ホーム:五世紀の真実:『二中歴』の「干支」に対する疑い:

「年代歴」の真の年次D


 『二中歴』の年代歴に年次移動があると見て考察しているわけですが、それは『書紀』そのものにもいえることと思われます。たとえば、『書紀』の『応神紀』と『雄略紀』に「同一」と思われる記事があります。それは「呉」から「幡織」の織女が下賜されたという記事です。

「(応神)卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。高麗王乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」

「(応神)四十一年春二月甲午朔戊申。天皇崩于明宮。時年一百一十歳。一云。崩于大隅宮。
是月。阿知使主等自呉至筑紫。時胸形大神有乞工女等。故以兄媛奉於胸形大神。是則今在筑紫國御使君之祖支。既而率其三婦女以至津國。及于武庫。而天皇崩之不及。即獻于大鷦鷯尊。是女人等之後。今呉衣縫。蚊屋衣縫是也。」

「(雄略)十二年夏四月丙子朔己卯。身狹村主青與桧隈民使博徳出使于呉。

「(雄略)十四年春正月丙寅朔戊寅。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。
是月。爲呉客道通磯齒津路。名呉坂。
三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。」

 ここでは「呉」つまり「南朝」に遣使したところ、『応神紀』記事では「呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」とされているのに対して、『雄略紀』記事でも「呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。」とされていて人数も構成もほぼ同じと見られるわけです。

 これはいわゆる「重出」であり、どちらかが「真実」ではないこととなりますが、一見『応神紀』が「讃」の時代に合っているという見方から、『雄略紀』が重出と見られそうですが、それは「年次」的には正しいと思われるものの、「帝紀」としては合っていないと思われます。既に見たように『二中歴』では「六十年」の記事移動(遡上)があると見られるわけであり、この場合『雄略紀』の方にそれが適用されると思われます。つまり『雄略紀』については「六十年」遡上した時点が本来のものと見られるわけですから、「呉」からの「織女」来訪は『応神』の時代と見るべきこととなるでしょう。それを証するように『雄略紀』と『応神紀』はちょうど干支一巡離れています。つまりここに「六十年」の遡上という潤色が行われている形跡が濃厚であり、そうであれば『雄略紀』はちょうど「讃」の位置に来るわけですから、彼の時代に「南朝」に遣使し「織女」を下賜され「漢織」「呉織」という「南朝的」な縫製術や服装の形式を学んだと見ることができるでしょう。そしてその時代以降「南朝」的服装である「裙襦」が「倭国」に広がったとして不自然はないと思われるわけです。

 そのことは「古墳」につきものの「女性」と思われる「埴輪」の中に「服装」の表現があるものが見られ、それらがほぼ例外なく「裙襦」と見られていることからも言えるでしょう。
 それらの多くが「スカート状」のものをはき、腰紐らしきものを結び、上は襟の表現が見られるなど「裙襦」と思われる服装をしています。(※)
 つまり「古墳」に「人形埴輪」が埋納されるようになるのは(近畿では)「五世紀」以降ですが、ほぼその時点付近で「服装表現」に「裙襦」が見られるようになるというのは良く整合していると思われるわけです。


(※)布施友理「女子埴輪を考える」(『物質文化研究』『物質文化研究』編集委員会 編二〇〇七年三月所収)


(この項の作成日 2015/07/03、最終更新 2015/07/04)