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「伊豫軍印」について


 「伊豫軍印」というものがあります。これは「愛媛県四国中央市土居町天満」という地に所在する「八雲神社」の伝来品です(いつどのような経緯でもたらされたものかは不明)。素材は「銅製」の鋳造印で、サイズが一辺が36.9mm、全高24.6mm、重さ50.8g、背面中央部に直立した楕円形の穴がある把手がついたものです。字体は「六朝風」であるとされています。
 この「印」は国内では他に例を見ないものであり、通常「律令制」下の諸国の「軍団」に支給された「軍団印」の一種と考えられているようであり、「健児の制」が採用された平安時代のものとするようですが、同様に「健児の制」が布かれたところで「軍印」があるというわけでもなく、それほど確証のある議論ではありません。
 実際には他に現存する軍団印とは様式を全く異にしています。他の例では「団印」となっており「軍印」というのは確認できません。
 たとえば「筑紫」地域には「御笠團印」と「遠賀團印」という銅印が現存していますが、あくまでも「團印」であって「軍印」ではありませんし、つまみ部分には「穴」がなく「環鈕」とはなっていません。またサイズについても全く異なり一辺が40mm、高さが高51mmとなっています。(これは「天平尺」つまり「唐大尺」」によるとされます)このような「印」が律令に基づいて作られたとすると「規格外」のものが造られたはずがないともいえるでしょう。

 この「伊豫軍印」の規格はその寸法から考えて「南朝」の規格によったものと思われ、(南朝では歴代にわたり一寸が24.5mm程度であったと推量されます)、各々一寸五分(辺)と一寸(高さ)ではなかったかと思われます。
 「伊豫軍印」がこのような「南朝」(中国)の規格に沿っていたとすると「遣隋使」以前の時期が想定されるでしょう。
 
 このような「銅印」について中国の史書を見てみると以下の例がありました。

「…超武、鐵騎、樓船、宣猛、樹功、剋狄、平虜、稜威、戎昭、威戎、伏波、雄戟、長劍、衝冠、雕騎、?飛、勇騎、破敵、剋敵、威虜、前鋒、武毅、開邊、招遠、全威、破陣、蕩寇、殄虜、橫野、馳射等三十號將軍 ,『銅印環鈕』,墨綬,獸頭?,朝服,武冠。并左十二件將軍 ,除並假給章印綬,板則止朱服、武冠而已。其勳選除,亦給章印。
建威、牙門、期門已下諸將軍 ,並『銅印環鈕』,墨綬,獸頭?,朱服,武冠。板則無印綬,止冠服而已。其在將官,以功次轉進,應署建威已下諸號,不限板除,悉給印綬。若武官署位轉進,登上條九品馳射已上諸戎號,亦不限板除,悉給印綬。
千人督、校督司馬,武賁督、牙門將、騎督督、守將兵都尉、太子常從督別部司馬、假司馬,假『銅印環鈕』,朱服,武冠,墨綬,獸頭?。
武猛中郎將、校尉、都尉,『銅印環鈕』,朱服,武冠。其以此官為千人司馬、道賁督已上及司馬,皆假墨綬,獸頭?。已上陳制,梁所無及不同者。
陛長、甲僕射、主事吏將騎、廷上五牛旗假吏武賁,在陛列及備鹵簿,服錦文衣,武冠,?尾。陛長者,假『銅印環鈕』,墨綬,獸頭?。」(隋書/志 凡三十卷/卷十一 志第六/禮儀六/衣冠 一/陳)

 これは「南朝」「陳」の例ですが、「銅印環鈕」(他に「黒綬」「朱服」など)は将軍や司馬、都督など軍を率いる立場の者達に授けられており、それはこの「伊豫軍印」も同様であったという可能性を示唆するものです。(この伊豫軍印も「銅印環鈕」に該当します。)
 ただしここでは「印」の規格について触れていませんが、北朝の「(北)周」では「皇帝」の「印璽」について「蕃國之兵」に供するものを含めて「方一寸五分,高寸」であったと書かれており、これと同一規格であることが注目されます。

「皇帝八璽,有神璽,有傳國璽,皆寶而不用。神璽明受之於天,傳國璽明受之於運。皇帝負?,則置神璽於筵前之右,置傳國璽於筵前之左。又有六璽。其一「皇帝行璽」,封命諸侯及三公用之。其二「皇帝之璽」,與諸侯及三公書用之。其三「皇帝信璽」,發諸夏之兵用之。其四「天子行璽」,封命蕃國之君用之。其五「天子之璽」,與蕃國之君書用之。其六「天子信璽」,『?蕃國之兵用之。六璽皆白玉為之,方一寸五分,高寸,?獸鈕。』」(隋書/志第六/禮儀六/衣冠 一/後周)

 これは「北朝」の規格であるわけですが、「北朝」では「北魏」以来「漢化」政策を実施していましたから、「北朝」は基本的にその制度や朝服等を「魏晋朝」及びその後継たる「南朝」に学んだと考えられます。このことは「伊豫軍印」が「北朝」の規格に準じているように見えるのは実際には「南朝」の規格に沿ったものということを意味する可能性があることとなり、「百済」等を通じて「北朝」系の規格を学んだというより、直接「南朝」との関係として考えるべきことを示すものかもしれません。
 これらの推測が正しければ「伊豫軍印」も「将軍」などのいわゆる「軍」の責任者に授けられるものであり、その時点で列島内の各地域にそのような人物が配置されていたことが示唆されることとなります。これが『常陸国風土記』などに書かれた「国造」や「国別」というような人物に直結するかは彼らに軍事権があったかどうかということとなりますが、少なくとも「評」の責任者にはそのような権能があったとみられます。つまりこの「伊豫軍印」は「伊豫」の「評督」に対して授けられたものという可能性もあることとなるでしょう。また後に「伊豫総領」という職掌がみられますが、これとの関連も充分に考えられます。なぜなら「総領」も軍事的特徴を有した職掌だからです。(その意味で「評督」と「総領」との上下関係もあったこととなるでしょう)

 また「倭の五王」の上表によれば「南朝」の皇帝に遣使していた「倭国王」の配下には複数の「将軍」や「軍郡」(これは「軍郡事」のことかと思われます)がいたわけであり、彼等はその肩書きを「南朝」の皇帝から認められていたものですから、彼等も「南朝」から「印綬」を授けられたと考えることができるでしょう。

「…讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。」(『宋書/ 列傳第五十七/ 夷蠻/ 東夷/ 倭國』より)

(以下「軍郡」の例)

「…明年,以康為持節、督青冀二州東徐之東莞琅邪二郡?山戍北徐之東海漣口戍諸軍事、青冀二州刺史,冠軍如故。世祖即位,轉驍騎將軍,復前『軍郡』。」(『南齊書/列傳第十一/桓康 尹略』より)

「…既中旨以安都為右衞,加給事中,由是大忤義恭及法興等,出興宗?郡太守。固辭郡,執政愈怒,又轉為新安王子鸞撫軍司馬、輔國將軍、南東海太守,行南徐州事。又不拜,苦求益州。義恭於是大怒,上表曰:「臣聞慎節言語,大易有規,銓序九流,無取裁□。若乃結黨連羣,譏訴互起,街談巷議,罔顧聽聞,乃撤實憲制所宜禁經之巨蠹。侍中祕書監臣彧自表父疾,必求侍養,聖旨矜體,特順所陳,改授臣府元僚,兼帶『軍郡』。雖臣駑劣,府任非輕,准之前人,不為屈後。…」(『宋書/列傳第十七/蔡廓/子興宗』より)

 例を渉猟すると特に「南朝」の各王朝において特徴的な呼称(職掌)のように思われ、「州郡の諸軍事」を「軍郡」と称しているように見えます。

 これら十三人の将軍や二十三人の軍郡は「除する」とされ、これは正式に任命されたことを意味しますから、「南朝」の規定に則り「銅印環鈕」他を授けられたものと思われ、その時点で倭国内に「銅印」がもたらされたこととなると思われます。またそれは「二十三人」という数の人間を、「軍郡」に「除する」という目的のために派遣したらしいことでも知られます。その目的は彼等を初めとした倭国の軍事組織を「南朝」の軍制下に入れることであり、それが今後の倭国統治の際に有利に働くことを計算したものと思われるわけです。つまり各地に一斉に将軍(軍郡は通常将軍職が充てられます)を派遣した際に、まだ権威の大きくはなかった倭国王に代わり南朝の皇帝の配下の人間であるということを誇示しまた証明することでその地の制圧と以降の統治をよりやりやすくしようとしたものでしょう。そう考えると「南朝」から下賜された「軍印」に地域名が入っていて当然とも思えるわけです。
 それはまた「珍」や「済」の段階であると言う事からもある程度推測できますが、「倭国王」の国内における権威がそれほど強くなく南朝の権威を借りる必要があったということもあるでしょう。さらには「除された」彼等が「半島」に派遣される人達であった可能性もあります。「百済」は「将軍号」を南朝からもらっていますが、「軍郡」を除されたという記録はありません。このことから半島の各地域において「百済」の大義名分を否定するために「軍郡」を除されることを望んだのかもしれません。ただし「南朝」側からはそれが「百済」国内であると判断された場合には「軍郡」への除正はされなかったであろうと思われますから、結局「軍郡」は国内に止まる範囲ではなかったかとは思われます。

 またこの「印」は「漢委奴国王」のような「封泥」用のものではなく、「書類」に捺印するタイプのもの(凸印)ですから、「紙」の使用が前提です。このような「印」は「文書行政」には必須であり、これが有効に使用されるようになるのは「文書」成立以降のこととなりますが、『二中歴』の「明要」の項に「文書が初めてできた」という意味の記述があり(「明要十一元辛酉 文書始出来結縄刻木止了」)、後で触れますが、この「明要」の干支である「辛酉」は通常の理解による「五四一年」ではなくそこから六十年遡上した「四八一年」と推定され、それ以前の「珍」や「済」の時代はまだ「結縄刻木」の時代であったと思われます。そのためこの時点ではもたらされた「印綬」は一種の「威信財」として機能したものと推察されるでしょう。(このような「印」の伝来が「文書」の成立を促したともいえるかもしれません。)
 この「伊豫軍印」がこの時「南朝」からもたらされたものなのか、もたらされた「印綬」の規格に合わせてその後「倭国」で作成し配布したものかは若干不明ですが、「二十三人の軍郡」という中に「伊豫軍郡」がいたとして不思議はないとも言えます。(正確にはこの「銅」の「成分分析」が行われる必要がありますが、それは今後期待しましょう。)

 当時は(全面的ではなかったものの)「屯倉」を中心とした「評制」であったものであり、その「評」を元にした「軍制」であったと思われますが、『隋書俀国伝』の解析から、この段階はまだ一村八十戸であり、十村で「評」を成していたと思われますからひとつの「評」が八百戸程度となると思われ(これも絶対数ではなかったと思われ、ある程度ルーズに決められていたと思われますが)、「三十戸から一人出す」という改新の詔からの判断として、そこから二~三人の兵士を出していたものと思われます。
 また、この「評」がいくつか集まって「伊豫軍」のような単位となっていたと思われ、おおよそ二百~二百五十人程度が個々の「評」から選抜されていたと思われ、さらに後の「国制」の範囲が相当すると思われますが、いくつか集まって「国」配下の軍隊となっていたと想定すると、おおよそ千人程度が軍編成として考えられます。それは「伊豫軍」という印そのものがそれを示しています。後の時代にも「伊豫」は同じ四国でも「讃岐」などと違い「国司」ではなく「総領」が配置されていたものであり、四国全体に対する統治権を有していたと思われるわけです。それを考えるとこの「伊豫軍」は「伊豫」「讃岐」「阿波」「土佐」の四国分である可能性が高く四~五千人程度が「伊豫軍」の中身ではなかったでしょうか。

 この「伊豫軍」を率いていた「将軍」はその地域の特定性から考えて後の「河野氏」につながる存在ではなかったかと考えられ、彼らの主力が「水軍」であることは重要であると思われます。この時代未だ官道整備が大きく進んではいなかった時代には「瀬戸内海」を制圧することが非常に重要な軍事的意義があったものであり、彼らが重視されていたというのは蓋然性の高い想定でしょう。
 そもそも彼らは「物部」と同じく「饒速日之命」の後裔とされ、その淵源が古いとされますし、「物部」もそうですが、軍事に特化した氏族ですから、ここで「伊豫」の将軍として任命されていたとしても不思議とはいえないと思われます。

 これらのことは五世紀半ば時点で四国全体を統治できる人材と組織が配置されていたことを示すものですが、当然それは四国に限らず西日本全体にいえることであり、可能性としては東国にも同様な体制がすでにできていたと言うことも考えられることとなります。それが「武」の上表文に反映されているともいえるでしょう。そのことはかなり強力な統治体制が構築されていることを感じさせますが、その意味でこの時点の倭国王の権威がかなり強大化していたことを裏付けるものです。

 以上のように考えると、この時点付近で既に各地に「軍」が編成されていたことが推定されますが、それに関連して『隋書俀国伝』で「軍尼」という存在が書かれていることが注目されます。
 この「軍」という字は倭国から派遣された「遣隋使」の発音を「隋」の史官(「起居注」を担当していた者)が書き留めたものであり、「表音文字」という可能性が第一に考えられますが、その場合「音」としては「コン」というものであったと思われます。しかし、「コン」という「音」を表す漢字は他にいくらでもある中でそこに「軍」という字が使用されているのは、それが「軍事」に関わる職掌であったからではないかと思われます。それを示すように『隋書』の中では「軍」という字は「軍事」に関する使用例しか検出できません。
 また「尼」は「漢音」では「ジ」であり、「軍尼」とは「コンジ」と発音するものであったと見られることとなりますが、倭国側では「軍事」という漢語を発音していたものであったのではないでしょうか。それを聴き取った史官がそのような職掌が倭国にあったと認識していたなら「軍事」という字面を用いていたはずですが、その認識がなかったため「軍尼」という字面の採用となってしまったものと思われます。ただし「尼」という字を選択した意味はやや不明ですが、この「尼」は特に絶域の人名の表音に使われる例などがあり、それほどいわゆる「尼」という仏教に従事する女性の意義としての使用例に特化しているわけではなかったようです。

 これら諸地方に展開されていた軍事的責任者として「評督」の上位者として存在していたのが「都督」であると思われ、それは「倭国王」の自称の中にも、「南朝皇帝」からの称号の中にも存在していますから、この当時「倭国」には「都督」として「倭国王」が存在していたことは間違いなく、彼のもとに階級的軍事制度が構築されていたと推量されます。
 さらに彼は「開府」していたと称しているわけですから、「都督府」というものが列島内のどこかにあったのは確実ですが、それを示すのは『書紀』の『天智紀』に「筑紫都督府」というものが出てくるのが唯一確認できるものですから、「五世紀」当時も「都督府」が「筑紫」にあったとみて不自然ではないと思われます。(ただし「都督」という職掌の「付与」主体はその後「南朝」から「倭国王」へと代わっていたとは思われますが)
 つまり、『伊豫軍印』を所有していた人物が「筑紫」の「都督」の配下の人物であったという可能性は非常に大きいと思料されるものです。

 また『書紀』には『崇神紀』に「将軍」に「印綬」が授けられたという記事があります。

「(崇神)十年秋七月丙戌朔己酉。詔群卿曰。導民之本。在於教化也。今既禮神祇。災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。是未習王化耳。其選郡卿。遣于四方。令知朕意。
九月丙戌朔甲午。以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃擧兵伐之。既而共『授印綬爲將軍』。」

 ここでは「四道将軍」に対して「印綬」が授けられていますが、これが事実とすれば当然「銅印環鈕」であったと考えられることとなります。
 またこの記事では「正朔」を「荒人」に教化するとされていますが、「正朔」が「太陰暦」を意味するものとすると、その「太陰暦」の使用開始時期が五世紀後半と見られることを考えると「崇神紀」の記事の時代設定には疑いが残ります。
 このように「崇神」の時代設定を理性的にとらえるのが難しいのですが、「将軍」であることを示すには「印授」によるという知識があったことを示すことは確かであり、またその規格は「南朝」あるいはそれ以前の「魏晋朝」に由来するものと考えられ、「伊豫軍印」とほぼ同じ外観であったと考えられることとなるでしょう。


(この項の作成日 2015/03/21、最終更新 2017/02/19)