『書紀』の「日本武尊」説話をよく見ると、同じ関東の中でも「常陸」はもちろん「上総」「武蔵」「甲斐」でも全く戦闘シーンが出てきません。つまりこれらの地域はすでに安定支配領域であったこととなります。そして「未服」地域として「蝦夷」「越」「信濃」が登場しそこへの征服路は「碓氷峠」を越えていくルートが選定されています。この状況は明らかに「日本武尊」の本拠として「関東」が想定され、「関東」からその周囲に対して武力或は恫喝により支配地域を拡大させようとしているかに思えます。このようなことはここでいう「日本武尊」という人物が「倭国王権」から発せられた将軍などではなく(もちろん「近畿」の「王権」から発せられたものでもなく)、「関東」の王権に属する人物であることが推察されるものです。
その「日本武尊」の出生時のエピソードとして次のような話が『書紀』に載っています。それによると皇后の出産時「景行天皇」が「臼」を背負って家の周りを回っていたところ一人目が生まれたのに続いて二人目が生まれ始めたので、(双子であった)歩き続けなければならなかったため怒りのあまり臼に向かって罵りの言葉を発した、ということからこの二人の皇子を「大碓の尊」及び「小碓の尊」と命名されたと伝えられています。(碓=臼)
このように出産の際に亭主が石や臼を背負って家の周りを回る、というような風習は「栃木」や「茨城」に今でも残っているものであり、「北関東」の風習と考えられます。つまりこれは「関東」の権力者であった人物である「関東の大王」の生誕説話、伝承を反映していると考えられ、言い換えると、この生誕説話の主な本拠地は「関東」である、ということであり、「日本武尊」とは何の関係もない、といえると思われます。
『書紀』編者かその材料提供者は、彼についての伝説的記憶を「日本武尊」の行動として記述することにより、「近畿」の権力者が「九州」や「関東」を征服したというイデオロギーを『書紀』に盛り込もうとしたと推測されるわけです。
このように「関東」一円にはこの地域を制圧していた「大王」が存在していたようであり、「倭の五王」の存在が希薄です。この地域が独立性の高いことを推定させるものですが、しかし「常陸」の領域は別格です。ここには「装飾古墳」が存在しています。ここで見られる「文様」は九州で見られるものと「酷似」しており、関係性が高いのは明白です。
この「類似」が「偶然」である、という「根拠」のない主張をする学者もいまだにいるようですが、もしそうなら、全国にかなりの数の「装飾古墳」が「満遍なく」あってしかるべきと考えられますが、「偏在」、つまり、大きく偏って存在しているわけであり、これは「筑紫」からの「伝搬」とか「系統発生」というようなとらえ方の他には有力な考え方はないものと思われ、それ以外の理解の仕方をする場合は「根拠」を示す必要があるのは当然と考えられます。単なる「偶然」で済ますわけにはいきません。
さらに、「遺跡」から出土する「琴」についても「五弦琴」しか出土せず、「四弦琴」が存在していません。明らかに「関東の王権」の領域には属していないことがわかります。また、『常陸国風土記』も『筑紫風土記』の体裁や語句使用法などと非常によく似ており、明らかに「倭国王権」の影響が強く「直轄地」と言ってもいい状況であったと考えられます。
その『常陸国風土記』というのは他の「郡風土記」と同様「元明天皇」の「風土記撰進の詔」により選定されたもののようですが、その中では「倭武天皇」という人物が登場し、「常陸」国内を巡行したとされています。
従来はこの人物については「日本武尊」のこと、ないしはその投影であると考えられているようですが、当然上に見た「関東」の王である可能性をまず考える必要があるでしょう。
『書紀』に見られる「日本武尊」は常陸からは陸路で蝦夷つまり福島以北の領域と思われる地域に遠征しているように書かれています。帰途も「常陸」からのものであり、「陸奥」と「常陸」の間の通行路について何も語りません。明らかにまだ安定した陸上路が開発されていなかったことを示しますが、他方「白川関」や「勿来関」が設置されたのは「五世紀初め」らしいことが「太政官符」から窺えます。
承和二年(八三五年)の太政官符に、「白河」と「菊田」(これは別名「勿来」)の両関がその時点で既に四〇〇余年が経過していることが書かれていて、これを信憑すると「五世紀」の前半の創建が推定できるわけです。
「応ニ長門国ノ関に准ジ、白河・菊田両■(せき)ヲ勘過スベキ事。右、陸奥国ノ解ヲ得ルニイワク。旧記ヲ検スルニ、■(せき)ヲオキテ以来、今ニ四百余歳。」(太政官符「類聚三代格」)
この記事と『書紀』の「日本武尊」の遠征説話は明らかに時代の位相が違うものです。「多賀城」でさえもその位置はほぼ海岸であり(今回の東日本大震災でも津波の被害を受けており、海の近くにあることによる弊害が出ています)、これは連絡ルートとして海上が想定できます。それに対し『古事記』における「倭建命」の行動はそれとやや異なります。
『古事記』では「吾妻はや」と詠嘆した場所は「足柄」の「坂」であり、これは「東海道」の存在が前提です。
「自其入幸 悉言向荒夫琉蝦夷等 亦平和山河荒~等而 還上幸時 到足柄之坂本 於食御粮處 其坂~化白鹿而來立 爾即以其咋遺之蒜片端 待打者 中其目乃打殺也 故登立其坂 三歎 詔云阿豆麻波夜【自阿下五字以音】 故號其國謂阿豆麻也」(古事記中巻)
『風土記』でも「足柄」の坂の向こう側を「吾妻」というとされています。つまり『風土記』と『古事記』は共通の地理的描写をしており、道路その他の交通インフラの整備段階として同時代的性質を感じます。それに対し『書紀』の時代的位相はそれ以前であることを示しており、古い時代の関東王朝の説話の流用が考えられるものです。そのことは古田氏が指摘したように『書紀』の「蝦夷」記事が実際には「関東王権」の説話の流用と考えられる以下の記事が存在している事からも明らかです。
『景行紀』には「日本武尊」が連れ帰った蝦夷達についての記事があります。
「(景行)五十一年…秋八月己酉朔壬子、立稚足彦尊、爲皇太子。是日、命武内宿禰、爲棟梁之臣。初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田?也。於是、所獻~宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。時倭健命曰「是蝦夷等、不可近於~宮。」則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐~山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、詔群卿曰「其置~山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・伊豫・安藝・阿波、凡五國佐伯部之祖也。」
この記事については「神宮」とは「鹿島・香取」を指すものであり、「伊勢」ではないこと、「神山」「御諸山」は「香久山」ではなく「関東」の別の山であり、「中国」とは「常陸」の「那賀郡」のことであるという古田氏の説(※)があり(文中の「是」以下を付会のための挿入句と見る)、それに従えば「関東王権」と「蝦夷」との関係を「近畿王権」との関係に置き換えたものと思われることとなります。(もっとも「琴」の「絃」の数などから考えて「近畿王権」が「関東王権」の末裔とすればそれを自家のものとして書くのはあながち間違いとも言えないとも思われますが)いずれにしてもこれらのエピソードは「関東王権」のものであり、その時代的位相として「四世紀」が最も妥当すると思われます。
また『古事記』における「倭建命」の東征は「倭の五王」(特に「武」)のものという可能性もあるでしょう。「倭の五王」の征服領域には「関東」も含まれるはずであり、「関東」全体はともかく「常陸」については「九州」と関連する文化もあり、当然「征服」された領域の中にあるものと考えられるからです。
「五世紀」当時「東山道」は「信濃」付近までしか整備がされていなかったと見られ、「東国」へは「東海道」と「海路」を利用していたと推定されます。「静岡」付近までは「陸路」を使用し、そこからは「海路」を利用して「房総半島」へ上陸するというのが当時の「東海道」ルートであったと思われます。このため、「千葉」「茨城」付近に「倭国中央」(筑紫)との関係を物語るものが存在している(いた)と考えられます。
『常陸国風土記』には、「倭王権の命」により、「物部氏」が筑波山の山麓を拠点に国造りをしたと書かれてもいます。また「普キ大神」が「降臨」したとも書かれていますが、「筑紫」には「普キ大神」を祭る神社もあり、そのような「神話」の世界のこともまた共通性があるものです。
(※)古田武彦「『日本書紀』の史料批判」(『古代の霧の中から』所収 徳間書店)
(この項の作成日 2010/12/25、最終更新 2017/02/06)