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戸数の変遷と「磐井の乱」(二)


 「戸数」や「国数」の大幅な減少の原因として最も考えられるのが、「戦争」であると見たわけですが、そもそも「戦争」とは「土地」及び「人」の奪い合いですから、その結果によって当然「戸数」も「国数」も変動するでしょう。そして『隋書俀国伝』(六世紀末)と『魏志倭人伝』(三世紀半ば)の間においてそれに該当するような大戦争があったかというと、考えられるのは(当然「五世紀」の「倭の五王」以後のこととして)、「六世紀始め」に起きたとされる「磐井の乱」が最も疑われます。

 『書紀』からはこれ以外には「戦争」とみなせるような大規模な反乱などは見出せません。しかもその内容は「国」を二分するというようなものでしたし、記録からは「磐井」側の一方的敗北となっており、これはいってみれば「大本営発表」のようなもので、かなり実体から誇張されて書かれてあるのは確かとは思われるものの、結果として「磐井」側に不利な状況が出現したことは間違いなく、そのことが「倭国領域」の大幅な減少として現れたと見る事ができそうです。

 「磐井の乱」の際には「継体」から「物部麁鹿火」に対して以下の「詔」が出されています。

 「…天皇親操斧鉞。授大連曰。長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。」(継体二十一年秋八月辛卯条)

 この「磐井の乱」時点での分割統治提案においては「筑紫以西」と書かれており、『風土記』の記事からも「磐井」が「筑紫」を中心とした領域に君臨する「倭国王」であったらしいことが推定できますが、これが実現した場合この時点以降「倭国」の統治範囲が大幅に狭まったことと推定できます。(実際に「長門以東」「筑紫以西」というように分割されたとは思えませんが)
 つまり「磐井の乱」が実際に起きたとすると、「倭国」王権はかなりの痛手を被り、支配領域はかなり狭まったものと思われることとなります。ただし、逆に言うと『書紀』の記事からも「筑紫以西」は元々の「倭国王権」の直接支配領域であり、そこは「継体」(に「擬されている」近畿王権の王者)にも手の届かない領域であったことが推定できるでしょう。そしてそれは「卑弥呼」時点において「女王国以北」は「略載できる」とされた諸国の範囲にほぼ重なるものと考えられるものです。

 このように「戦争」により「国数」と「戸数」が大幅に減少させられることとなったと見ると『倭人伝』と『隋書俀国伝』の間の状況の違いについて説明が可能であると思われます。
 このことは「磐井の乱」の真偽にも関わってくるものであり、この倭国の状況の変化を端的に表すものとして「戦争」が考えられることと「磐井の乱」という『書紀』の記述は良く重なるものであり、それは「磐井の乱」は実際にあったと考えるのが相当であることを示すと思われます。

 もしこれらの推定が正しいとすると、『魏志倭人伝』に示されていた「卑弥呼」率いる「邪馬壹国」がその中心王朝として「統治」していた範囲(約三十国)は、その領域に含む国の数や推定される戸数から考えて、近畿以東の「北陸」や「中部」「東海」の一部程度まで延びていたであろうと推察できることとなりそうです。
 ただし、当時の統治形態は「邪馬壹国」の統治範囲(特に近隣諸国)には「邪馬壹国」から「官」を派遣し、その「国」の王に代わり統治権を執行する体制であったとみられますが、遠距離諸国(特に近畿以東)は「周」のように「倭国王」たる「邪馬壹国王」の「権威」を認めさせる代わりに「自治権」を与えていたものと推量され、たとえば「近畿」に「王」たる人間には「明石海峡」以東をその境界線として「自治」を認めさせていたことと推察されます。つまり「郡県制」を布いていた領域の他に「遠絶」とされた諸国があったわけであり、そこには「王」が存在し「自治」を行っていたと見られるわけです。

 「狗奴国」との争い以降これら「倭国領域」の中から「狗奴国」王に賛意を示し、また忠誠を尽くす国が出はじめ、以前から「官」を派遣していた領域である直轄領域とそれに準じる程度の距離にある諸国に「卑弥呼」の統治領域は限定されたものとみられ、その境界は先に行った戸数推定から考えて、「北陸」「東海・信濃」付近を東限とする範囲が推定できるでしょう。そして、それ以東は「狗奴国」を中心権力とする「女王」の統治を拒否していた領域であり、「関東」以北の他「北陸」「信濃」「東海」の一部がその勢力範囲であったものと推定できると思われます。

 ちなみにこの段階での戸数が「十五万戸」程度として考えると、『漢書』が示すように「一戸」あたりの「口数」(居住者数)を五口として計算すると、約七十五万人が「卑弥呼の倭国」人口であったと推定できます。またこのことは「旧百余国」「今使訳通ずるところ三十国」という表現と重ねてみると、実際の「列島」全体として「旧百余国」あるとした場合、総人口はその三倍強の二五〇万人程度であったかと考えられることとなるでしょう。


(この項の作成日 2013/05/24、最終更新 2018/02/23)