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隅田八幡宮の鏡と日十大王


 「和歌山県」の「隅田八幡宮」には「国宝」とされる「鏡」があります。この鏡には「銘文」がついており、そこには重要なことが書かれています。

(以下原文と標準的読み下し)

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」

「癸未の年八月十日大王年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。」

 これについては他にも読み下し案が提示されており、解釈と共に多くの考えが示されています。例えば古田武彦氏によれば「日十」は「十日」のことではないし、「大王年」は「大王」の年(年次)を示すものではなく中国風「一字名称」であり、また「男弟王」は『魏志倭人伝』の出現例と意味は同じとされています。(※1)それによれば「男性の王」の弟は単に「弟王」と表記するのに対して「女性王」の弟は「男弟王」と表記する例が見られるとされ、(典型的なものが「卑弥呼」と「男弟」との関係とされるが他にも例を提示されています)この「日十大王」と「男弟王」の場合にも当てはまる可能性があるとされるのです。つまり「日十大王」は「女性」である可能性が高いというわけです。(※2)
 さらに、「卑弥呼」の「男弟」が「佐治国」と書かれたように「男弟」(王)」が「女王」に代わって摂政的立場で万機を取り仕切っていたという可能性が強いと思われます。それが「連名」として書かれている理由ではないでしょうか。
 もし、そうであるとすると「武」の即位に際して「空白」があることの理由として整合的となると思われます。

 また、ここに書かれた「斯麻」が「斯麻王」つまり「百済武寧王」であろうというのはほぼ正しいと思われ、そうであれば「癸未年」というのは「五〇三年」で問題ないと考えられます。(この一巡後という説もあるようですが、それでは人名に合致する適当な人物が見いだせません。)
 また、「武寧王」は「五〇一年」に「東城王」が暗殺された後に帰国して即位したと考えられ、「倭国」の支持を確固たるものにするために「鏡」を贈呈したと見れば「鏡」贈呈のいきさつとしても理解できます。
 問題は「倭国側」の人物と思われる「日十大王」と「男弟王」とは「誰か」と云うことです。
 これが「五〇三年」とすると「倭の五王」の最後である「武」の時代と考えられ、もし「日十大王」が女性ならば、「武」自身が「日十大王」なのか、それとも彼は「男弟王」なのか、あるいは「武」は既に死去しており、彼の「皇后」が称制したのかというような種々の可能性が考えられます。可能性としては(古賀氏の主張を援用すると)『推古紀』の記事が一二〇年遡上するということも考えられ、その場合「日十大王」は「推古」に、「男弟王」は「聖徳太子」に投影されていると思われるわけです。
 また「銘文」にある「日十大王」についても各種の解釈が行なわれていますが、いずれも決定的とはいえないようです。これについては「私案」としてこの部分が元々「日本大王」と明記されるはずのものではなかったかということを仮説として提示します。

 この「日本大王」という表記は、元の「原稿」ではこの「本」は「大+十」(「夲」)という字形であったと考えるわけです。これは「富本銭」にも「百済禰軍墓誌」にも使用されていますが、当時広く用いられた「本」という字の「字形」です。(「本」の始原的な字はあったもののそれは全く知られていなかったようであり、この「夲」が「本」の代用をしていたものです。『新選字鏡』などを見ても「本」字は見ることができません。このことから「本」という字が一般的に使用されるのは「十世紀以降」とされています。)
 つまり、原稿から「型どり」して「鋳型」を起こす際に「刻する」訳ですが、その時「間違えた」のではないでしょうか。
 文章の中ではこの後にも「大」字が来るため、それと「混同」したという可能性もありそうです。そのため前の「大」字を脱落してしまった結果「日十」という表記となってしまったものではないでしょうか。(つまり「日」「大」「十」「大」と「縦に」並ぶ文字列であったものが、「日」「十」「大」と「大」が一つ脱落したのではないかと考えられるわけです。)
 このような「誤刻」と云うことを想定するのはこの鏡については一部に「左文」が現れており、鋳型を起こす係の人間に「文字の素養がなかった」という可能性が考えられるからです。(他にも解釈次第で変るような文字が存在しています。)そうであれば「夲」と書くはずのものが「大」が脱落すると言うこともあり得ると思えます。(「大」と「十」はかなり離れて書かれるのが通常のようですから、この「鋳型製作」の担当者がこれを「一字」として認識せず別字と考えていたというという可能性もあるでしょう。)
 ただし、この推測ではこの時点で既に「日本」という国名(?)が使用されていることとなりますが、この名称が「肥国」つまり「日国」にちなむものであるという可能性もあると思えます。それは元々「日本」というのが「肥」の国の自称であったという可能性があると考えるからです。

 既に述べたように「倭の五王」時代の「倭国」の本拠とも云うべき場所は「肥(日)」の中にあったと推定されるものであり、この時の「倭国王」は「日本大王」という自称をしていたのではないかと推察されるものです。つまり「日本全体」を意味すると云うより「肥の国」(=「日の国」)の王という意味合いが強かったという可能性があると思われ、「日本」は「日の国」の美称として使用されていたものと考えられるわけです。
 「斯麻王」は「筑紫」の「斯麻」にいたとされますが、この「斯麻」は『倭人伝』や「翰苑」に書かれた「斯麻国」の事と考えられます。「翰苑」は「唐」の「張楚金」が記したという史書で、「唐」の「顕慶五年」(六六〇年)頃に書かれたとされますが、その中に「邪届伊都、傍連斯馬 /中元之際、紫綬之榮 /景初之辰、恭文錦之獻」という文章があります。ここでは「斯麻国」は「邪馬壹国」の近傍にあり、「伊都国」に隣接していたこととなり、これは現在の「糸島半島」のどこかにあったものと推定できるでしょう。つまり彼は「北部九州」に「質」として滞在していたと考えられる訳であり、また「倭王権」の至近にいた訳と考えられ(そうでなければ「質」の存在意義はないでしょう)、彼等は相互に知己があったと見て間違いないでしょう。(その「倭王権」の場所として「江田船山古墳」がある「肥後」の地がふさわしいと考えられるわけです。)
 その後「百済」に政変が起きたため「嶋王」は帰国したものですが、その後も「倭国」を軍事的な後ろ盾として頼んでいたものと思われます。

 後で述べますが、『推古紀』の「觀勤」の上表文記事については明らかに「一二〇年」程度の年次移動という「改定」が行なわれていると考えられ、そうであれば「推古」そのものが「五世紀末」の人物であると云うこととならざるを得なくなります。つまり「日十大王」が女性であることが「推古」という「女帝」に反映されていると考えられる訳です。
 また、「継体紀」に引用された「百済系資料」についても「干支一巡」の移動が推定され、本来「四七一年」のことであったという可能性があると思われます。これは「上」の「推古」の推定即位年の「四七二年」の前年のことであり、年代的に整合する内容となっています。
 この「推古」に反映されている人物はそのような「混乱」の中で「ピンチヒッター」として擁立されたと見られることとなりますが、それは『二中歴』の年代記の「干支一巡(六十年)移動」という観点で考えると、その「年代」は「継体」の時代となるわけであり、その「継体」という天皇名(年号)として如実に表れているといえるのでしょう。
 「継体」や「持統」という名称はいずれも「つなぎ」を意味する漢語であり、本来の皇位継承権は持たない存在を意味すると考えられます。
 「一字名称」を「武」という勇ましいものとし、長文の上表文を書いて送ったのは「女帝」であることを隠すための「カムフラージュ」であったのではないでしょうか。(「外部」に対しては「男弟王」が前面に出ていたのかも知れません。)


※1 古田武彦「よみがえる九州王朝」角川文庫
※2 富永長三『「男弟」を考える−−あわせて「大王・年」について』「市民の古代第」14集1992年市民の古代研究会編

他参考 飯田満麿『隅田八幡伝来「人物画像鏡銘文」に就いて』古田史学会報七十二号二〇〇六年二月八日


(この項の作成日 2013/05/11、最終更新 2015/07/21)