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「和名抄」と「庚午年籍」


『和名抄』をさらに検討してみることとします。

 ところで、『隋書たい国伝』によれば「軍尼」と呼ばれる「役職」(官?)の支配する領域の戸数は八〇〇戸となり、それが120集まって倭国の全領域であるとされ、その戸数として十万戸弱であるとされます。(計算では九六〇〇〇戸)
 ところで、評制下の戸数は七五〇戸とされ、「軍尼」の支配する領域とほぼ同じです。これは「五十戸制」が導入された時点で「五十戸」が15集まって「評」を形成することにより、それ以前の「集合体」の「八〇〇戸」という戸数と規模に大きな差が出ないように工夫されたものと思われます。このような戸集団が当時の倭国で重要な単位であったらしいことが窺われ、かなり以前から「八十戸制」が根付いていたらしいことが推察されます。そしてその「評」はその後「郡」にほぼ横滑り的に組織替えされたものと思われますが(もちろん単純に「評」が「郡」となったわけではなく制度全体として改変されたとみられるわけです)、そこから逆算すると後の「郡」が『隋書たい国伝』で「軍尼」が管掌していた領域にほぼ等しいということとなるでしょう。

 ところで『庚午年籍』の「筑紫諸国七百七十巻」という巻数は「里(五十戸)」の数を表すとみたわけですが、またその「庚午」という年次からみても「庚午年籍」は「評制」下の戸籍であったはずであり、「評」の戸数として七五〇戸で構成されていたと思われます。(この「庚午年籍」は「評」ごとにまとめられていたものと思われるにも関わらず、ここでは「総巻数」だけの表示とされており、巧妙に「評」という制度を隠蔽していると思われますが)
 このことから「七百七十」という巻数が示す「筑紫諸国」の「評」の数を逆算すると約「51」となります(770×50÷750≒51)。上にみたようにこの「評」がそのまま「郡」へと横滑りしたとすると、「郡」の数もほぼ「51」程度となるはずです。
 実際に『和名抄』で「筑紫」を中心として「郡」の数で「51」となる領域を見てみると「筑紫・豊・肥(肥前)」の部分で「52」となり、ほぼ整合します。

地域  郡数  累計 
 筑前  15  15
 筑後  10  25
 豊前  8  33
 豊後  8  41
 肥前  11  52
 肥後  14  66

 ただし実際には「肥後」も含んだものであっただろうと思われ、その場合郡数として「66」となりやや差異が出ますが、「庚午」の年から『和名抄』の時代(十世紀半ば)までに若干の人口増があり、その結果「郷数」「郡数」などに変化があったとみればあまり問題にすることではないのかもしれません。実際『軍防令』や『延喜式』の記載からは『和名抄』時点では「郡」の戸数として「千戸」程度あったとみられ、それを踏まえて上の表から計算すると1郡当たりの郷の数は平均で「7郷弱」となります。
 元々の「軍尼」が管掌していた「里」の数は「10」であったものであり、「評」では「15」となっていたものですが、それがこの時点では「10以下」に減少しているわけです。しかも「郡」の戸数としては逆に増加しているというわけですから、「郷」の戸数が増加したことにならざるを得ず、計算すると「150戸弱」となります。これは明らかに「評」や当初の「郡」の戸数として想定される50戸から大幅に増加したことがうかがえ、「里」から「郷」へと変更される時点付近で「組み換え」が行われたらしいことが推察され、合併などによりほぼ倍以上3倍程度までの規模になったものと推定されます。この辺りは前回の考察で言及したことと重なるようです。

 ただし、このことはまた『隋書俀国伝』に書かれた「120」という「軍尼」の支配していた領域数と全戸数として「九万六千戸」(十万戸弱)についてはとても「近畿」までは届かないということにもなりそうです。
 『和名抄』において「郡」の戸数を千戸とみて概算すると「10万戸」になるには「100郡」で足りてしまいます。
 実際に計算すると「100」という郡数は(上にみた「筑紫諸国」のほかには)「伊豫・讃岐」「長門・周防」程度しか含みえません。

地域   郡数  郡数累計
 筑紫諸国  66  66
 伊豫  14  80
 讃岐  11  91
 長門  5  96
 周防  6 102 
これらのことから『庚午年籍』における「筑紫諸国」とは「筑紫・豊・肥」という「九州倭国王朝」の「中心領域」を指すものであり、「日向」はその範囲ではなかったのものと推察されることとなります。当然「大隅」「薩摩」はその領域外であったこととなるでしょう。
 また「120」あり「九万六千戸」あるという「倭国」の範囲とは「四国」半分と中国地方の1/3程度あるいはもっと少ない領域となる可能性が高いと推定します。この推論は以前のものとは異なりますが、こちらのほうが妥当と思います。

 実は以前別のアプローチから同様の結論を出していました。それは『倭人伝』の「戸数」「クニ数」と『隋書たい国伝』記事を比較した記事です。(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/180bc96bb3b9fb37570e650033733c6d 以下の記事)
 2015年に行ったこれらの考察の中では『倭人伝』の中での「邪馬壹国」の率いる領域として「明石海峡付近」を境界としてその西側という考えを示していました。そして『隋書俀国伝』によればそれよりも狭くまた戸数も少ないことから「四国」の半分「中国地方」の1/3程度をその時点の「倭国領域」と考え、そのような領土縮小となった原因として「磐井の乱」が最も想定できると考え、考察したことがあったのです。しかし最近「七百七十巻」が示す「38500戸」という戸数を眺めているうちに別の考え方もできるのではと思い、考察してみてやや「迷路」にはまり込んだというわけです。
 しかしやはり当初の通り『隋書俀国伝』時点の「倭国」はかなり狭い領土であったものであり、それを拡張する動きが六世紀末から始まったとみるべきと考えるようになりました。つまり「倭の五王」時点で拡張された「倭国」の領域は六世紀に入り一旦九州周辺の狭い領域に押し込められたものであり、再度それを拡張する動きが7世紀に入って始まったとみられ、それが「東国」における「前方後円墳」の築造停止につながっていると考えられるものです。


(この項の作成日 2018/03/14、最終更新 2020/03/21)