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倭王「武」と「磐井」


 「倭の五王」の地が九州北部(あるいは肥の国)であったとすると、『書紀』に記載のある、「五三一年」に起きたとされる、いわゆる「筑紫の国造磐井の乱」に登場する、九州の権力者であった「磐井」との関係が注目されます。
 北部九州の盟主であったという「磐井」は「武」の直接の後継王者であった可能性が非常に高いと考えられます。その「武」は"四七八年の即位"と『宋書倭国伝』に記述があるところから推算すると、その治世は五十年近くになるものと思われます。
 ところで、『書紀』の中には興味ある言葉が載っています。それは、時の「新羅」遠征軍として筑紫に来た「近江の毛野臣」への磐井の言葉として「同じ釜の飯の仲」という意味のことを言っている点です。

「(継体)廿一年(五三一年)夏六月壬辰朔甲午(三日)。近江毛野臣率衆六萬。欲往任那爲復興建新羅所破南加羅。喙己呑而合任那。於是筑紫國造磐井陰謨叛逆。猶豫經年。恐事難成恒伺間隙。新羅知是。密行貨賂于磐井所。而勸防遏毛野臣軍。於是磐井掩據火豐二國。勿使修職。外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船。内遮遣任那毛野臣軍。亂語揚言曰。『今爲使者。昔爲吾伴。摩肩觸肘共器同食。』安得率爾爲使俾余自伏爾前。」

 ここでは「肘肩触れあわせて同じ器で食事した」とされ、使者(毛野臣)は以前は「吾伴」であったとしています。この事から「磐井」という人物は倭国王権に仕える下級豪族的立場にいたことが判ります。
 前述したように「倭の五王」の最後の王である「武」の在位期間が異常に長いことが知られていますが(四七八〜多分五二六)、その最大の理由は、「後継ぎ」を決める困難さがあったのではないか、と推定されます。というのは「武」は元々正当な皇位継承者ではなかったからです。つまり、「済」の後を継いだ兄の「興」が急死したため、本来ならばその次は「興」の子供の中から選ばれるべきものであったのです。
 「倭の五王」の「初代」である「讃」から「珍」へは「兄弟」相続であったようですが、「済」は「珍」の子供であり、その「済」から「興」も「親子」相続でした。このことは、この頃から「親子相続」が基本となった事を示しているようです。そして「興」の死後「武」の登場となるわけですが、これは明らかに「イレギュラー」な事であったと考えられ、「興」の「子供」がいなかったか、まだ幼かったか、という事情があったのではないでしょうか、そのため「武」が「代理」として後を継いだものと考えられます。 
 このような場合、往々にして「正当な相続権」を所有している「兄」の子(もしいた場合は)が成長するにつれ、「相続問題」が起きるものと考えられます。さらに、自分にも子供が出来ると、その子も関連して「相続問題」は更に複雑になっていったものではないでしょうか。その結果、(折衷案として)有力な配下の人物から「後継ぎ」を選ばざるを得なかったのではないかと思われ、そのことがこの「磐井」の言葉に象徴されているのではないかと推測されます。

 「武」以前の「倭国王」の統治領域の拡大の様子は「宋書倭国伝」内に長文引用されている上表文により明らかですが、基本的には「力」による政治です。しかし、「年号」の公布などの政治的行為は、そのようなものと一線を画するものであり、これは「武」以降の「新方針」であったという可能性もあります。
 「磐井」は、彼の「墳墓」とされる「岩戸山古墳」の様子を伝える記録からも明らかなように、自分の墓に裁判の様子を残そうとした、つまり統治者個人に対する「尊敬」や「恐怖」などでなく、「法」による支配を目指していたものと考えられます。
 「磐井」は「律令」を整備して「秦の始皇帝」のように「法の帝国」を築こうとしたように思えます。というのは、それまでの例から言えば、「磐井」も「武」などと同じように「中国南朝」へ遣使し、「称号」をもらう行為をするはずですが、実際には遣使をしていません。(遣使の記録が「武」で絶えています)これは「南朝」からの称号を頼りに、言い換えれば「南朝」の力をバックにするような政治を「磐井」が目指していなかったからではないか、と考えられます。そして「磐井」は、古墳の状況が示すように「古律令」というべきものを制定し、「法」による統治をこの時以降実行していったものと思われるのです。

 『風土記』の中には「磐井」が生前から築いていた「墳墓」の様子が詳しく書かれています。

『筑後国風土記』(逸文)「磐井君」「…東北の角に當りて一つの別區あり。號けて衙頭と曰ふ。…號けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。側に石猪四頭あり。臟物と號づく。臟物とは盗物なり。…」

 この文章の中では「磐井」の古墳の「別区」についての描写がされていますが、そこでは「贓物とは盗物なり」と書かれており、この読みは「ぞうぶつ」とは「ぬすみもの」なり、と読むと考えられます。これは「贓物」という法律用語の「解説」になっている文章であるわけですが、「贓物」が「音」で発音することが想定されていることから考えて、「偸人」や「解部」についても「音」で発音した(読んだ)ものと推察され、それは「南朝」からもたらされた発音である「呉音」で発音されたと考えられ、「偸人」は「とうじん」と読むと思われますから、「解部」だけが「ときべ」と「訓」で読んだとは思えません。これも「げぶ」と呼称したものと推察されます。
 つまり、この時点で制定されたと考えられる「古律令」は「漢文形式」で書かれていたものと推察されるものです。(その後の律令も全て漢文で読むように書かれています)
 すでにその時点で「万葉仮名」は成立していたとみられるわけですが、「律令」の「条文」としては「漢文」によることが決まっていたものでしょう。(これは律令だけではなく冠位や職掌などの制度及び宮廷内文書などもみな「音」つまり「漢文」で発音されたものと推量します。これは「中国」から流入した律令(特に「泰始律令」)を「手本」にしたが故に「音」(漢文)なのだと考えられるのです。)

 さらに『筑後風土記』では、この「解部」たちの石人像が建てられていた「別区」について「衙頭」と呼称されていたことが明らかとなっています。
 この「衙頭」も「倭国」独自のものであり、「衙」は「牙」に同じものであって「大将軍」を指す用語と考えられ、「牙旗」「牙城」などの用法と同一のものであり、「大将軍」の「政所」、つまり「政治」を司るところを云うのではないかとされています。
 このような「政治機構」は「南朝」から「大将軍」号を授けられていた「倭国王」にとっては、ある意味「当然」の役所でもあります。
 また「岩戸山古墳」に配された「石人」や「石馬」のような、「石材」により「人や動物」を象り、「墳墓」の周囲に並べるなどの行為は「南朝」に始原を持つものであり、「南朝」配下の将軍としての「倭国王」には存在して当然であったものと考えられます。

 この時「磐井」が制定した「律令」が、直接参考にしたと考えられる「律令」は「泰始四(二六八)年」西晋の武帝が公布した「泰始律令」であったと考えられます。一般にはこの「泰始律令」の成立によって、刑罰法規としての「律」と行政法規としての「令」が、明確に分岐したと言われています。
 そもそも「律令」と言いながらそれまでは「律」が優先されてきていました。そこには「行政」の根本は「治安維持」である、という考え方があったものと思慮されます。このように「律」を重視する考え方は「中国」でも、その後も継続します。そして、これを受けるように「磐井」の「律令」が定められたものではないかと考えられます。『風土記』に「解部」が存在することの意味は、この段階で「律」の中心である「犯罪」に対する「刑罰」の制定とそれを判定する「役人」の組織を定めたことを意味するものと考えられるものです。

 この「解部」という官僚組織が後の『大宝令』にも残されているのは注目です。
 一般には『大宝令』は「唐」の『永徽律令』に依拠したとされますが、そこにはそのような役職はありません。(それはそれ以前の『貞観律令』などおいても同様ですが)しかし『大宝令』やその後の『養老令』にも「解部」は残っているのです。
 このことは「解部」などの職掌はかなり以前から「倭国」に存在していことを示唆するものです。このようなものは元々「巫女」の仕事の範疇のものと思われ、「解部」たちは「鬼道」(「古神道」)で「神意」を占うのに使用された、「動物」の「骨」(特に鹿)を焼き、そのひび割れの仕方で「吉凶」を占ったり、「探湯(くかたち)」などの「神意」を占う方法を、「犯罪」の際や「訴訟」などの「善悪」などの「判断」に使用していたものであり、このような「伝統的」審判法が主流であった時代が「倭国」では長かったのではないでしょうか。このため、「律令」を導入しても「解部」のような職掌の人間を配置せざるを得なかったものと推察されます。やはり、「伝統」を「無視」するわけには行かなかったのだと思われます。
 この「解部」にあたる職掌が「武」の時代以前よりあったかどうかは不明ですが、それを正式な役職としたのは「武」か「磐井」のどちらかであったと思われます。

 このように「律令」を導入し「法による正義」を唱えた「磐井」でしたが、まだ時代の主流は「力こそが正義」というものであったことに、「磐井」が気づかなかったことが彼の悲劇につながっているように思えます。
 「五三一年」にいわば「クーデター」にあって「失脚」するわけですが、その際も「磐井」は戦うことをせず、「一人遁れて」山中(南山)に入った、という『筑後国風土記』の記事が「磐井」という人間をよく表してます。
 結局それまでの「武」という、力も大義名分も備えていたものが「倭王」として支配していた体制が、「磐井」に変わり、「法」や「年号」など制度としては整備されたけれど伝説的英雄としての「力」も「大義名分」もなければ、「倭国王」として国内体制を固める、ということは大変困難であったものと考えられるのです。


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2014/11/28)