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倭の五王と朝鮮半島出兵


 倭王「武」の上表文に書かれている「歴代」の「倭国王」の、周辺諸国を服従させるための戦いの過程が誇大なものでない、リアルなものであるということは、海を隔てた朝鮮半島に今も残る「高句麗好太王の碑」の中に描写されている「倭」の行動が間接的に証明しています。
この碑の中では「倭」はしきりに「新羅」、「高句麗」の領域を侵し、それが為にこの両国の長年のわずらいとなっていた事実が示されています。
 この碑は「高句麗好太王」(在位三九一〜四一二年)の功績を顕彰する目的で設置されたものですから、彼らが戦って負けた記録は明確には書かれていませんが、碑文の分析から「倭」国の脅威が相当強かったことがわかります。
 この時代は「倭王」「讃」のころかと思われますが、「武」の上表文にも「自昔祖禰躬環甲冑、跋渉山川不遑寧處」 と書かれており、「武」の時代までの各代の王の事績をまとめて表現したものと考えられます。
 結局、この上表文にも「渡りて海北を平らげること…」とあるように朝鮮半島を「海北」と表現しうる九州北部に「倭」国があったと考える以外にないように思われます。

 また、そのことを裏付けるような説話が朝鮮に伝えられています。それは「朴堤上」にまつわる悲話です。この話は、五世紀のころ(倭の五王で言えば「讃」のころ)のことと考えられていますが、その話の中では「新羅」は人質として王子を「倭国」と「高句麗」に差し出していました。「高句麗」は多年にわたる人質生活を哀れみ、その王子を「新羅」に帰国させましたが、「倭国」はそのような情をかけず、そのために王子は人質生活を続けざるを得ませんでした。そこで、臣下の「朴堤上」と言う人物が一計を案じ、「新羅」を裏切って「倭国」に寝返った芝居をして「倭国王」を油断させ、隙を見て「王子」を船に乗せ逃がすことに成功しました。人質に逃げられたことを知った「倭国王」は逆上して、残った「朴堤上」を惨殺しました。新羅に残された「朴堤上」の家族は「倭国」が見える海に臨んで嘆き悲しんだ、と言う話です。
 この話の中では、船にのって逃げた人質であった「王子」は海に入ってまもなく、「倭国王」の手の届かない領域まで逃げています。たとえば、「奈良明日香」の地に「倭国王」がいたのではこの話は成立しません。たとえそれが難波であったとしても、逃げてまもなく「手の届かない」領域まで行くことは不可能です。これらの話は「倭国王」の所在する場所が「朝鮮半島に近い場所」で「海に面している」という条件を満たすことが必要なのです。それは古代の都市の中では「筑紫」だけが兼ね備えている条件です。
 また、この話からも「新羅」のおかれた苦しい立場がわかります。北は「高句麗」から攻められ、南は「倭」に押さえられ、「百済」からは絶えず侵犯されている状態で、このように過酷な政治情勢が(逆に)自主独立の機運を醸成させていったものと思われます。

 この「高句麗好太王」碑文は現在北朝鮮国内に存在しています。過去、日本軍による朝鮮半島支配の時期に碑文が「改削」された、という指摘がなされて久しく、詳しい調査が何度かされていますが、知られている範囲ではそのような痕跡は見当たらず、書かれた碑文の文章にも問題はないと考えられています。(拓本をとる際の技術的な問題がほとんどと思われます)
 また、碑文中の「渡海破」「為臣民」という文章の主語が「倭」と解釈されているようですが、前述したようにこの碑文は「好太王の功績の顕彰」が目的なのですから、特に指示がない主語はすべて「好太王」と解釈すべきで、そうすると当然、先の文章は侵入してきた「倭」軍を「好太王」が「渡海」して「破」ったものであり、百済や新羅を「臣民」としたという事跡(高句麗の建前論)が書かれている、と考えられます。(「辛卯」(三九一年)の年のことと考えられます)つまり、「広太王」を天子の位置に置いた書き方となっているわけです。しかし、それを踏まえてみても、この時「倭軍」がかなり「半島」に深く侵攻していたらしいことが推測できるでしょう。しかも「渡海破」とされていますから、これは「高句麗」の地域から海(この場合は日本海)を越えた「新羅」の領域に対する侵攻作戦を言うと思われますが、それはこの時の「倭軍」も「百済」の領域だけではなく「新羅」に対してもかなりの軍事力を行使していたらしいことが推察されるものですが、それは「済」「興」「武」と各代にわたり「新羅」に対する軍事権を標榜していたことを裏付けるものです。
 「武」の上表文の中でも「句麗無道」という言葉もあり、それは上に見たような「渡海破」作戦などに対する非難を含んだものといえるでしょう。

 ところで、「武」の上表文に書かれた内容は基本的には「半島」に対する「征服行動」を含んでいるものであり、「自昔祖禰躬環甲冑、跋渉山川 不遑寧處。」「義士虎賁 文武效功 白刃交前 亦所不顧」等という文章などは「対高句麗」の軍事行動を典型的に示すと考えられますが、これは「大伴家持」の「賀陸奥国出金詔書歌」の中にある「海行かば 水漬く屍、山行かば 草生す屍、大君の 辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」という文章と体裁や文意がよく似ていると考えられます。
 この「上表文」の中に出てくる「虎賁」(こほん)は「皇帝」に直属する部隊をいい、いわば「親衛隊」を意味するものです。つまり、「親衛隊」も含め「戦い」に強い気持ちで臨んでいると言うことですから、その「決意」は「王自身」のものであって、また当然「親衛隊」の「決意」でもあったわけです。この場合「親衛隊」と言えるのは「大伴」であり、また「佐伯」であるとも言えますが、またその祖ともいうべき「久米」でもあったと思われ、その意識が「大伴家持」の歌に明確に現れていると考えられます。
 この「大伴家持」の歌は「東大寺」の大仏建立のために表面に「金箔」を貼るため、国内に金山開発していたところ「陸奥」で金がでたという報告を聞いた「聖武天皇」が喜びを表現した「詔」を下敷きにしたものです。
 その「詔」の中では「大伴」「佐伯」という両氏族を特に名をあげて褒めそやしており、親衛隊として「天皇」の側近くに仕えていた過去を回想したものと考えられています。

 そもそも天皇の「詔」で使われたこの歌は「大伴」や「久米」の「古代歌謡」であり「戦闘歌謡」であったと考えられ、これを「漢訳」して「武」の上表文に取り入れたものではないでしょうか。またこの歌の中では「海ゆかば」とされ、「天皇」とともに「大伴」「佐伯」が「海」を渡ったらしいことが推察されますが、『書紀』『古事記』のいずれを見ても「水軍」としての戦闘行動が見られません。(あったとしても「神功皇后の新羅征伐」程度かとは思われるものの、そこには「戦闘」の描写がなく、あったとしても大規模なものではなかったと考えられるでしょう。それよりは「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」の際の唐・新羅との戦いがこの歌に反映しているとみるべきでしょう。そこでは「新羅」本国に対する戦闘行動や「唐」との水軍同士の戦いが描写されており、それによれば多数の死傷者を出したらしいことが推察されています。もちろん「倭の五王」による大統一に伴う戦闘を詠ったものという解釈も可能とは思われますが。当時「水軍」があったかは不明です。)

 ところで、この歌の中では「大君(オオキミ)」とはいわれているものの「皇(スメロギ)」とは書かれていません。このことは「天子」を標榜した「阿毎多利思北孤」以前である事は間違いなく、中国「南朝」に臣事し、「都督」などの称号を受領していた時代の事実を反映していると思われ、このことからも「武」の上表文と同時代の成立と考えられるものです。


(この項の作成日 2010/12/25、最終更新 2017/07/07)