以上いくつか例を挙げて考察しましたが、これらから考えて『二中歴』(少なくとも一部)には「年次移動」の可能性が考えられますが、それは『書紀』の年次移動との関連が考えられ、その「原因」となるものについて考えると、「新日本国王朝」への列島代表権力の交替のいきさつが関係していると思われます。
「新日本国王権」への権力移動の実体は未だ明らかとなっていませんが、逆にそのことから「新日本国王権」はそのような事情を隠蔽しようとしたと見られることとなります。つまり詳細を明らかにしたくなかった事情があったわけであり、そのため「新日本国王権」は、「難波朝」の「倭国王」により編纂された『日本紀』を「消し」、またそのため『二中歴』の「原資料」となったもの(これは『百済本紀』の史料ともなったもの)についても改定し「年次」を変更することとなったのではないでしょうか。
また、それと併せて考えなければならないのが「五三一年」に起きた「磐井の乱」です。これにより「倭国王」は「筑紫」の地から追われ「肥後」に「蟄居」せざるを得なくなり、「権威」が著しく失墜することとなったと考えられます。これは「物部守屋」が滅ぼされる「五七八年」までの約「六十年間」続くものであり、この間の「年号」は制定されなかったか、記録されなかったものと推察されます。この「汚点」を消すためにも「干支一巡」(六十年)ずらした史料を作成したのではないでしょうか。
この期間は「近畿」で「阿蘇」の「凝灰岩」を使用した「古墳」が作られなくなるなど、「倭国王」の権威が著しく損なわれた時期であり、「肥後」に押し込められていた「倭国王」にとって「改元」などの行為が可能であったか、かなり疑問でもあります。「葛子」以降の倭国王にとっては「雌伏」の時期であったと考えられます。
このズレは『二中歴』(及び「現行日本書紀」と『続日本紀』及び『百済本紀』)の原資料となったものについて行われたものであり、先ず第一に「阿毎多利思北孤」の「倭国再統一」という中で「年号群」の「整理」が行われた後、「新日本国」王権により再度書き換えられるという事となったものと思料します。
「阿毎多利思北孤」ないしはその後継王朝である「利歌彌多仏利」段階では、各種の制度導入と共に『万葉集』『風土記』などの収集と編纂が行なわれたものと見られますが、それらと同時期に「史書」の作成が行われたとして不思議ではないと思われます。それが「原・古事記」とでもいうべきものであったとみられるわけです。
彼等は『書紀』で「天孫降臨神話」を重要な位置づけとしていることから考えても、そこに使用されている「天降る」という用語の用法から考えても、明らかに「革命王朝」ともいえるものですから、「神話」も含めた「帝王日継」などを「新たに作成」したと考えられます。しかし彼等が「革命王朝」という性格を持っていたとすると、「帝王日継」の中身としては相当「稀薄」なものであった可能性が高く、「倭国本流」の記録ないしは「近畿王権」の記録を借用したという可能性があるでしょう。
また「物部」に支配されていた「六十年」は屈辱であり、これを「消去」しようとしたという想定も有り得るでしょう。そのような思想で「倭国」の史書が書かれたとすると、その年次や記事内容が『百済本紀』や『二中歴』に反映しているという可能性はかなり高くなると思われるものです。
(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2015/02/15)