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「倭の五王」と仏教と道教


 前述したように仏教が伝わったと考えられる「四二〇年ごろ」は「倭の五王」の「讃」の頃ではないかと考えられます。

「梁書」五十四、諸夷、倭」晋安帝の時、倭王賛有り
「普書」十、安帝紀」(晋安帝、義煕九年(四一三年))是の歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」
「宋書」高祖の永初二年(四二一年)、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜う可し」と。

 この時期は「倭国」が「讃」即位後、活発な外交活動を展開し始めた時期と考えられ、「百済」から仏教を受け入れる契機となったのではないでしょうか。
 さらに、「百済僧」「観勒」の「上表」の年という「四八〇年前後」は「倭の五王」の「武」の頃と考えられるものです。

「宋書」世祖の大明六年(四六二年)詔して曰く「倭王世子興、奕世載(すなわ)ち忠、藩を外海に作(な)し、化を稟(う)け境を寧(やす)んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とす可し」と。興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。

「宋書」順帝の昇明二年(四七八年)、使を遣わして表を上る。(後略)

 ところで、「倭の五王」のうちの最後の王である「武」が「南朝劉宋」の皇帝に差し出した(四七八年)上表文に「歸崇天極」という一節があり、この部分は当時「南朝」で盛んであった「道教」に帰依する、という宣言と思われます。

 この頃の「道教」は「天球」上に地上の支配体制をそのまま再現したものを一種の理想型として信奉していたのです。その中では日周運動によっても動かない「北極星」が天の中心であり、地上の皇帝の位置に対応している、と考えられていました。「天極」とは文字通り「天空で動かない星」のことであり「北極星」(北辰)を意味すると同時にそれを神格化した「太上神君」(道教の最高神)と考えられ、このことが「上表文」に書かれているということは、この頃倭国では「道教」が王権内部で信仰されていたものと考えられるものです。
 「南朝」では「陸修静」という人物が「宋(劉宋)」の時代、朝廷の中に「崇虚館」という道教の建物(道観)を建てています。彼は「泰始七年」(四七一年)に「明帝」の病気快復のために「三元露斎」というものを建て、それにより「明帝」の病気が癒えたことから、大変な吉祥だ、と言われたと伝えられています。そのため「宋」の国内では「朝廷も在野も気を配り、道士も世俗も帰心する」と言われ、「道教」が盛況を呈していたのです。このような動きは倭国にも伝えられていたものと思われ、倭国王権内部で「道教」を信奉する動きになったものと思われます。

 また、当時倭国は朝鮮半島で「高句麗」と死闘を繰り広げていました。「高句麗」は「好太王」を継いだ「長寿王」の時代(四一二年から四九一年)に「拡張政策」に転じ、首都を「平壌」に遷した後、「新羅」、「百済」、「倭国」などを退け、「朝鮮半島」のほぼ全部を制圧する程の勢いを示していました。(このことが「武」の上表文の中に「而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隷、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風、雖曰進路、或通或不」と書かれている訳です)
 このように「戦乱」に明け暮れた「武」の時代では、「北極星」(北辰)そのものよりも「戦いの守護神」と考えられていた「北斗」が特に信仰され、道教の経典「抱朴氏」(「東晋」の「葛洪」の著)には「武器に『北斗』のしるしを書いた札を貼るだけで白刃も恐れなくなる」と書かれており、前述の「武」の上表文中に「白刃交前、亦所不顧」と書かれているのがそれを示していると考えられます。 (実際に「北斗」が描かれているものに、「四天王寺」の「七星剣」や「法隆寺」金堂の「七星文銅大刀」、正倉院御物の中の「呉竹鞘杖刀」などがあります。)
 他にも国内的背景として、「中臣」や「物部」という存在があったと考えられます。「中臣」は古より「フトマニ」などの占いを職掌としており、これは卑弥呼の「鬼道」以来のものと思われ、「天神地祇」を祀るなど、原始宗教の形態を残していました。『隋書俀国伝』にも「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」と書かれているほどであり、まだこの段階(七世紀初め)でも、倭国内全体が仏教に染まっていたわけではないことがわかります。
 「物部」が反対した理由は、彼らが「戦う」のが職掌の集団であったことであると思われます。彼らにしてみれば、戦いは「神」に祈らなければ勝利はおぼつかないと考えられていたものであり、戦う前に「神意」を占い、それにより「戦い」の方法論さえ決まったこともあったものでしょう。その「神」を「仏」に取り替えられない、と言って抵抗したわけです。
 「物部」は先に挙げた「倭王武」の上表文などのように、戦いの際に先頭に立って敵と相対する者達であり、「北斗」や「北辰」への信仰が根深かったものと推察されます。
 このように少なくとも倭王「武」の時代には「南朝」に追随する形で「道教」が受容され、認知されてきていたものです。このような中では相対的に仏教に対する「理解」が低く、このことが「倭国内」で仏教が深く根付かず、「犯罪」を犯す「僧」が出てくるような素地となったのではないでしょうか。「百済僧」「觀勤」が「以僧尼未習法律」と上表文で述べた背景もそこにあると考えられるものです。


(この項の作成日 2011/07/13、最終更新 2014/11/28)