『魏志倭人伝』の解析で明らかとなった「戸」の実態からは、「戸」が「親族」のような集団で構成されていると理解した場合、当時の人口として多すぎると言うことが言われます。逆にそれ以降の時代の人口の方が少なくなるという可能性が指摘されており、それはそもそも『倭人伝』時点の人口推計が多すぎるというのが理由の一端であるともいわれる訳です。
従来は「戸」を「家族」として考えてはいるものの、その実数として五~十人程度の人がその中に含まれるとしていました。しかし、それでは多すぎるのではないかという訳です。
この議論の内容をよく見ると、「倭国」の領域が「九州島」と「本州西半部」だけであるとすると、「戸」は「人」と一致すると考えられるのに対して、「近畿」も含むものとすると「戸」は「家族」あるいはそれ以上とする方が整合するというものです。つまり、「倭国」の範囲をどこまで取るかによって「戸」の意味が変化すると言うこととなります。
しかし、既に考察したように「戸」と「家」の関係から「家」の数と「戸数」はほぼ等しいと考えられることとなり、「戸」と「人」とが一致するとは考えられないこととなりました。このことは「家」に居住する標準的家庭の家族構成がそのまま「口数」(人口)になるということと思われます。
漢代には(『漢書地理志』の記載から)「一戸」あたりの口数は五人程度と考えられますが、「魏晋朝期」でもそれと大きく異ならないと思われます。
ところで『倭人伝』には総戸数の表示がありません。これは「倭国」王権が把握していなかったか、あるいは魏使に対して情報の開示を行わなかったかいずれかと思われますが、試みに記事の戸数表記などから総戸数を計算してみます。(ただし「家」=「戸」と考える、また「餘」という表現を全て「一」と一旦理解した場合)
「一大國」「有三千許家。」→「三千」
「末盧國」「有四千餘戸」→「四千百」
「伊都國」「有千餘戸」→「千百」
「奴國」「有二萬餘戸」→「二万千」
「不彌國」「有千餘家」→「千百」
「投馬國」「可五萬餘戸」→「五万千」
「邪馬壹國」「可七萬餘戸」→「七万千」
この合計は「十五万二千三百戸」となります。これに「戸数」が示されていない「他の諸国」(二十一国)を加えると(一国千五百戸程度と考えて)「十八万三千八百戸」となります。「遠絶」の国の戸数を仮に「倍」に考えても大体「二十万戸」という数字が得られます。ただしすでに検討したように『続日本紀』に書かれた「筑紫諸国」の『庚午年籍』が七百七十巻であったということから考えて、「邪馬壹国」と「投馬国」の戸数には疑義があると見られ、これは実数として半分程度ではなかったかと見られることとなりました。それを含んで算定した場合「総戸数」として最大十五万戸程度が推定できます。
しかもこの場合「投馬国」の領域が後の「隼人」の領域を含んでいるらしいことが重要です。
しかし、これと食い違うのが『隋書俀国伝』に示された「戸可十萬。」という数字です。これでは相当程度減少している事となってしまいます。また、『隋書俀国伝』では「…經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。…又經十餘國、達於海岸。」としていますから、これが「倭国」の境界であるとすると「対馬」「壱岐」を加えても「二十国」を超えないものと推定されますが、それに対し『倭人伝』においては「女王」の統治範囲の国数として「略載」可能な「七国」と、「遠絶」しているためそれが不可能な「二十一国」の計「二十八国」で構成されているとされますから、国数としても大きく下回っています。結局「戸数」も「国数」もほぼ『隋書たい国伝』付近では約3分の2程度に減少していると考えざるを得ないこととなります。
このように「戸数」も「国数」も大きく減少しているとすると、それは即座に「倭国」の領域そのものが減少したことを示唆します。しかし「遣隋使」が派遣される「六世紀末」以前、「五世紀」の「倭の五王」時代には「拡張政策」がとられたと見られ、倭国領域が増大したはずであるのに、逆に減少しているというのは不審といわざるを得ません。
また、「戸数」も「国数」も相当程度減少しているわけですが、もし一国あたりの「戸数」に変化がないとすると、総人口もおよそ半減していることとなりますが、それは即座に一つの「国」の広さには大きな変化がなかったであろう事が示唆され、『隋書』に記載されている「国」の実態は『倭人伝』に言う「国」(クニ)と大きな差がないことを示すこととなります。それは『常陸国風土記』などの表記からも推察され、それまでの「クニ」を再編成したと見られる「広域行政体」としての「国」の成立は「遣隋使」以降であることがここでも強く推定されることとなるでしょう。つまり『倭人伝』以降『隋書たい国伝』までに極端に「口数」が増加するような大家族制が成立していたという推定が成立する別途証明がない限り、「口数」も変わらなかったであろうと考えられるわけですが、それはまたこの「三世紀以降七世紀」まで「戸籍制度」に大きな変化がなかったと考えられることからもいえるものです。
たとえば、「正倉院文書」によれば「筑紫」や「常陸」などでは「両魏式戸籍」に類似する様式が確認できますが、さらに以前に国内で行われていたものは、「西晋時点付近」に起源がある「西涼式」といわれる戸籍でした。この戸籍は「美濃」地方で行われていたことがやはり「正倉院文書」から確認できますが、その起源から考えて「美濃」だけではなく「倭国内」ではかなり以前から行われていたことが推定されます。
また「両魏式」の戸籍が「北魏」以降「隋」まで続いていたものであり、「倭国」と「北朝」の関係を考慮するとそれが倭国内に伝来したのは「遣隋使」によるという可能性が高く、「六世紀末」から「七世紀初め」のことではなかったかと考えられることとなりますが、そのことから逆に「三世紀」から「七世紀」までの「倭国」では同じ戸籍制度(西涼式)が継続していたという可能性が高いこととなります。
もし一戸あたりの「口数」が変化したとすると、そのためには兵役制度や班田法など、「戸籍」と連動した制度改定があったものと見なければなりません。それがなければ基本的には「家族制度」にも変化はなかったと見るべきだろうと思われます。
「家族制度」というものは「戸籍」を通じて「社会全体」につながっているものであり、「社会」はそれを規定する「律令」など権力との関係で変化するものと思われますから、「村落」に関わる制度や「兵士」などを規定した軍制の変化など、社会を規定する要素の変動がない限り、その構成単位である「戸制」も変化しないと考えらます。(というより「隋使」や『二中歴』において「年始」以前は「結縄刻木」であったという趣旨の記事があることから考えて、「卑弥呼」「壱与」の時代以降かろうじて行われていた中央集権的制度や「律令」らしきものは「崩壊」したものと思われ、「戸籍」なども「中央」の指示によって作られるというようなことはなくなっていたと思われますが、他方「倭国中央」ではなく「諸国」には当時行われていた「戸籍制度」である「西涼式戸籍」というものがあたかもタイムカプセルに入ったように保存されていたという可能性が高いと推量します。それは「美濃国」など諸国における「地方王権」が独自性、独立性の元に存立していたことを示唆するものであり、それが後に「両魏式」制度を受容しない土壌を作っていたものではないでしょうか。)
また生産性が上がって「単位収量」が増加した結果、人口増につながりそれが「口数」の変化になるという考え方もあり、それは一面真理ではあるものの、この当時全員が農民であるわけでもなく、日本は海岸線が非常に長い国ですから、多数の「漁民」もいたわけであり、近代日本においても「漁村」あるいは「半農半漁」という村落は非常に多かったと見られるわけですから、「農業生産性」の向上が仮にあったとしてもそれが「人口増加」には直結しなかったと思われます。また、仮に関係があったとしてもそれが一概に「口数」の変化(増加)になるとは限らないと思われます。さらにそのような収量の増加ということは必ず「班田制」など制度の改定や充実に伴うものと思われ、そのようなものが「遣隋使」以前にはなかったであろう事を考えると、一戸あたりの口数の増加に直結するような収量増大は起きていなかったと見るべき事となるでしょう。
「家族」の構成というような基本的構造の変化は国家の骨格に関わることであり、何らかの外圧など「爆発的要素」がない限り、「準静的変化」(ゆっくり変化していく)の範囲に留まると考えられます。少なくとも、「三百年間」で「口数」は大きく増加したにもかかわらず「戸数」には変化なしというような事態ははなはだ考えにくいと思われるわけです。
そう考えると、この『隋書俀国伝』時点で「戸数」が減少している理由を社会制度や生産性というようなものとは異なる次元の中で捜さなければなりません。そのような観点から見て、可能性があるのは「天変地異」と「戦争」ですが、人口が半減するような天変地異が起きたと考えるのは少々困難です。「地震」「津波」などによる場合は「海岸線」や低標高地帯に居住する人々には多大な影響はあるでしょうけれど、それ以外であれば影響はまだしも小さかったと考えられますし、ボーリング調査などから瀬戸内沿いにこの時代に巨大地震があった或いはそれに伴う巨大津波があったという証拠は見つけられていません。
また「疫病」によって多くの人々が亡くなったという可能性も考えられますが、当時道路等の交通手段が不十分であったと思われますから、「エピデミック」が起きたとしてもさすがに「半減」するほどの拡散は想定が困難です。それよりも原因として合理性があるのは「戦争」ではないでしょうか。
(この項の作成日 2013/05/24、最終更新 2018/02/23)