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「天然痘」と「武」の上表文


 「倭王武」の上表文には「父と兄が同時に亡くなった」という趣旨のことが書かれています。

「…臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣…」(『宋書倭国伝』の「武」の上表文より)

 他の『宋書』の記事から「讃」の死去後「興」が即位したのが少なくとも「世祖大明六年」であり、またその死去は遅くとも「順帝昇明二年」であることとなると思われますから、結局「四六二年」から「四七八年」までの間のどこかで「興は」は死去したこととなりますが、いずれにしても「同時」と言うことはなかったと思われるものの、「相次いで」というような状況であったと思われます。このように「父」と「兄」がほぼ同時期に亡くなったと見られるわけですが、さらに「奄(とも)に」という語の中にその「死因」も同様であったことが表されているのではないかとも考えられるでしょう。
 そのことから「済」は病に犯され、そのため太子の「興」に禅譲して「倭国王」の地位を退いたものであり、その後療養中の父が亡くなった際に、ほぼ同時期に「興」も亡くなったという状況であった可能性が高いものと推量します。
 これについては、もし『推古紀』が移動するならそれ以前の「用明」「敏達」「欽明」はどうであったかということが問題となるでしょう。それを考えると、「推古」の「父」と、「兄」であるところの「欽明」と「敏達」「用明」の死去した際の状況が注目されます。

 「兄」である「用明」は「三年」という短い期間の在位の後死去しています。そしてその彼は「瘡」つまり「天然痘」で亡くなったとされます。その前代の「敏達」も「同母兄」ですが、これは二十三年間の在位期間があるものの、その死はやはり「天然痘」によるものであったと推定されています。しかも『敏達紀』と『欽明紀』は「疫病」の発生という事件が起きた点も含めて良く似ています。
 「天然痘」による国内のパニック状況が『敏達紀』に書かれているにもかかわらず、『二中歴』に言う「金光元年」が『欽明紀』に相当し、その「金光」という年号について『請観音経』という「経典」の中にその原点があると見られることと、その『請観音経』が「天然痘」のような強力な病気に対する救済としての「経典」として尊崇されていたと言うことを考えると、『敏達紀』の内容にますます近似することとなっています。
 そもそも『欽明紀』の仏像伝来記事と同様のものが『敏達紀』にあります。『欽明紀』では百済の「聖明王」からの伝来とされますが、『敏達紀』では「流れ着いた」とされます。これは明らかに重複を避けた書き方であろうと思われます。
 また『欽明紀』には書かれませんが、『敏達紀』では天下熱病があったと書かれています。(これも同様に重複を避けようとするものでしょう)
 さらにいずれも天皇は仏教の受容について群臣に相談しており、多くの反対にあって最初は「蘇我稲目」、次には子供の「蘇我馬子」が仏像を拝受しています。そして『欽明紀』では「物部尾輿」、『敏達紀』ではその子供の『物部守屋』が仏教に反対し、同じように「鋳物師」などを集め「仏像」を熔かそうとしたとしますが失敗します。
 このようにストーリーも関係者もほぼ同一であり、これは当然重出と考えるべきでしょう。(既に同様の意見はかなりあるようです)
 「重出」の基本的理解は年次の古い方が真であり、後出する方が誤認ないしは潤色と考えられます。当然この場合も『欽明紀』側の方がオリジナルであるということになるでしょう。(筑紫の「元岡古墳」から出土した「四寅剣」も「庚寅年」に作られたとされ、その年次として「五七〇年」が措定されていますが、その由来から考えても「天下熱病」という事態に対応するためのものという理解が可能ですから、ますます『欽明紀』にこそ「天然痘」の流行があったと考えなければならないこととなります。)(※)

 この事を踏まえて『推古紀』が「一二〇年」の移動が措定できることを考えると、「武」の上表文とほぼ同じ状況が「推古」の前代に起きていたことが推察されます。つまり「父」や「兄」が時をおかず亡くなったこととなり、それは「天然痘」によるものであったという可能性があることとなるわけです。つまりすでに「五世紀」の段階で「天然痘」による「エピデミック」が発生していたと見られるわけです。
 後の「藤原四兄弟」の例を待つまでもなく、「天然痘」のような強力な伝染力を持った病気の場合、近親者に発病者が続いて出る例は珍しくなく、その意味で父兄が共に亡くなるという「武」の上表文の記述は不自然ではありません。さらに「法隆寺」釈迦三尊像の光背に書かれた「上宮法皇」とその母と妻という三者同時期の死去と言うこともまた強力な伝染病(特に「天然痘」)によるものではなかったかと考えられるものです。
 つまり現在通説では「天然痘」の流行(エピデミック)は上の『欽明紀』『敏達紀』を信憑して「六世紀」に起きたと考えられているようですが、では「五世紀」にはなかったのかというそれを反証するものはないのです。

 この「天然痘」という病気はその病原体が「列島」起源のものではないことが判明していますから、半島や大陸から持ち込まれたとすると、半島などと往来が頻繁になった時期を措定すべきですから、「五世紀」というのはその意味で「天然痘」の流行時期として適合していないとはいえないこととなります。
 この時代は「倭の五王」という「南朝」への遣使が行われると共に「半島」において「高句麗」の南下政策が強まり、「百済」と「倭国」がそれに対抗して「通交」していた時期でもあります。「好太王碑」の文章によっても「倭人」が相当多数半島に所在していたらしいことが知られています。
 つまりこの「五世紀」という時期は「倭国」と「百済」との間がかなり親密になった時期であり、人的交流が活発となった時期ですから、「天然痘」が流行する素地ができていたこととなります。つまりその感染拡大が「六世紀」や「八世紀」などに限らないことは確かと思われます。(中国では遅くとも四世紀には「天然痘」による死者などが出ていたとされますから、その意味でも早すぎるということはないといえます。)

 後の平安時代においても「天然痘」の流行が最も早く、最も強烈に発生していたのは「筑紫」です。それは「移動手段」が極めて限定的であった五世紀付近にはさらに顕著であったと思われ、近畿や東国で疫病(特に天然痘)が大流行することは極めて希でした。それは当時高速で移動する手段がなかったからです。
 伝染病はたいてい「潜伏期間」というものがあり、症状が出る前にあちらこちらと移動することで病原菌がいわばばらまかれる状態となるわけですが、古代においてはある時期以前には高速で遠方へ移動することは不可能でした。そのため病原菌もあちらこちらへとばらまかれることはなかったわけですが、五世紀の初めに「半島」から「馬」が入ってきて様相が変わります。「馬」を使用すれば短時間に遠方へ移動することが可能であり、それは交通手段の改良であると同時に「疫病」の拡散という悪しき結果をもたらすものでもあったものです。その意味で「五世紀後半」という時期には国内の遠距離移動には馬が使われてたらしいことが推定されていますから、「倭国内」に「疫病」の蔓延という事態が起きたとして何ら不自然とは言えないでしょう。

 古代において「天然痘」のような強力な伝染病は死亡率も高く、それを逃れるためには有効な治療法がないわけですから、必然的に「超自然的な力」すなわち「神」(鬼神)や「仏」にすがるということも考えられるでしょう。そのことから仏教が伝来する或いはそれを受容するという中に「伝染病」の流行が背景にあったと言うことも考えられます。(「後漢」における「太平道」や「五斗米道」、「倭」における「卑弥呼」の「鬼道」などの盛行も同様の理由であったと思われます)
 既に触れましたが「七枝刀」についても「天然痘」との関連が考えられ、その忌まわしい不幸を取り除く意味が「七枝刀」の形とそこに書かれた「文句」に込められていたと考えることができます。
 これらのことは『推古紀』の「觀勤」の上表や「欽明紀」の仏教受容のトラブルなどと同様「推古」の前代までの「記事」も「百二十年」の遡上を考慮に入れる必要があることを示すと思われることとなります。

 これらの記事が遡上するという可能性があることは『隋書俀国伝』の中に「天下熱病」を窺わせる表現や『請観音経』についての記述がないことからも推定できると思われます。
 『書紀』にあるように『敏達紀』である「五八五年」付近で「天然痘」の流行(パンデミック)があったとすると、それに程近い時期に派遣されたはずの「遣隋使」からそのような報告があって当然と思われるのに対して、記事ではそれがみられないということからも、実際にはもっと以前であるという可能性が高いものと推量します。
 さらに『隋書』内に倭国内において『請観音経』に対する信仰があるという説明がされていないという意味でも、「天下熱病」がかなり以前のことである可能性を強く示唆するものです。
 既にみたように『請観音経』の中心は「月蓋長者」に関する治病説話であり、それは「天然痘」のような強い伝染病が流行したことがその契機であって、「釈迦」や「観世音菩薩」「勢至菩薩」などを称揚することによる功徳によりそれが治まったとされています。「倭国」における「天下熱病」もこの『請観音経』がその救済として尊崇されたとみられるわけですが、「遣隋使」がそれと程近い時期に行われたとすると、そのことに触れないのは不審ではないでしょうか。
 実際には『隋書俀国伝』では「如意寶珠」に対する信仰が語られています。この「如意寶珠」は基本的に「小乗」の経典にあるものであり、北朝系と考えられます。それに対し『請観音経』は「百済」を通じもたらされたと思われる「南朝系」の経典と考えられますから、その意味でも食い違いがあります。
 またそこで「俗」の主役となっているのは古から続く「神道系」の信仰であったとされます。『隋書俀国伝』によれば当時の「倭国」の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされています。つまり、「倭国」では古来より伝わる「神道」形式の信仰が主たるものであったと思われるわけであり、この「巫覡」についても「病気」に対しての民間療法の一種ではなかったかと考えられ、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。しかしこの「如意寶珠」に関する説話には「治病」関係の説話が見られません。それはこの段階或いはそれ以前の近い時期には「天然痘」の大流行が起きているとはいえないこととなるものと思われ、これは「天下熱病」に対応する性格のものではないと言うことがいえるでしょう。
 つまり「天然痘」の流行はこの「遣隋使」派遣という時期をかなり遡上する時期のものだったのではないかと推測されることとなります。その意味でも『敏達紀』に書かれた記事は真実ではなく、『欽明紀』にこそ真実があったものと推定されるものです。


(※)つまり『敏達紀』と『欽明紀』が同一とみれば、その「年次差」は十九年ほどとなると思われ、これは後述しますが、「遣隋使」記事移動の余波というべきものであり、『隋書』に無理に合わせたためのしわ寄せがその前代に来ていると考えられるわけです。


(この項の作成日 2015/02/09、最終更新 2017/07/23)