有名な「倭の五王」の一人である「武」の上表文では「駆率」という言葉が使われています。
「…臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道遥百濟、裝治船舫。…」
「駆率」する、とは馬に乗って(軍を)率いることが本来の語義です。馬については「四世紀」に百済から持ち込まれたのが最初とされています。
それは「応神天皇の頃とされ、『書紀』にも以下のように記事があります。
「(応神)十五年秋八月壬戌朔丁卯条」「百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。…」
この「応神天皇」の頃というのは「倭の五王」の最初の王である「讃」の頃を指すものと思料され、「四世紀末」に「百済」と友好を結んだ時の前後に列島に導入されたもののようです。これは「百済王」からもたらされた「親善」のための贈呈品であったものでしょう。そしてこれ以降、「馬」は「王」の乗り物となったと考えられます。「武」もこれに乗って陣頭指揮していたものでしょう。つまり、「駆率」する、と言うのは「慣用表現」でも「誇張表現」でもなく、実態にあった用語と考えられます。
「馬」については、従来は少数ながら以前(弥生)から国内にもいたという考え方もありましたが、現在は遺跡から出た「骨」を「フッ素分析法」などの科学的方法などにより検証した結果、別の動物の骨らしいことが判明し、それ以外についても「後代」の混入と言う可能性が否定できないものばかりであり、「古墳時代」まで国内には存在していなかったというのが正しい考え方のようです。
その最古の遺跡(骨)は「宮崎」県の遺跡から出土しており、その後「肥後」からもかなりの数が出土するようになります。
また「馬具」についても最古のものはやはり「九州」であり(福岡県甘木市の池の上墳墓6号墳など)、遅くても「五世紀初頭」のものであると言われています。
このように、古代の「馬」と「馬具」分布中心は「九州」にあったことが判明しています。
そして重要なことは古墳時代(つまり「倭の五王」の時代)を通じて全国の古墳から出土する「馬具」はほぼ同じ形式であったことです。その理由として以前は「文化」が伝搬されたということを考えていたものです。つまり、「国」から「国」へ「地域」から「地域」へと「文化」(つまり、馬とその馬具や乗馬法など)が「人から人へ」間接的に伝わっていったものとして考えていましたが、そう考えるには困難がありました。それは「伝搬」に時間が掛かっていないように見えることです。
「統一政権」がまだ出来ていない、あるいはその過程にある、という段階では、「文化」あるいは「情報」の伝搬というものは現代の私たちの想像以上に時間が掛かるものですが、遺跡などから判断して、この「馬具」の形式というものは「一世代」ないし「二世代」のうちに各地に伝搬している事が推測され、このことから現在では「馬を操る集団」そのものが移動した、という考え方の方が主流を成しているようです。
この事と「倭の五王」による国内統一と云うものが重なっているのは間違いないところであり、「附庸国」に対する威嚇などの「軍事力」の中心には「騎馬集団」(「騎馬民族」ではない)がいたものと考えられます。
ギリシャ神話の「ケンタウロス」は「馬に乗った種族」を「半人半馬」という風に表現されたものと思われ、これは「騎馬」勢力を初めて見たような人たちの「驚異」を表す伝説であるとも言えるわけですが、このような「圧倒的」とも言える「武力」の差を背景として、「倭国王権」は列島各地に「武装植民」を果たし、その勢力を広げていったものと考えられます。
また、この諸国への「騎馬集団」の展開と配置ということに関連して、「轡(くつわ)」と「引き手」の長さなど、馬具の寸法の変遷の研究が注目されます。(※)
「古墳」などから確認される「轡」及び「引き手」の長さについて各地のものを相互に比較してみると、「当初」(五世紀初め)かなりばらついていた「馬具寸法」はその後「六世紀後半」になると(「筑紫」を除き)全国でほぼ一定の長さに規格化されたこととが確認されています。これは各地域でバラバラに作っていたものが生産地域が集約され、そこで一括して生産しそれを各地に分配するようになっていたらしいことを示すと考えられます。これは「筑紫」を除いてと云うことからもは当然「筑紫」ではない地域で生産されるようになったものであり、それは「難波」ではなかったかと考えられますが、それはこの時点付近で「難波」に前進拠点ができたらしいと推定されることと符合します。
また、それと同時に、使用する「尺」がこの時点で「規格化」され統一されたことを示すとも考えられるものです。
このことは「馬具全体」の傾向とも一致するものであり、上に述べた「騎馬集団」の全国展開というものが短期間に行なわれたことの裏返しであり、その間は「後方支援」が行き届かずその間の「馬具生産」や「補修」は現地で全て賄っていたと云うことを示すと思われます。これはひとつには、地方においても「鉄」を「鍛造」したり「精錬」するなどのことができるようになったからであり、それを示すように近畿など各地から「鉄」材や「剣」の出土が大量に増加することが確認されています。(これは「屯倉」の成立と関係していると思われます。)
その後「支配」が安定すると「後方支援」の体制が整ったものと思われ、「馬具」などについても「集約」して生産が行なわれるようになったものであり、その結果サイズ等がほぼ同一となっていったことを示すと思われます。
他方、その「六世紀後半」という時点で、「筑紫」地域と他の地域とで「寸法」の差が大きくなっているという事実はどのように考えるべきでしょうか。これはこの時点以降「筑紫」とそれ以外の地域というように国内がほぼある基準で「二分」されたと見て取れます。
これは明らかに「筑紫」とそれ以外の地域(これは集約された場所である「近畿」と思われる)とで別々に生産を始めた結果、違う寸法が採用されるようになったと言うことを示すと考えられますが、「引き手」の長短は「馬」の操縦の自在性と関係しており、「早足」や「左右」への速い動きなどを馬に指示する場合基本は引き手が短い方がより細かく制御できるとされます。(競馬の騎手などが典型的です)
「筑紫」など「西日本」でそれが長いのは、「戦闘行動」というより既に「馬」が「儀式用」あるいはせいぜい「示威行動」のためのものとなっていたことを示すものであり、またそれが「東国」では短いのは、実際に「戦闘」に馬が使用され、野山を駆け巡っていたことを示すと考えられます。それは「前方後円墳」の型式や材料などが九州から近畿へ伝搬したものであり、それに百年ほどかかっていると考えられる事にも現れています。
これらの違い(変化)は「倭国王」の「権威」を諸国に拡大する過程をそのまま写したものと考えられ、「西日本」がまず制圧され、戦闘行動が停止された後、東国への統治が実際化していったことを示すと考えると整合すると思えます。
当然、地域によっては「倭国王権」の方針に対して「抵抗」があったということも考えられ、それが「引き手」の長さに現れているということもできるかもしれません。それはまた「六世紀末」において「東国」(関東)で「前方後円墳」が突然大量に作られるようになることと関連していると考えることもできそうです。
西日本では小型化され「終末期古墳」に移行する過程であったにも関わらず、「関東」ではそれに「対抗」するかのように「前方後円墳」が(しかも大量に)作られるのです。このようなことについては、従来の「近畿王権一元論」では説明できない性格のものと思われます。
この「法量」の違いを「異なる政治圏」の徴証と考えると、この「六世紀後半」という時点では「近畿王権」は「九州をその支配下においてはいなかった」と言うことになってしまいかねません。(前方後円墳についても同様です)
他方、「九州王朝説」で言えば、この「六世紀後半」という時期は「筑紫」に「都城」を造ると共に、「難波」に「前方拠点」を造った時期に相当すると考えられ、「筑紫」という「倭国中央」と、「諸国」としての「他地域」という様に「政治的」にも「大別」されるようになった時期に相当すると考えられます。
そして、それは「皇帝」(天子)自称という政治的動きにつながっているものと考えられ、「倭国王」直轄領域と「諸国」という「区別」が明確となった時期でもあったと思われます。(後述しますが、この時点で「諸国」に「国評制」が施行されるようになったと見られます)
(この項の作成日 2011/10/31、最終更新 2018/01/27)