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「結縄刻木」について


 『二中歴』の「年代歴」の冒頭部分に「結縄刻木」というものが出てきます。これについては以前「縄の結び目のバリエーションで意志を伝え合い、年数は木に刻み目をつけて数を表す」というものと理解していましたが、その後検討した結果、これは「逆」であり、「縄の結び目で数を表し、木に文様を刻みつけて意志をを伝え合う」ものというように理解を変更します。

 「結縄」により「数字」を表すのは世界の各地で見られた習慣であり、ある意味普遍的なものでした。また「数字」を表すことができれば「日付」の表記には有効であるのは確かです。
 また「刻木」は「漢籍」を探ると以下のように中国の周辺の諸国(いわゆる夷蛮の国)において「メッセージ」(指示や伝達など)を伝える際に使用されていたという記述が確認され、これらは「文字」がない世界ではごく当然のように使用されていたものと見られます。
 
 まず「結縄」については『漢書』などに「易経」を引用する形で以下のような記事が見えます。

(「漢書/藝文志第十/六藝略/小學」より)「…易曰:「上古結繩以治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。…」」

(「後漢書/志第九 祭祀下/迎春」より)「…論曰:臧文仲祀爰居,而孔子以為不知。漢書郊祀志著自秦以來迄于王莽,典祀或有未修,而爰居之類?焉。世祖中興,?除非常,修復舊祀,方之前事?殊矣。嘗聞儒言,三皇無文,結繩以治,自五帝始有書契。至於三王,俗化彫文,詐偽漸興,始有印璽以檢姦萌,然猶未有金玉銀銅之器也。」

 また「刻木」については以下のような記事が見えます。

「(註)魏書曰…大人有所召呼,刻木為信,邑落傳行,無文字,而部?莫敢違犯。…」(「三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十/烏丸」より)
(『後漢書』にも同趣旨の記事があります。)

「…無文字,刻木為契。…」(「隋書/列傳第四十九/北狄/突厥」より)

「…刻木以為符契,…」(「隋書/志第二十六/地理下/揚州/林邑郡」より)

 以上からは「三皇」時代には「結縄」であったとされ「五帝」の時代には「文字」が造られたとされています。また「刻木」は「突厥」「林邑」「烏丸」などにおける風俗として書かれていますから、いずれも夷蛮の地域のものです。
 これらによればどちらかといえば中国の中心域では「結縄」、周辺諸国では「刻木」ではなかったでしょうか。
 このことから「倭国」における「結縄刻木」という表現からは、中国の古い風習と夷蛮の国らしい珍しい方法とがミックスしていると(魏使には)見られていたこととなるでしょう。

 また、上の「刻木」の例では「烏丸」におけるものが注目されます。(上の『三国志』の例)そこでは「信」つまり「手紙」やメッセージの代わりとして「刻木」しているとされます。
 「大人」からの指示が「刻木」として各邑落に伝わり、そこに「文字」がないのに(文様だけがあったと思われます)誰も違反するものがないとされているわけです。
 他にも『隋書』に書かれた「突厥」や「林邑」の例では「刻木」とは「符契」を意味し、それらは身分証明であったり、信用確保のために使用するものであったとされます。(木ないし竹に何らかの「文様」を刻みつけ、それを二つに割った上で両者がそれを所有し、何らかのタイミングでそれを合わせることにより身分証明として使用したもの)
 倭国においてもこれらと同様の意義があったという可能性も考えられる訳です。

 「倭国」において仏教が伝来した後もこれを止められなかったとされるわけですが、その理由は「まだ『日本語』を表す文字がなかった」ということではなかったでしょうか。「無文字」とはそういう意味なのだと思われます。
 この段階までは「漢字」は「漢文」(中国語)として存在するだけだったものであり、「日本語」を表記する手段ではなかったわけです。
 漢字文化は「王」を中心とする、一握りの支配者層が理解し、使用していたものと思われ、「普通」の人々の生活には全く浸透しておらず、彼らは昔ながらの素朴な生活をしていたものでしょう。
 彼らは情報を伝えるのに、「結縄刻木」していたものであり、このような生活は「弥生」以来なのではないかと思われます。
 「王」も彼等に対して何か「詔」のようなものを発する時には「結縄刻木」で表していたものと思われます。そうでなければ王権の意志が人々に伝わらないからです。それが「無文字 無号不記干支『以成政』」という部分に明確に現れていると言えるでしょう。

 上に見たように「結縄」も「刻木」も古い時代のものであり、「文字」がない時代のものとされています。当然倭国においても「文字」がないという前提の中で「結縄刻木」されていると理解すべきでしょう。
 その「結縄刻木」時代に「文字」の代わりとして「刻まれた」文様が「日本語」を表すものであったこともまた当然です。この「結縄刻木」という用語が「無文字」という状態を表すのに中国史書等では常套的に使用されていることを考えれば、この時点では「公用語」は「日本語」であり、「刻木」されたものは「文様」ではあっても「文字」(それも「漢字」)ではなかったこととなるでしょう。
 そしてその後仏教が伝来したことにより「漢語」が流入したわけですが(この場合「漢語」は「経典類」としてのものを意味すると思われます)、「公用語」は依然として「日本語」であったと思われます。そのため「結縄刻木」が続かざるを得なかったと理解できます。(また「暦」も未だ伝来していないため、干支も使用されていなかったもの。)
 そしてその後ある程度期間を経た後「結縄刻木」が停止されることとなったわけですが、それはそれまでの「文様」の代わりに、「漢字」を使用して「日本語」を表記できることとなったからと推量されるわけであり、またその時点で「万葉仮名」が成立したことを示すと思われるわけです。

 伝来した漢籍の表記に使用されている「漢字」を日本語表記に転用可能であると考え工夫するのにやや時間がかかったとすると、それが「仏教伝来」から「明要年間」までの期間であると考えられます。(約五十年)
 これについては「漢語」を「公用語」としたという中小路氏のような理解もありますが(※)、それでは一般民衆に対して布告などを行う際にも漢語が使用されたこととなり、とても誰も理解できなかったであろうと推測されます。「結縄刻木」が行われなくなったということは代わりに「文字」が発明されたからであり、それは当然「日本語」を表すものでなければならなかったはずです。でなければ「一般民衆」には伝わらなかったと考えられます。
 またこの時点で「漢語」を公用語としたという理解は「武」以前の「珍」や「済」がすでに「上表文」を中国皇帝に提出していることと矛盾するといえます。

「宋書」「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」

「宋書」「(元嘉)二十八年(四五一年),加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死,世子興遣使貢獻。」

 これらの記事では「表」が提出されたと見られ、「倭国王権」が「漢文」を使用していたことは明確です。それが「渡来人」の手によるものであるかは問題ではありません、その「漢語」による「文書」の存在そのものは「倭国王」を初めとする「倭国王権」が認識していたことは確かであると思われるからです。そうであるなら「明要」年中という「文書始出来」という記述の内容が「漢文」による「文書」の成立を示しているものではないことは当然のこととなります。
 また、確認できる「文書木簡」では明らかにそこに書かれた文章は「日本語」を漢字を使用して表現したというものであり、「漢文」とは言えないと思われます。もちろん「漢籍」にその出典があるような語も確認できますが、基本的には「日本語」としての文章が書かれていると判断でき、このことはこの「文書始出来」とされる「明要年間」において確立したことではなかったでしょうか。
 これを「仏教伝来」を「四一八年」、「明要元年」を「五四一年」として考えると、その間が「一二三年」となって、「長すぎる」とすでに考察したわけであり、そのため『二中歴』の年代歴を「六十年」遡上するという私案を検討したものです。そしてそれは相当程度「妥当」であるという見通しが得られることとなったものと思われます。

 ところで「結縄」と「刻木」は本来別の「慣習」であり、「文化」でした。『二中歴』によれば「明要」年中において「結縄刻木」が止められたとするわけですが、「刻木」については仏教の伝来という「衝撃」により「日本語化」の動きが出ていたと思われますが、他方「結縄」の方は「太陰暦」の伝搬によって「二倍年暦」との交替という動きが出ていたと思われます。これら二つの「カルチャーショック」は別の時点に起点を持つものと思われるわけですが、それが「明要」において「一致」したということとなります。その原因となったものは「武」という強力な「王」の存在ではなかったでしょうか。彼が強力なイニシァティブをとってこれらの政策(日本語を表す文字の発明・工夫及び二倍年暦の全面停止と太陰暦の全面的導入)を推進したものと思われます。

 ただし「年号もなく、干支も記さない、ただ結縄刻木のみである」という状態が非常に原初的であるのは間違いないところです。このような状態は先に見たような「元嘉暦」を受け入れる前の状態であるのは明確と考えられますが、「卑弥呼」の時代には「魏」の皇帝に上表文を差し出しており、「倭の五王」のころと遜色ない漢字文化の中にいたはずです。その漢字を利用して「日本語」を表現する発明がその時点では行われなかったこととなりますが、それは「漢字文化」が仏教のような「宗教」と関連していなかったことがあると思われます。
 逆に言うと「五世紀」に入って仏教が「漢字文化」の精髄として現れたことに対する「強い反応」が倭国内に起こったことを示すものであり、その時点以降「漢字」の「日本語化」という動きが「内在」し、直後に「顕在化」することとなったのではないでしょうか。

 また「西晋」の滅亡以降「半島」における「中国」の出先機関も消滅したことにより「中国」との交流が途絶えたことも重要であると思われます。その結果「漢字文化」と長い間乖離する状況に置かれることとなったことが「漢字」への親近感を低下させ、「日本語化」への動きを鈍らせる要因となったとも見られます。
 『二中歴』の「年代歴」冒頭の部分は、その後「東晋」との関係ができた時点付近で「再度」漢字文化の流入があり、それが仏教との関連によって親密さが増したことを示唆するものです。


(※)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」及び「仏法伝来と漢字の国内公用開始についての補足ならびに訂正」大手門学院大学デジタルリポジトリ


(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2015/02/11)