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「猪」と「家畜」


 ところで、なぜ「磐井」は自らの業績を誇るために設置した石像などで、特に「猪窃盗犯」の裁判風景を描写したのでしょう。
 他の物品でも良さそうなものではないか思われるわけですが、ここで「猪」が特に登場しているのには、「意味」があるのではないかと考えられるのです。
 それは「当時」「猪」が最高級品であったからではないでしょうか。一番高価なものを盗んだ事に対して行なわれた「審判」の情景を「例」としてそのまま「陳列」し「展示」すると言うこととなったのではないかと推察されるものです。
 
 後に『天武紀』で「肉食禁止令」が出されますが、そこでは「且莫食牛馬犬猿鶏之完」とされ、「猪」が含まれていません。このことは「以前」から「猪」は食べて良いという事になっていたことを示すと考えられますが、その肉は「高級品」であり、「庶民」はなかなか口にできないものであり、そのため「家畜化」され、それを「盗み」転売するようなことが横行していたという可能性もあります。
 つまり、「磐井」の古墳の「裁判」の場にも表されている「猪」は「盗まれた」ものですが、それはこの「猪」が「家畜」として飼われていた「猪」であったことを表すものと思料します。
 これが「他人」が狩猟して得た獲物である「猪四頭」を「横取り」したと想定する、推定される「猪」の狩猟の実体と矛盾します。
 たとえば「埴輪」や「陶器」などには「猪狩」の描写がされている例がありますが、そこでは「猪」と格闘しているシーンと思われる例もあるなど、「猪狩」は「犬」と「人間」にとって「命がけ」であったことが判ります。
 『播磨風土記』では「応神天皇」と思しき人物が「猪狩り」を行ない、伴の「犬」が「猪」に殺されてしまうことなどが書かれています。
 つまり「猪狩」は狩猟の際には必然的に「殺され」てしまうものであったと考えられ、現場で解体され「肉」として運ばれたのではないかと思料されます。それは「丸ごと」「盗品」として裁判の場に出されていると考えられる事と矛盾するといえるでしょう。それは『雄略紀』の記事からも推測できます。
『雄略紀』には狩猟に出かけ獲得した獲物をその場で解体するという場面が出てきます。

「(雄略)二年…冬十月辛未朔…丙子。幸御馬瀬。命虞人縱獵。凌重■赴長莽。未及移影、■什七八。毎獵大獲。鳥獸將盡。遂旋憩乎林泉。相羊乎薮澤。息行未展車馬。問羣臣曰。獵場之樂使膳夫割鮮。何與自割。羣臣忽莫能對。於是天皇大怒。拔刀斬御者大津馬飼。…語皇太后曰。今日遊獵大獲禽獸。欲與羣臣割鮮野饗。歴問羣臣莫能有對。故朕嗔焉。皇太后知斯詔情。奉慰天皇曰。群臣不悟陛下因遊獵場置宍人部降問群臣。群臣黙然。理且難對。今貢未晩。以我爲初。膳臣長野能作宍膾。願以此貢。天皇跪禮而受曰。善哉鄙人所云。貴相知心。此之謂也。皇太后視天皇悦歡喜盈懷。更欲貢人曰。我之厨人菟田御戸部。眞鋒田高天。以此二人請將加貢。爲宍人部。自茲以後大倭國造吾子篭宿禰。貢狹穂子鳥別爲宍人部。臣連伴造國造又隨續貢。」(『雄略紀』より)

 ここでは「雄略」が自分で料理を作るといいだして群臣を困惑させていますが、基本的に「狩猟」は料理人を連れて行くのが原則であり、その場で調理する場合もあったらしいことが窺えますが、この場合の「禽獣」の中に「猪」もいたであろうと思われることから、「猪狩」の場合も「生け捕り」はかなり困難であり、その場で解体することが常態として行われていたことを示唆するものといえます。

 「家畜」というものが「古代」の「倭国」にもいたことは『書紀』の「大国主」と「少彦名命」の説話の中でも語られていることから推察できます。

「一書曰。大國主神。亦名大物主神。亦號國作大己貴命。亦曰葦原醜男。亦曰八千戈神。亦曰大國玉神。亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神。夫大己貴命與少彦名命。戮力一心。經營天下。復爲顯見蒼生及畜産。則定其療病之方。又爲攘鳥獸昆虫之災異。則定其禁厭之法。」(『神代紀』第一巻第八段より)

 ここでは「畜産」と書かれているだけであり、どのようなものが「家畜」とされていたかはっきりしませんが、一番可能性のあるものが「猪」ではないでしょうか。
 『天武紀』にあるような「禁止された」他の動物よりは「猪」の方が考えやすいでしょう。基本的に「食用」以外に用途がありませんし、一頭から採れる肉量も多いですから「繁殖」さえうまくいけば有効なタンパク源として機能させられるでしょう。もちろん、狩猟に伴う危険性が減ることや、常に狩猟を続けなければならないという逼迫性が減少するということも重要です。
 そのような「家畜」の存在は『播磨風土記』に「猪」を「放し飼い」にしたという記事があることからも推定できます。

「播磨風土記賀毛郡山田里の条」「山田里土中下 猪飼野 右 号山田者 人居山際 遂由為里,名猪養野 右 号猪飼者 難波高津宮御宇天皇之世 日向肥人朝戸君 天照大神坐舟於 猪持参来進之 可飼所 求申仰 仍所賜此処 而放飼猪 故袁猪飼野」

 ここで「猪」を「放し飼い」にしたとされていますが、「飼う」事とした理由については当然、安定的食料供給源として考えたためであると推察できますから、いわゆる「家畜」として考えるべきものでしょう。
 また、これは後代の例ですが、『聖武紀』では「私畜」している「猪」を「解放」するように「詔」が出ています。

「天平四年(七三二年)秋七月丁未条」「詔。和買畿内百姓私畜猪■頭。放於山野令遂性命。」

 これはこの年「天候不順」などで「凶作」が予想されたために、(この直前の「詔」では、「從春亢旱。至夏不雨。百川減水。五穀稍彫。」と表現されています)「聖武」が自らの不徳の至りとして「大赦」などを行なった一環として、「私畜」している「猪」などについても解放するように指示を出したものです。この「私畜」という表現からは、やはり「猪」が「飼われていた」ことを示すものです。このような「猪」の飼育というものはかなり以前から(天武紀の禁止令以前)行なわれていたものではないでしょうか。それを示すのが、「猪養」という「姓」(かばね)があり、またそれを名を持つ人物がいたことです。

「養老七年(七二三年)春正月丙子。天皇御中宮。授從三位多治比眞人池守正三位。…正六位上引田朝臣秋庭。河邊朝臣智麻呂。紀朝臣猪養。」

 たとえば「牛養」「馬養」「犬養」(犬飼)はいずれも「部民」であり、それを職掌としていた氏族があったこと、それは「官」として存在していたものであり、「王権」に深く結びついていたことを表すものですが、同様に「猪養」という名前もそのような「職掌」があったことを示すものと考えられます。それが「猪使氏」ではなかったかと思われ、彼等は後の「宮城門」(「偉鑒門」)の整備にも活躍しています。

「日本後紀卷二逸文(『拾芥抄』宮城部)延暦十二年(七九三)六月庚午【廿三】」「同年六月庚午。令諸國造新宮諸門。尾張美濃二國造殷富門、伊福部氏也。越前國造美福門、壬生氏也。若狭越中二國造安嘉門、海犬耳氏(海犬甘)也。丹波國造偉鑒門、猪使氏也。但馬國造藻壁門、佐伯氏也。播磨國造待賢門、山氏也。備前國造陽明門、若犬甘氏也。備中備後二國造達智門、多治氏(多治比)也。阿波國造談天門、王手氏也。伊與國造郁芳門、達部(建部)氏也。」

 「猪」を「使う」といっても、意味は不明ですが、「猪養」(猪飼)が転じたものとも考えられ、「家畜」として「猪」を飼養することを「職掌」とする氏族がいたことを推定させるものです。
 そのような氏族がかなり大きな勢力として扱われているらしいことは、「猪」の肉がほぼ「王権」専用であったらしいことを推測させるものであり、それを盗んだ人間が厳しく罰せられたというのが「磐井」の「墳墓」の様子から窺えるものです。

 ちなみに、この家畜化された「猪」を「豚」であるとする理解もあるようですが、そうとは思われません。「豚」は「猪」を人間が家畜化したものであり、そのためにはかなりの時間(年月)を要します。当然「猪」と「豚」は見た目もそうですが、区別がされてしかるべき別の動物であることとなりますが、『書紀』の中では「猪」という名称しか現れません。しかも「応神紀」では「猪」を狩るのが命がけとされていますから、これは明らかに「豚」ではないと思われます。
 また「猪」は本来野生動物ですから、「豚」のように「柵」で仕切った狭い場所(檻など)に入れて飼育するというようなことは困難であったと思われます。それは当然「放し飼い」というスタイルとなったものと思われますが、これを(献上するために)捕らえて縛り上げるというようなことは誰にもできることではなく(「猪」は「猛獣」ですから)、専門の職掌がいたであろう事は想像ができ、それが「猪使部」という名称に現れていると思われます。

 ところで「猪」を家畜として飼育していたとするとその用途の第一は食用とするための「肉」の確保と考えられる訳ですが、そのためには「屠殺」の必要があります。それには「利器」(刃物の類)が必要です。特に切れ味が鋭くなければ「一太刀」では殺せません。「屠殺」の方法としては「崇峻」の記事にあるように「首」を切り落としていたと思われますが、そのためには「剣」の腕も「切れ味」も良くなければならないとすると、それに従事した「猪使」(猪飼)達は特別に訓練されていたと考えられると共に、「命」を奪い「血」を流させるという意味で「畏怖」され「嫌われていた」とも考えられます。このような職掌は「解部」との関連を考えさせられるものでもあります。
 「解部」は「犯罪」の取り調べから「刑」の執行まで行なっていた下級官吏であり、その際には「剣」や「杖」「笞」などの道具を使用していたと考えられますから、その取り調べなども「拷問」や「杖」などによる「脅し」を含んでいたものと見られます。彼等も「死刑」の一種である「斬首」の際にはその切れ味鋭い「剣」と「技」でこれを行っていたものと思われますが、(当然のように)一般からは「畏怖され」「嫌われていた」と思われます。


(この項の作成日 2013/06/06、最終更新 2015/05/01)