い知れるものです。
そもそも「物部」は「戦闘集団」ですから、「防御」施設でありまた「戦闘」の際の基地ともなったと思われる「山城」の構築とそこに陣を敷いた戦闘に、「物部」という氏族が「無縁」であったとは考えにくいものです。
「物部」は古代より「筑紫」を防衛するための施設として残っていた「山城」を「再利用」して、強固な「防衛ライン」を構築し、「倭国王朝」の「筑紫」に対する「圧力」に対抗しようとしていたのではないでしょうか。
それを示すように『書紀』による「神功皇后」の「征討」のルートは「神護石」の分布域に沿っており、例えば「田油津姫(たぶらつひめ)は女山(ぞやま)に籠って」「神功皇后」を迎え撃っていますが、「女山」には「女山神護石」遺跡があり、この「田油津姫」がこの「神護石」という「山城」に立て籠もって戦ったことが推察されるわけです。
そして、「神功皇后」は本来「阿毎多利思北孤」の「母」と考えられることは前述したとおりであり、であればこの戦いは正に「倭国王権」と「物部」の戦いであり、「物部」の勢力が「神護石」を「山城」として防衛線を構築していたことを示すと考えられるものです。
(この項の作成日 2011/10/02、最終更新 2015/04/14)