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「倭の五王」と「鉄」


 「倭の五王」達は列島の内外に覇権を及ぼすにあたって「中国南朝」の「王権」と結びつくという方策を選び、それにより自己の王権の権威を高めることに成功したものですが、このとき「半島」から「騎馬」による「武力」等について「輸入」したものと考えられ、(それまで国内には「馬」はいなかったもの)それにより国内に「倭国王権」の伝統と大義名分の他に、「武力」も各諸国に超越していることを知らしめる行動に出たものと考えられます。
 
 「倭王武」の上表文には、「国内外」の征服行動について以下のように書かれています。

「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。」

 つまり、ここでは「東」を「征し」、「西」を「服させ」、「海北」は「平ぐる」というように書かれています。その場合、「征する」と「服させる」とは意味がやや異なり、「征する」という場合は「服従しない」という前提があり、そのような者に対して「武力」を行使するという意味が含まれていますが、「服させる」という場合は、特に「武力」の行使を伴うとは限りません。つまり「征する」の場合よりも「平和的」であることが推測できます。それはもちろん「夷」よりも「毛人」の方が「馴化しにくい」という「語義上」から来る区別かも知れませんが、これは「実態」にあった表現でもあると思われ、そのため「後回し」になったとも考えられます。
 つまり先に「東国」(これは「中国」「四国」地方の一部を指すと思われる)を制圧し(これは武力)、その後「九州島内の諸国」を固めた後(これは「威圧」のみで実力行使をほぼ伴わない)「半島」に向かったという制圧行動の行程が推定されます。そのような「制圧」された領域の中に「三角縁神獣鏡」を統合の象徴としていた勢力があったと思われ、彼等はそれを「旧倭王権」とのつながりの中で保持し、自らの権威としていたと考えられますが、ここに来てその「倭王権」の方針が転換され、「拡張政策」つまり、「倭国王」としての「力」による統治と、それによる「倭国」領域の拡大がなされることとなった訳であり、そのような「力」を見せつける行動が行なわれた結果、それに「服従」することとなった「東国」には、その行動を維持・継続させるために必要な人材を配置することとなったものと見られ、「造」ないしは「別」という「倭国王権」との関係が強化されたような人物を配置するという政策がとられたものと考えられます。この段階以降「三角縁神獣鏡」はその権威が縮小あるいは無価値となったものであり、「騎馬」に代表される「兵力」という「直接的力」に取って代わられることとなったものと思われます。 
 このように「倭の五王」の征服行動には「馬」とともに「兵器」が大きな役目を果たしていると考えられ、中でも「鉄」の利用がキーポイントとなるものと思料されます。
 それを示すように「製鉄」遺跡が各地に見られるようになります。これは「筑紫」など「直轄領域」の他、新たに「倭王権」の「附庸国」として組み込まれた諸国にも「鉄製武器」を製造する工房が必要になったことを示唆しているものであり、拡大政策の中で「鉄製武器」の生産を「現場」で行うこととなった痕跡と考えられます。また、そのような中のものとして「早い時期(四世紀頃)」に「常陸」を含む広い地域で「製鉄」遺跡が確認されています。
 このことは「常陸」領域に早期に「倭国」直轄地域が出来たことをしめすものと推量されるものであり、それにまつわる神が「香取神宮」と「鹿島神宮」として残っていると思われます。
 そして、これらのことが「記紀」に「神話」として描かれることとなったものと考えられますが、その実年代は「倭の五王」の時代に重なっていると考えられるものです。

 この段階以降、それまでの「倭王権」の領域を大幅に超える領域までが「征服」「平定」されていくこととなったものであり、一気に「倭国王」としての「覇権」の及ぶ範囲は広がったものと考えられます。
 しかし「急激な膨張」というものが逆に「真空状態」を呼ぶように、この段階では「中央集権的」体制は取ることは出来ず、「統一的」政策を全国に及ぼす、ということは不可能であったものです。このため、各地は当時王権の所在地であった「肥後」に存在していた王権の「大義名分」は認めるものの、「実効支配」としては、各諸国の「王」(首長)の及ぶところとなったものと考えられ、「自主独立」した形とならざるを得なかったものと考えられます。
 この間「半島」で「高句麗」の勢力が伸張し、「百済」「倭」などの半島に足場を持っていた勢力は「南下」と「撤退」を余儀なくさせられ、これについて「倭国」本国はかなりのエネルギーを「半島」に注ぐこととなっていたことから、国内の征服・統治については「停滞」せざるを得なくなったものと思われます。
 この事を示すように「四世紀末」から「五世紀」の始めにかけての時代と考えられる「新羅」(「以前」の「弁辰」の地)と考えられる、朝鮮半島の「南東」地域や国内の「近畿」の遺跡などからも「鉄製武器」の原料となったと考えられる「鉄てい」がかなり多量に発見されています。このことは「鉄製武器」が必要な「現場」で、「鍛冶工房」により現地生産されていた証明と考えられ、「武器」の持つ「殺傷力」やその行使を前提とした「威嚇」が必要な地域がこの当時「半島」にあったことを示すと同時に同様の意義として「近畿」もそのような地域であることを示すものと考えられます。


(この項の作成日 2011/11/08、最終更新 2019/10/11)