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「武」の即位の裏側


 「百済」では「南朝」から「将軍号」を授与されているにも関わらず、「南朝」の年号は使用していた形跡がありません。「武寧王」(斯麻王)の墓に納められた墓碑銘や売地券(あの世で土地を買うためのもの)の中にさえも「干支」でしか表記されていないという事実があります。このようなことにはいくつか理由があったようですが、それにも関わらずここでは南朝の年号が使用されていることとなります。その理由を考えると、自分たちの背後には「南朝」がいる、という「危機」に際しての一種の「注意喚起」としての機能があったのではないでしょうか。つまり、ここで「七枝刀」を「贈る」という行為はその「南朝」配下の「将軍」としての「連帯感」を誇示する意味もあったものと思われるのです。

 また裏面の「奇生聖晋 故為倭王旨造」という部分もかなり難解ですが、実物を精視した各氏の言によると「晋」に似た部分はやはり「晋」であるとされています。また「奇生」についてはほぼ使用例はありませんが、「熟語」としての使用例としてかなり後代のものではありますが「明通奉大夫湖廣左布政使撫治兩廣地方兼廣東按察司副使陶公墓道碑文」の中に「…白沙先生曰:「公之治民如治兵,因應隨機,初無定體。其治兵也,如文士作文,『奇生』筆端,無事蹈襲,故能使人畏之,而率以取勝,此皆公精神心術之奧之運云。」…」というような例があります。

 また「薬師寺東塔」の「察銘」に「猗興聖王」という表現があり、これに類似しているとはいえそうです。この「猗」という字には「感嘆」を表す意味がありますから、この部分の解釈も同様の趣旨である可能性が考えられ、また「生」は古典では「生きる」ではなく「生む」「生まれる」という例の方が圧倒的ですから、結局この部分の解釈としては以下のものが可能性として考えられます。
 『「百済王」の「世子」は「驚くべき事に」「聖なる晋」に生まれたものであり、そのゆえに倭王「旨」のために特にこの刀を造りました。』
 このような解釈が可能ですが、上の文章の流れからは文意が不明です。「故」という「理由」を表す字がありながら、その後ろはちっとも理由付けになっていないように見えます。

 また「倭王旨」については「倭王」である「旨」のことと考えられ、「中国風一時名称」であると考えられます。上の推定によれば、「旨」は「済」「興」と続き「武」につながる位置にいたと考えられるものであり、そうであればこの段階で一字名称が使用されているのは大変自然です。そして、この「旨」という人物は「倭王武」の「母」(皇太后)ではなかったかと推察します。
 「武」は「父王」「兄王」が死去したため即位したものですが、彼等が死去した当時まだ「未成年」であったと考えられ、その間「済」の「皇后」であった人物が「皇太后」として「称制」していたのではないでしょうか。
 「武」の「成長」を待って、改めて「即位」したものと考えられ、それが「上表文」が出された「四七八年」ではなかったかと推察するものです。
 そう考えるのは、「興」が亡くなったのがこの「七枝刀」の銘文に書かれた「四六八年」であったと考えられますが、その「服喪期間」が「三年」あったと思われ、「四七一年」になって、「葬儀」となったと考えられます。 (この時点で「百済資料」に「辛亥年」に「倭国天皇太子皇子」がともに亡くなったと記されることとなったと考えられます)
 「百済王」と「世子」はこれを深く悼み、「倭国王家」の再興と絶えない支援を頼みとして、「邪」を払い「幸わう」ために、「七枝刀」を送ったと考えられます。
 しかし、「四七八年」まではさらに七年あり、この間も「服喪期間」であったとすると「長すぎる」と思われ、これは「武」の成人に達するまでの期間であったのではないかと思料します。そうであれば、この間「皇太后」が継続して「倭王旨」として「称制」即位していたと考えるものです。
 「倭王旨」が「皇太后」であったのではないかという考えは、この「七枝刀」記事が『書紀』では「神功皇后」の時代のこととされていることからも覗えます。実際に受領したのが同じ女性であるからこそ「神功皇后紀」に入れられていると推察されるものです。

 なお、「神功皇后紀」には「七枝刀」と同時に「七子鏡」が贈られたと書かれており、これについては「ボストン美術館」に所蔵されているものがそれではないかという説もあります。(岡倉天心が京都で購入したとする)
 その鏡は、周囲に丸い突起が七箇所あるもので「七子鏡」という名称と形状が合致しています。
 記録によればこの鏡及び環頭鉄刀などは、明治時代に「大仙陵古墳」(「仁徳天皇」陵)から同時に発掘されたものであり、また、出土状況などから考えて年代として「六世紀前半」が想定されています。
 これらの「鏡」や「七枝刀」などは贈られた「倭王旨」から次代の「倭王」(「武」か)へ伝来したと考えられ、その彼が亡くなった際に「古墳」に奉納される事となったものと考えれば「六世紀前半」というのは不自然な年代ではありません。(但し「七枝刀」については「埋納」されず「神宝」として「石上神宮」に入ったと思われます。それは「伝示後世」という「銘文」に拠ったものではないかと思われます。)
 つまり、「七子鏡」などの年代が「六世紀初め」となると、「七枝刀」自体についてもそれと大きく変わらない時期のものではないかと考えられることとなり、「埋納」されたか「神宝」として保管されたかの違いでしかないということも考えられることとなります。

 「武」はかなり長生きしたと考えられ、「その治世」は「五十年近く」に渡ったものと思料されます。「武」の上表文が出されたとされる「六七八年」を即位の年とした場合、「梁」の天監年間(五〇二年)にも「授号」されている記事があり、これだけでも三十年ぐらいとなるわけです。これらのことから考えて「武」が「六世紀前半」に葬られたとしても不思議ではないと考えられます。
 但し、その場合は「大仙陵古墳」が「武」の「近畿」における古墳であるということとなりますが、それはあり得なくはないと考えられます。
 「武」はその上表文によってみても非常に強い権力があったと考えられるものであり、「大仙陵古墳」の巨大さはそれを表すものかもしれません。
 もっとも、それは「武」の統治の中心地点が「近畿」であったことを示すわけではなく、この地方に「勢威」を示したことを「証拠」として残すために「巨大」な「古墳」を「作らせたもの」と考えられます。これはこの時期の前方後円墳全体に言えることですが、外部からの「圧力」によりこれらの古墳が作られたものと考えられます。
 
 また、「仁徳」と「七枝刀」の関係を示唆するものが、『古事記』にある以下の「歌謡」です。そこでは「仁徳」が「七枝刀」を「佩(は)いていた」らしいことが歌われています。

(『古事記』中巻の四十八番歌謡)
本牟多能 比能美古/意富佐邪岐 意富佐邪岐/波加勢流多知 母登都流藝/須惠布由 布由紀能須加良賀/志多紀能 佐夜佐夜

「ほむたのひのみこ/おおさざき おおさざき/はかせるたち もとつるぎ/すえふゆふゆきのすからが/したきのさやさや

 この歌は「七枝刀」を歌ったものとする見解があり(特にしたき(下木)さやさや(枝枝)という部分など)、それを「仁徳」の「皇子時代」に「佩いていた」ことを示すものとされます。「神功皇后紀」に「無理」に「七枝刀記事」を持って行ったため、それを受け継ぐ相手が「武」ではなく「仁徳」になってしまったということのようです。
 (ただし、現在は私見ではそうは考えません。それはこの歌の中に「黄金の象嵌」をうかがわせる表現が見られないからです。この太刀を歌にするならば枝分かれしていることもさることながら、「黄金」に光り輝くというこの「七支刀」の重要な部分について言及されないはずがなく、それに触れていないこの歌が「七支刀」を歌ったものとは思われないからです。)


(この項の作成日 2012/06/09、最終更新 2017/05/05)