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朝鮮半島と「前方後円墳」


 「朝鮮半島」にも「前方後円墳」が存在します。主に「栄山江」流域などで五世紀後半から六世紀前半のものと考えられるものが発見されています。
 この地は、いわゆる「馬韓」の地域と考えられ、後に「百済」の領域となったものです。
 この地からは「前方後円墳」の他にも「北部九州」の影響と考えられる、「甕棺」「埴輪」型「円筒形土器」、「須恵器」様土器などがあり、また九州他方と同様の「横穴式石室」があることなどが指摘されています。

 「通常」の解釈では、「前方後円墳」は「近畿」の王権の発展と拡大の象徴とされています。つまり、「前方後円墳」の分布域は「近畿」の王権の領域を示すと考えられているのです。それでは、朝鮮半島に「前方後円墳」は存在する意味は何なのでしょうか。
 この「前方後円墳」は「近畿王権」に関連するものなのでしょうか。現在の定説ではさすがにそうではないとされており、そのため「細かな様式の違い」などが指摘されていて、列島のものとは「別」と括られており、名称も「前方後円」型古墳という言い方がされているようですが、この程度の多様性は国内の古墳でさえも認められる範囲のものであり、言い換えると半島にあるが故に「前方後円墳」とはしていないと言うこととなります。
 なぜ「峻別」するかと言えば、朝鮮半島の「前方後円」型古墳を「前方後円墳」と認めると「朝鮮半島」が「近畿王権」の領域の一部であったこととなってしまい、それは明らかに「合理的ではない」と考えられているからです。つまり、「国内統一」が成されていたかどうか微妙であるのにも関わらず、国外まで領域の一部としていたか、それが可能であったか、などについては、近畿という「地域」を中心として考えると少なからず「疑問」であるからです。
 しかし、先に述べたように「前方後円墳」の「発展」と「拡大」は「倭の五王」の「統治領域拡大」という事績とリンクしているのです。

 「武」の「上表文」によれば「西は衆夷」「東は毛人」とともに「渡りて海北」という表現で「朝鮮半島」を指す言葉が出てきます。「北方」に海を渡って、多数の国を平らげた、と言うのですから、この記述が「列島内」に対するものではないと判断できます。これは明らかに「朝鮮半島」を指しているものであり、この文章が「南朝皇帝」に対する「上表文」に存在している、と言う事は、この記述を「虚偽」とか、「誇張」とかは「軽々」には言えないものと推量されます。
 その同じ上表文内に「句麗無道にして」とあり、「高句麗」との衝突が訴えられています。また、「高句麗好太王碑」の分析によれば「倭」の脅威がかなり強かったことがわかります。
 さらに、『三国史記』によればこの当時「百済」は「倭」と友好を結んでいます。(太子を質にさえしています)
 また、「武」の上表文内では、南朝の皇帝に「要望」した「称号」の中に「百済」についての「軍事権」が入っています。(この部分は認められませんでしたが)
 その「百済」の地に「前方後円墳」があるのです。このことは、この旧「馬韓」の地域に「百済」が南下してくるまで存在していた勢力と「北部九州」及び「倭の五王」がそれぞれ深く関係があると考えられるものであり、推測すれば、当時この地は「倭人」が(も)いて、「前方後円墳」が築造されるような政治状況であったこととなるでしょう。
 これらのことから「近畿」に「倭の五王」がいたとすると「矛盾」となることも「九州」(それも北部)に「倭に五王」がいたとすると「合理的」となるものであり、これは「武」の上表文や「好太王」の碑文と重なる事実と考えられます。
 つまり、この「朝鮮半島」の「前方後円墳」という存在は(近畿などと同様)「倭の五王」に関するものであり、しかも「近畿」ではない地域に「倭の五王」がいた、ないし「始源」があったことを示すものと推量されるものです。

「百済」では(その周辺でも)仏教の伝来が早かったものです。「馬韓」の地でも仏教の受け入れは「倭国」より早かったと考えられます。
 「倭国王」は半島において「百済」の軍事力を支援として獲得するために仏教伝来を受け入れたものの、王権内部では「古神道」的要素がその後も遺存したと考えられ、「王権」の宗教的祭祀は変わらず「古神道」的なものであったものと考えられます。
 通常の「古墳」は「葬儀」の際に古墳前方に「臨時」に「祭祀」を行う場所を設け、終わればそれらは撤去され、祭祀は「一回限り」であったと考えられますが、「前方後円墳」の場合は、「祭祀」の場所が「古墳」(墓)と一体になっているわけであり、「継続的」祭祀が可能となっているのです。(実用されたかどうかは不明ですが)そして、ここで行われていた「祭祀」は仏教と相容れないものであったと考えられるわけであり、「古神道」的祭祀が行われていたものです。
 「百済」では「王」が仏教を率先して受容したため、国内全体に仏教が早期に普及すると共に周辺地域(馬韓など)でも、早くに一般化したため、そのような「旧式」の祭祀を伴う「古墳築造」が受け入れられなかったものと推量されます。
 しかし、「歴代」の「倭の五王」達により「拡張政策」が継続され、それにより多数の「倭人」が半島内に進出する事となった結果、彼らと彼らにより影響を受けた土着の人たちの間で「古神道」的信仰がはじめられた(一種の廃仏毀釈か)ものと考えられます。それが「武」の時代の事と考えられ、彼らにより「前方後円墳」の築造が始められたものでしょう。

 この「栄山江」地域にはこのような「前方後円墳」につながるような墓制や形式は見られません。前代から続く墓制と全く異なるものが突如として造られているという現象は、「近畿」における「前方後円墳」の出現の様相とよく似ているといえるでしょう。つまりこの「前方後円墳」が「外的圧力」によって造られたということを示しており、それは「近畿」と同様「前方後円墳」を築造した(させた)勢力は「外部」に存在するものであったことを示しています。
 北部九州の影響と考えられるものは他にもあり、その石室には「ベンガラ」で赤く着色されたものが確認されており、これは「北部九州」のものと酷似しています。また「造山古墳」(吉備のものではない)からは「ゴホウラ製貝釧」が出土しましたが、その形式は「佐賀」「福岡」「熊本」などの古墳から出土したものと同じでした。
 これらの「前方後円墳」は上に見たように「倭王権」の拡張政策と関連していると思われ、南下してくる「高句麗」に対し「百済」と連合して戦線を立ち上げていたことを示すものであり、「百済王権」とも密接な関係を持っていたことがせ強く推量されるものです。

 「熊本」の「江田船山古墳」から出土した「金王冠」や「装飾沓」などは「武寧陵」(「武寧王」つまり「斯麻王」とその夫人の陵)から出土したものとほぼ同じものであり、特に「王冠」が同じと云うことは「王権」としての性質や強度などの内実が「百済王権」に匹敵するものであったことを意味すると思われますが、「武寧王」が一時倭国に質となっていた人物であり、彼が帰国する際にはかなりの兵力を伴わせたということなどから、「武寧王」と当時の「倭国王」とは非常に友好的であったものと思われ、彼らの間に共通の衣装や習慣、武具や馬具があったとして何ら不思議ではないこととなるでしょう。そのことからもこの「江田船山古墳」の主が当時の「倭国王」と強く関連していることを推定させるものです。
 また「武寧王」の棺の材料が「コウヤマキ」であったことも「武寧王」と「倭国」の関係を象徴しているようです。(「コウヤマキ」は日本にしか自生しない樹木です。)
 
 その後この地域において「前方後円墳」の築造が停止されるわけですが、その時点は「高句麗」の勢力もより強くなり、「百済」がそれに押されて南下するようになると、この地域も「倭国」と云うより「百済」の影響下に入ることとなったものと見られ、そのため仏教の勢力範囲となった結果、「前方後円墳」の築造は終息することとなったものと思われます。
 また「倭国」の国内状況が「拡張主義」政策を放棄して「内政重視」となったと思われ、そのためそれまでの「拡張主義」に基づいた「半島政策」は変更、停止されたものであり、その影響もあったものと推量します。

 ところで、「朝鮮半島」の「前方後円墳の「石室」材料にも「阿蘇の熔結凝灰岩」が使用されている可能性があるのではないかと考えられます。「肥後」から切り出された「石材」は船に乗せて近畿まで運んだと見られますから、対馬海峡を越えて半島へ運ぶということも技術的には不可能ではなかったと思われ、実際に行われたという可能性も考えるべきでしょう。
 仮定の話ではありますが、もし「朝鮮半島」の「前方後円」型古墳に「阿蘇熔結凝灰岩」が使用されていた場合は、これは間違いなく「倭国王」の政策としてのものであり、しかも従来の解釈であった「肥後」の王者が「近畿王権」の「統一王者」に「服属」した証しとして、「石室材料」を贈呈していた、というものが「虚偽」ないし「誤認」であって、従前主張したように「肥後」の王権の「伝統」と「権威」の及んだ範囲に「前方後円墳」は存在し、そこに「阿蘇熔結凝灰岩」の石室材料が使用されているという解釈が「正当」なものであることが証明されるものと思料されます。至急調査され、結果が公表されることを望みます。


(※)この項は『朴天秀「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳 ―古代九州との国際交流―」(九州国際大学 国際関係学論集第五巻二〇一〇年)』を参考にしています。


(この項の作成日 2011/09/07、最終更新 2015/07/21)