ホーム:倭国の六世紀:「磐井の乱」について:

「磐井」の乱の真実


 墓制(形式、材料など)が示すように「倭の五王」の国(倭国王権)の中心領域は「九州」(特に「肥後」)であると思われますが、それ以前はというと、倭国は「筑紫」にキをおいていたものと思われます。

 三世紀の「邪馬壹国」の以前から「筑紫」は倭国の首都であったと思われます。その後も「筑紫」(「福岡平野」)を首都領域として存在していたと思われますが、「倭の五王」の初代王「讃」の頃(あるいはその前代)に各地に征服戦を開始し、倭国の支配領域の拡張を図るようになると、「筑紫」の地は海に近く、朝鮮半島からも侵入が容易であり、海外からの侵攻に対する防衛、ということを考えるとあまり良い場所ではないと考えられるようになったものでしょう。このため、筑後川の後背地である「筑後」あるいは「肥後」に本拠(キ)を遷し、ここ「本拠」として列島の「内外」に「征服行動」を行っていたものと推察されます。
 「近畿」地方はこの征服戦により(あるいは脅迫、強制)により「服属」を強要され、「附庸国」となっていたのです。その結果倭国本国(肥後)と共通墓制を強要され、材料も「肥後」から調達が義務づけられていたのだと考えられます。
 これが四世紀後半から五世紀前半にかけての話です。しかし、その後(『書紀』によれば)「五三一年」に「磐井の乱」が起きます。
 「磐井」は「倭の五王」から続く「倭国王」と考えられる訳ですが、(「武」の後継者と考えられます)、彼は「筑紫」の地を「直轄」領域として組み込み、「肥後」から「筑紫」へ首都を移転させたものと思われます。

 倭国王が筑後川以南に遷都していた間、「旧都」である「筑紫」を守護すべき職掌が必要であったものであり、それを担っていたのが「武門」を旨とする「物部氏」であったと思われます。
 「物部」はその武力で倭国王権に仕えてきていたものです。彼らは倭国王権を軍事面で支えるとともに「旧都」である「筑紫」を守護する役目(これは後の「都督」に相当するか)に就いていたものと推察されます。
 そのような「武門」という部分は「物部」の家風(伝統)であり、そのために「エリート」意識も高かったものと思われます。
 「倭国王」の側近としては「大伴」「久米」などがいたものですが、彼らと違い「物部」は彼らほど「王」の近くにいたわけではなくいわば「独立」しており、明らかに「王」と同等に近い「力」を所有していたものです。それは「神話」において「物部氏」の祖とされる「饒速日」が「皇孫」である「瓊瓊杵」など「倭国王権」よりも先に「天下り」していたと記されることでも了解できます。その「筑紫」を倭国王(「磐井」)が「直轄」することになり、そのことに「物部」が不満を感じ、反発したのではないでしょうか。

 「磐井の乱」は実は「物部の乱」であると見られるわけですが、「物部」が反乱を起こした理由の一つには「磐井」が対外戦争を止めたことがあると思われます。「磐井」はそれまでの拡張政策を停止し、倭国本国とその附庸国内に「律令」を公布し、官僚制を施行して、南朝からの自立を目指したと見られるわけですが、このような政策は「武門」でその地位を固めていた「物部」にとってみると、まるで自分たちが不必要な存在になってしまった、と感じさせる性格のものではなかったでしょうか。
 彼らは言ってみれば「職業軍人」のような存在ですから、「戦闘」がないという状態は「困る」わけです。自分たちの優越性を保持することに対する不安が、クーデターに走らせる原因となったのではないかと思われます。
 もっとも「磐井」にしてみると、もう国内に征服すべき国がなくなった、と言う感覚もあったことと思われます。
 事実として、ある程度の近距離の国は全て服従させたことと思われ、「磐井」にしてみれば、後は内政の充実を図るのは当然だったかもしれません。また「南朝」から希望した将軍号など統治の信任と拡大に対する保証が提示されなかったことも「拡張政策」を停止させる条件として存在していたという可能性もあるでしょう。しかし、そのことが「物部」に対する敬意を失わせることになるとは考えなかったのでしょう。それに「物部」が強く反発したのだ、と思われます。
 また仏教の伝来に対する「磐井」とその前代の王である「武」の態度が「物部」などの「古神道」(鬼神信仰)に対する傾斜が深かった氏族にとっては大いに問題があったことと思われます。そのことを示すように「継体」の「物部麁鹿火」に述べた言葉に「社稷存亡於是乎在」というのがあります。ここでいう「社稷」とは通常「国家」のことと言われますが、それ以上に、「社」が「土地神を祭る祭壇」であり、「稷」が「穀物の神を祭る祭壇」のことですから、これは「神道」の重要な儀式である「土地の神や穀物の神を祀る」行為自体の「存亡」がかかっている、という意味と考えられ、「対磐井」戦が「反仏教」という意味もあったことを示しています。

 『筑後風土記』によれば「物部」の反乱により、倭国王「磐井」はやむなく「豊前」に逃れたとされていますが、その後かろうじて「肥後」領域まで逃げたのでしょう。「磐井」の時代にも「豊」は有力な「附庸国」であり、そこを経由して本国である「肥」へ避難したものでしょう。ここは「倭国」の「本国」ですから、一種の安全地帯であると考えられます。
 しかし、「古都」である「筑紫」は「物部」の支配するところとなり、形の上では以前と変わらないようですが、内実は全く違い、「倭国王」は追放された形となってしまったのです。
 このことに関して、古賀氏は「倭国王」が(一時)「物部」であったという考え方をしており、さらに「七〇一年以前に『物部』が九州を統治していた」という見解であるようですが(※)、それには従えません。
 上に見たように「物部」が「筑紫」を占拠、支配していた時期があったのは確かであると思われますが、そのことと「倭国王権」の所在とは別であると考えられます。
 「磐井の乱」が(古田氏が主張するように)架空であったとしても、古賀氏の立場は「筑紫を物部が支配していたのは事実」とするものであるようですから、そうであるとするとその「筑紫支配」が始まった時期はいつのこととしているのかが問題となるでしょう。それが「以前から」であるとすると、「五世紀」の「倭の五王」も「物部」となってしまいかねません。しかしそうは思われません。そう考えないとするとそれ以降どこかで「物部」が「筑紫」に支配権を確立したこととなります。しかし、それが「七世紀」に入ってからと考えるわけにはいかないでしょうから、「六世紀前半」として描かれている「磐井の乱」というものの現実性が注目されるべきではないでしょうか。

 また「七世紀末」まで「物部」が「筑紫」を支配していたとすると「六世紀後半」として描かれている「物部守屋」の滅亡の記事の意義が不明となるでしょう。
 「筑紫」を支配していた言い訳として「磐井の乱」が書かれたのならば「守屋の滅亡」はいってみれば「余計」なわけです。
 少なくとも「物部」には「王権」の「正統性」も「大義名分」もなかったと見るべきであり、これが「長期政権」となったとは考えられません。この「磐井の乱」の表現からも「物部」側の攻撃の方が「奇襲」であり、いわば「クーデター」であるのは間違いないと思われます。
 このような形で「戦い」が始まっているのは「大義名分」を保持していないのが「物部側」であることを如実に示しています。そしてこの「磐井の乱」と対を成すのが「六世紀末」のこととして書かれている「物部守屋滅亡」という事件です。
 つまり、「磐井の乱」で始まり、「守屋滅亡」で終るストーリーが構築されているように見えるわけですが、これを見ても「物部」の「筑紫支配」は確実にあったものの、それは「正当な王権」により否定され、誅滅されたというストーリーがそこに展開されていると見なせます。このような流れをあえて「造作」する必要性は全く感じられず、これがかなりの程度「事実」に基づいていると考えるのは不自然ではないと思われます。
 いずれにせよ「物部」が「筑紫」を支配していたのは「事実」であるといえるわけですが、『書紀』編集段階では明らかに「物部」は一介の氏族であり、「倭国王」ではないのですから、「正当化」しなければならない逼迫性に欠けるのは明らかであると思われます。

 ところで「磐井の乱」を記した『風土記』には末尾に「古老」の言葉として以下の内容が書かれています。

「古老傳云:「當雄大跡天皇之世,筑紫君磐井,豪強暴虐,不偃皇風.生平之時,預造此墓.俄而官軍動發,欲襲之間,知勢不勝,獨自遁于豐前國上膳縣,終于南山峻嶺之曲.於是,官軍追尋失蹤.士怒未泄,?折石人之手,打墮石馬之頭.」古老傳云:「上妻縣,多有篤疾,蓋由茲歟.」

 これによれば「物部軍」の兵士が「石人」「石馬」の手や頭を打ち落としたことが、現在の「上妻縣」に不具者の多い原因であるというのです。これは一種の「祟り」あるいは「酬い」と言うことを意味していると思われますが、「祟り」や「酬い」を受けるのはその当事者あるいは直系親族であるはずですから、現在の「上妻」の人々の多くは「物部軍」の兵士あるいはその子孫であったと言うこととなります。
 彼等は「近畿」から「総大将」である「物部麁鹿火」と共にやってきたものと思われますから、これは「屯田兵」であって「武装植民」を行なったと見られることとなるでしょう。これは「倭の五王」の時に「九州王朝」側が行なった政策の裏返しを行なったと見ることができると思われます。


(※)「九州王朝の物部」(「古賀事務局長の洛中洛外日記」第二〇七話 二〇〇九年二月二十八日より)


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2017/07/23)