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「岩戸山古墳」の生前造営の意味するところ


 古代においては、前王が死去した後の「殯(もがり)」とは通常「蘇生」を願う「魂ふり」が行われ、その後「蘇生」が適わないとなった時点で「魂鎮め」へと移行するとされますが、本質的には「次代」の王を選定する期間でもあるとされます。つまり前王の生前には次代の王は予定されておらず、前王の死後決定されることとなるわけです。(※)
 「倭の五王」の時代「済」の死後、後継者として「世子」である「興」が選ばれたようですが、それが生前から決めてあったことなのかは疑問です。つまり「直系相続」というスタイルが既に決まっていたのかというとそうではないと思われるわけです。それはその直前の「讃」から「珍」への交替において「兄」から「弟」へと継承されたらしいことからも推測できます。(ただし「珍」と「済」の関係は不明)
 つまり「興」の場合のように「世子」とされることとなったのは「前王」の死後であり、皇族や臣下などの間で協議により決められたものではないかと推測されるわけです。
 たとえば、「推古」の死後「山背」と「田村」双方の皇子について、それぞれを推す臣下間で協議が行われたように、さらには『懐風藻』にあるように「皇太后」が主催して各位に意見を聞く機会が設けられたように、前王の死後に初めて次代の王をだれにするべきなのかが話し合われたと見るべきでしょう。
 またこれは意見が決裂するという可能性があり、その場合争いになることもまた起こりうるということを示します。「山背」と「田村」の場合がそうと思われるわけであり、またいわゆる「壬申の乱」においても同様のことが起きたものと思われます。

 ところで、よく言われるように「殯」の期間は「陵墓」の造成期間でもあると思われます。「殯」の後葬儀が行われるという推移からいうと、「陵墓」が未完成では「葬儀」を行うことはできないわけです。しかも「葬儀」では「誄(しのびごと)」が奏されるわけですが、そこには「日嗣ぎの次第」が含まれており、「後継者」が決まらなければ「日嗣ぎ」も述べられず、「誄」を奏することもできないこととなります。
 つまり葬儀が行われるためには後継者が決まっていると共に陵墓が完成している必要があることとなるでしょう。当然それには時間(日数)が必要ですから、ある程度の期間が「殯」の期間として確保されていたということを示します。

 これらのことを考えると、注目されるのは「磐井」の場合です。
 『風土記』によれば彼(磐井)は生前から陵墓を築いていたとされます(「岩戸山古墳」がそうであるとされている)。

「上妻縣.…古老傳云:「當雄大跡天皇之世,筑紫君磐井,豪強暴虐,不偃皇風.生平之時,預造此墓.…」『筑後國風土記』

 上に見たように陵墓の造成期間が次代の王を選出する期間であるとすると、「磐井」の場合、生前のうちに「次代の王」つまり「日嗣ぎの皇子」が選定されていたこととなる可能性があるでしょう。(というより複数名の皇子がいて彼等の間に優先順位がつけられていたという可能性があると思われます。)
 このようないわば「念入り」のことが行われた背景には「武」の「父兄」が一気に亡くなったという「武」の上表文にあるような事態が想定されていると思われるものです。

 「五世紀半ば過ぎ」に「倭国王」である「済」とその「世子」「興」等の倭国王権の主要人物が(推定によれば「天然痘」により)一挙に亡くなったと思われ、その際に、その後継が決まっておらず「末弟」で幼少であった「武」の成長を待つ間「皇太后」が称制せざるを得なくなったということが苦い経験としてあったものと思われます。そのことから生前中に後継者など「皇位継承順」をあらかじめ決めておくこととなったという事が推察されるわけです。またそれは「後継者」をめぐる争いをなくすという意味でも必要と判断されたという可能性もあるでしょう。
 「葛子」はその意味で「世子」であり、また「太子」であり、いわゆる「日嗣ぎの皇子」であったと思われ、そのため「筑紫の君」と称されているのではないでしょうか。これは「父」である「磐井」と同じ呼称であり、「筑紫」の領域の統治権を正式に「磐井」から継承していた事を明白に示しています。
 しかし、「物部」などとの戦いの最中に後継者を決める協議が行われていたとも思われませんから、「葛子」は以前から「日嗣ぎの皇子」として存在していたものと思われるわけです。「筑紫の君」として登場するのは父である「磐井」の死後一ヶ月以内のことですから、このような早さで「後継者」が決められるというようなことがあったと考えるより、あらかじめ決められていたと考える方が穏当というものです。
 また彼は「長子」であった可能性が強く、この時点で「倭国王」の継承方法として「直系相続」が決められたものではないでしょうか。

 『書紀』を見ると「仁徳」の皇太子として「去來穗別」が初めて「大兄」という「呼称」(称号?)として現れます。しかし「仁徳紀」は後代の潤色の跡が明らかであり、「皇太子」という表記もこの時代の位相にマッチしていません。これを一旦除外して考えると、「継体紀」に出てくる「勾大兄皇子」が初出といえるでしょう。その後各天皇の「長子」と思われる人物がいずれも「大兄」という表記がされるようになります。
 たとえば「欽明」の長子である「箭田珠勝大兄皇子」(この人物は早世したようです)、「敏達」の長子である「押坂彦人大兄皇子」、「聖徳太子」の長子である「山背大兄皇子」、「舒明」の長子である「古人大兄皇子」、「古人」を排除した後に「大兄」となったと見られる「中大兄」(葛城皇子)というように、各代において(「子供」がいないという場合を除き)「長子」を「大兄」とする事が行われるようになったと見られますが、これが「太子」つまり「正統」な後継者としての称号であることは明らかであり、このような人物を「生前」に指定することがいわば「ルール」として定められたとみられることとなります。
 またこれらの天皇の死去記事と陵墓への埋葬記事とが日数的に接近していることから、それら「陵墓」の造営が生前に行われているらしいことが推察され、これは「大兄」という後継者の指定と一体のものであったと見られますが、上に見た「磐井」の時点とほぼ同時期に「大兄」という制度と「生前造営」が行われるようになったことは偶然ではなく、倭国内の王や首長の継承に際して広く行われるようになった「定め」のようなものであったと思われることとなるでしょう。
 さらに『隋書俀国伝』によれば「倭国王」である「阿毎多利思北孤」の存命中に「太子」(利歌彌多仏利)が存在しているようですから、これも同様に「皇位継承者」をあらかじめ決めていたことを示すものであり、「磐井」の時代のスタイルがそのまま続いていたことを推定させます。
 そう考えると「阿毎多利思北孤」は生前の段階で「陵墓」を既に築造していたという可能性が高くなるでしょう。それは「太子」記事が「遣隋使」の言葉の中にあることから、それ以前の倭国の状況を示すものであり、年代として「五八〇年代半ば」以前という時期が最も考えられるものです。(但し場所は不明ですが)

 さらに彼(というより太子である「利歌彌多仏利」)は「殯」つまり「もがり」を行わなかったという可能性もでてくるでしょう。
 なぜなら、「殯」の期間が次代の王の選出と陵墓の造営期間であるとした場合、生前に「太子」が選定され、陵墓も造営されていたとすると、「殯」そのものがなかったと考えて不思議はないこととなります。
 彼や父である「阿毎多利思北孤」は仏教に深く染まっていたと思われますから、その意味からも「殯」という古典的であり、旧式でもあった「もがり」の儀式を行わなかったものとも考えられ、「もがり」そのものがなくなったかあるいはそれまでに比して極端に短くなったということが推定されます。それに関しては「隋帝」から「訓令」を承けたことは重大なインパクトとなったとみられます。彼らはそれにより旧来の習慣とそれを金科玉条とする勢力を駆逐する絶好の機会と捕らえた可能性があり、その意味で積極的に仏教を受容しまた傾倒していったものと思われます。

 その意味で「薄葬令」が重要です。私見では「薄葬令」は彼等が造ったものと見るわけですが(後述)、そこでは基本的には「殯」の期間は無いものとされており、先の推定を裏付けます。

「甲申。詔曰。…凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。…」

 ここでは「凡王以下及至庶民不得營殯」とあり、「薄葬令」中に見える「王以上」という言葉と比べて考えてみると「王権」の中心的人物を除いてすべての人物の死において「殯」を営むことを禁じる規定であると判断できます。(ただし「王以下」の場合、「後継者」についてはあらかじめ決めておくべしということなのか、あるいはそのような人物を「倭国中央」が指名して決めるという意味であったのかはやや判然としません)
 この事から「阿毎多利思北孤」や太子「利歌彌多仏利」の死の際には「殯」はあった可能性もありますが、それがいわゆる「もがり」というべきものであったのか、あるいは期間として相当の長さであったのかというと甚だ疑問であると思われます。
 同様の理由から彼等を遡る「磐井」の場合にも当初予定されていた「殯」の期間はそれまでに比べ相当短かった可能性があるでしょう。彼の場合にも「葛子」が「太子」(大兄か)として存在していたわけですし、「岩戸山古墳」という陵墓が造営されていたことから考えられることです。(実際には乱が起きたため「殯」を営んでいる余裕はなかったと思われるわけですが)
 そしてそれは「磐井」と仏教の関係の深さにもつながるものと思われます。

 ところで、『隋書俀国伝』には「倭国」における「葬儀」について情報があります。

「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而?。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。」

 これによれば「隋」へ派遣された使者は「倭国」の風俗について問いに答える中で「葬儀」について、「貴人」には三年間の「殯」の期間があるとしたわけです。これは「隋」から影響され「国教」としての「仏教」が導入される以前の状態を示すものですが、その背景には「磐井」に対する反乱の影響があるように思われます。
 この部分に限らず、この「風俗」について述べられた部分にはあまり「仏教的」な雰囲気が見られません。確かに「如意寶珠」に関する逸話が書かれていますが、これは「阿蘇山」に対する「火山」信仰が形を変えたものであり、根本の部分で「古典的」といえるものです。このように全体として「仏教的」な雰囲気が薄いと見られるわけですが、それは『書紀』によってもあるいは多元史観においても仏教の伝来とその信仰の興隆がそれ以前に既にあった可能性があることとやや矛盾するといえるでしょう。
 その理由について考えてみると、「磐井」が「物部」の反乱により死に至った後、国内に「鬼神信仰」への回帰ともいうべき状況が生まれていたものではなかったでしょうか。

 「物部」は『書紀』のエピソードにもあるように「反仏教」的立場にいたわけですが、では彼の行動を支配していた「信仰」はどのようなものであったかというのは明確ではないものの古典的な「鬼神信仰」ではなかったかと考えられます。
 すでに明らかとなっているように半島において「五世紀後半」という時期に「前方後円墳」が集中的に営まれます。このことが「倭国王権」による「拡張政策」の一環であり、半島において「倭国」の信仰が局地的ながら行われたことを示すものと思われますが、この「前方後円墳」は「五世紀末」に突然その築造が停止されます。このことは「武」の時代以降「拡張政策」が停止されたことを示すと思われ、「半島」や「東国」への武力侵攻や武力による威嚇などの政策はこの時点で方針が転換され、倭国の中心部において「文治政策」へと移行したものと見られます。
 「鬼神信仰」はそれまで「倭の五王」の「讃」や「珍」などの時代まで「倭国」において中心的位置にいたと思われますが、彼らと「南朝」との結びつきが強まるに及んで、当時南朝で発展し「国教」的位置にいた「道教」が国内に流入したものと思われます。
 「倭国」における「古典的」な宗教である「鬼神信仰」はその「道教」と(完全にではないものの)その一部が結びついて「王権内部」で信仰されるようになったものと思われますが、これは当時拡張政策をとっていた「王権」において「戦い」における「守護神」的な位置に置かれていたものであり、その時代にはかなり篤く尊崇されていたものと思われます。しかし「拡張政策」の停止と共に「倭王権」の立場として仏教を重んずるものへとシフトしていったものと思われるわけです。
 仏教はすべてのものに「生命」を見出す性格があり、「血」を好みません。つまり「戦い」においては「無力」というより「邪魔」であったものですが、政策の変更により状況が一変し、「鬼神信仰」やそれと同一化していた「道教」は王権から排除され、仏教がその中心に据えられることとなったものと思われます。このため「武」の治世の後半「太子」として「磐井」が定められることとなった時点以降、王権の治世の中心に仏教が据えられたものと思われますが、そのことが「陵墓」の生前造営と「太子」の生前予定という事につながっていると思われます。
 しかしそのような状況に反旗を翻したのが「物部」を中心とした「戦闘集団」であったと思われ、彼等は仏教が重視されることと、それによって排除されることとなった鬼神―道教信仰というものとを自らに重ねて考えていたものと思われます。

 自分たち戦闘集団が軽視される、あるいは排除されるような事態に対して異議を申し立てる意味で立ち上がったものと思われるわけであり、この「反乱」により「磐井」率いる「筑紫」本国の勢威が大きく低下した結果、仏教もその位置を低下させ、再び「鬼神―道教信仰」が倭国の宗教のメインストリームに出ることとなったものではないでしょうか。そのことが『隋書俀国伝』に書かれた「葬儀」の描写に反映していると思われるのです。そしてそれは「隋」の高祖から「倭国」の統治体制が「無義理」であるとして「訓令」により改めさせられたという一件につながるものと思われるわけであり、そのような祭政一致という当時の体制において「統治」体制の変革を指示されたとすると必然的に「葬送」を含めた「祭祀」全体の見直しをせざるを得なくなったものでしょう。その「祭祀」が「鬼神信仰」によるものであったとすると、それと密接な関係にある「前方後円墳」の築造とともに停止あるいは変改せざるを得なくなったものではないでしょうか。


(※)白石太一郎「古墳祭祀と神話」『国文学 解釈と鑑賞』第四十二巻一九七七年


(この項の作成日 2015/05/31、最終更新 2018/02/24)