前稿までの推論は『二中歴』の記事について「干支一巡」の移動を考慮することが必要であることを示すものですが、さらに他の例で検討してみます。
たとえば『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次についての混乱も『二中歴』と同様「六十年」ずれているという可能性を示唆します。
『継体紀』には以下のように書かれています。
「(継体)廿五年歳次辛亥(五三一年)崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。」
つまり、『百濟本記』には「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事があり、こちらのほうを信用して『書紀』もこれにならったというわけです。しかし、近畿王権の国内伝承にはこの時点でそのような「王の一家の主要な人物が一斉に死去した」というものは存在していなかったのです。このため「編纂者」(これは「唐人」「続守言」でしょうか)も困惑していると見られるわけですが、これは「干支一巡」(=「六十年」)のズレが招いたものではないでしょうか。
当時の「百済」の記録は「干支」によっていたため「六十年」単位で移動する可能性があると思われます。(「百済」には年号使用の形跡がありませんから(※)、年次記録は「干支」しかないものと思料され、「定点」がないためある程度年数が経過して、他の資料などが散逸し始めると年次を誤認する可能性が高くなります)
また『百濟本記』は「現存」しておらず、『書紀』などに引用される形でしか残っていません。このため、「記事」が正しいかどうかはある意味「不確定」であるわけです。
この記事を「六十年」過去に移動すると「四七一年」となりますが、『二中歴』も「六十年」移動しているので、この『書紀』−『二中歴』の関係はそのまま維持されることとなります。つまり、移動した「辛亥年」は「四七一年」となり、それは「教倒」改元の年であるわけで、さらに「南朝」の皇帝に対して「武」の上表文が書かれる七年前のこととなります。そして、その上表文の中では「倭国王」と「皇太子」が「ともに」亡くなっている、と書かれているわけですから、『百濟本記』の記事にかなり近似していることとなるでしょう。つまり、ここで示された「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事は「武」の上表文に書かれた「奄喪父兄」という「倭国王」「済」と「興」の死亡に関する記事と強く関係していると推量します。
この「武」の上表文の「記事」以外には『百濟本記』の「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事と合致するものは全く確認されないわけであり、これは『百濟本記』に「誤伝」した可能性が強いものと考えられます。というより、『二中歴』も「六十年」時期が下る方向で「ずれている」わけですから、そのことと『百済本紀』が同様に「ずれている」と推定されることとは深い関係があると思われます。つまり、いずれも「原資料」が共通していて、その「原資料」段階で既に「ずれていた」という可能性です。元の資料は同じであったという可能性があるように思われます。
また、上のように「武」の上表文に書かれた内容と『書紀』(『百済本紀』)とが同一であるという推定をした場合、「武」の上表文が書かれるまで「時間」(年月)がかかっているようにも思えますが、これは「武」が当時まだ「未成年」であったため、「成人」を待っていたと言うこともまた可能性としてあると思われます。
「興」以外にも兄がいて「父兄」とは「済」と「興」だけではなく、他の「兄」も含んだ表現であるとすれば、「武」は「末子」であったという可能性があり、まだ幼少であったためにすぐ即位できず、成長を待って「即位」し「上表」する事となったということではないでしょうか。(『百濟本記』でも亡くなった中には「太子皇子」がいたらしいことが書かれてあり、上の推定を裏付けるものです)
また「父」と「兄」の「服喪期間」があったために「上表」して「称号」を受けるまで時間がかかったという可能性もあります。この時代はまだ「三年以上」の「殯」の期間があったと考えられ、「父」と「兄」とが相次いで亡くなったとすると計六年分あったこととなれば、「上表」までの年数も整合的となるでしょう。
この「継体紀」における「日本天皇及び太子皇子ともに崩薨」という記事について古田氏は「磐井の乱はなかった」という趣旨の論を述べた際の「質疑応答」の中で「干支一巡」の移動で考察できる可能性を示唆されていました。
「質問三 磐井の乱ですが、今まで継体の反乱と理解していました。それで質問なのですが継体が死んだ年と朝鮮の記録との時期のずれ、そのあたりはどのように理解したらよいのでしょうか。
回答
これも大事な質問です。
継体紀の最後に、「日本の天皇及び皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は二十五年に當る。後に勘校へむ者、知らむ」という百済本紀の記事があります。
今考えてみますと、『失われた九州王朝』『古代は輝いていた 三』などを書いた人間として、間違いというか論理の飛躍があったと、今は考えています。結局百済側が伝える事件があったことは間違いがない。あそこに干支も書いてある。それも間違いがないと思う。ですがそれが磐井であるという証拠はない。磐井以外のケースで、そういう問題が起きえたケースがあったか。たとえば倭の五王。上表文のところで、悲痛なことを言っています。父が亡くなった。兄が亡くなった。自分が頑張らねば、そのように言っています。そのような背景に、この事件があっても不思議ではない。そういう目で、もう一度再検討したらよい。磐井にこだわらず、いったんこの事件を保留して、もう少し時間帯を自由に動かしてみたらどうか。六十年単位に動かしてみたらどうか。動かせば、何か引っかかるかところが見つかるかも知れません。大事な保留問題と考えています。」(古田武彦講演記録 二〇〇四年一月十七日「「磐井の乱」はなかった
ロシア調査旅行報告と共に」『古代に真実を求めて第八集』より(明石書店二〇〇六年)
これによればこの『継体紀』の「日本天皇及び太子皇子」同時死去記事については「磐井の乱」との関係を考える必要がないというわけであり、その意味でこの記事自体が突然「流動性」を持って考えられたようです。上に述べた当方の視点とは全く異なりますが、いわば「結果的に」当方の意見と同じとなるわけであり、それほど的外れとも言えないということとなる模様です。(ただし私見では「磐井の乱」はあったとみていますが)
(※)古賀達也氏などにおいては「百済年号」の存在を想定しておられるようですが、その確たる根拠はないと思われ、実際には以下の「斯麻王」の墓碑などで判明するように「干支」をその年次表記として使用していたことが推定されています。
「百済武寧王とその王妃の墓誌」
〈ウラ面〉「銭一万文右一件/乙巳年八月十二日寧東大将軍/百済斯麻王以前件銭詢土王/土伯土父母上下衆官二千石/買申地為墓故立券為明/不従律令」
(以上は『李宇泰「韓国の買地券」都市文化研究十四号二〇一二年』によります)
(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2017/07/10)