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「獲加多支鹵大王」と「雄略」


 この「銘文」の文章の中では「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」という表現がされており、この「斯鬼宮」は雄略天皇の「長谷朝倉の宮」のことと比定するのが通常のようですが、「宮の名前」が異なります。その様な比定が行われる理由というのが「長谷朝倉の宮」が「磯城郡」に属しているからと言うことらしいのですが、明らかに論理的ではありません。
 しかし、この古墳から至近の場所に「磯城の宮」という場所が存在しているという事実があります。近畿を想定するより至近の「磯城の宮」を彼の主人である「王」の宮と考える方が現実的です。(ただし「寺」という表現は「寺院」の意にとってみても「役所」の意にとってみてもしっくり来ません。「古田氏」によれば「王の名前」という可能性が指摘されていますが、しばらく検討を要するものと思われます。)

 また、ここで「大王」の名として「獲加多支鹵」と書かれていますが、これは「雄略」を指すものとは思われません。なぜなら、「幼武」(ワカタケないしワカタケル)という名は「雄略」の「諱」(いみな)であるからです。
 「雄略紀」に「雄略」が「葛城山」の「一言主大神」から「諱」を問われる場面が出てきます。

「(雄略)四年春二月。天皇射獵於葛城山。忽見長人。來望丹谷。面貌容儀相似天皇。天皇知是神、猶故問曰。何處公也。長人對曰。現人之神。先稱王諱。然後應■。天皇答曰。朕是幼武尊也。」

 つまり、葛城山で神(一言主神)と対面した際に「諱」を聞かれ、それに応えて「朕是幼武尊也」というわけですが、本来「諱」は他人に知られてならない性格の「名」であり、ここでは相手が「神」なので包み隠さず名告ったものですが、一般に知られる事は避けられ、また「臣下」が易々と口にすることなどできる性質のものではなかったと思われます。
 後にも触れますが「諱」は『書紀』でもあるいは『日本帝皇年代記』でも「雄略」「顯宗」「継体」という「時代」に初めてその使用例が出て来ます。それらの時代は「倭の五王」と重なると考えられるわけですが、その「倭の五王」の時代には「道教」が王権内で信仰されていたことが「武」の上表文から窺えます。そこには「帰崇天極」という表現が見られると共に「白刃」が前に交わってもひるまないとされますが、これは道教特に北辰信仰と関係があると見られます。(これも「杖刀人」の行う儀式と関係しているでしょう)
 そしてこの当時「南朝」で隆盛していた「道教」は「五斗米道」の流れをくむ「天師道」であり、そこでは「鬼神信仰」が行われていました。その「鬼神信仰」と「諱」とは深く結びついていたものと考えられます。つまり「名前」を「鬼神」に知られると「良くないこと」が起きるというのは新しい信仰であり、それまでなかったものと思われるわけです。この事は新しい「道教」の伝来と「諱」の登場はリンクしているものと考えるべき事を示します。そう考えると、「雄略」の時代と一般に思われている「五世紀末」はもちろん、「六十年遡上」した「五世紀初め」という時点においても「鬼神」と結びついた形の「諱」信仰はすでにあったことが推定されます。そうであるとするとここに刻された「獲加多支鹵」が「ワカタケル」を意味するとした場合、「雄略」の「諱」が書かれている事となります。しかし、そのような「タブー」を敢えて犯す理由が不明となるでしょう。
 これが「下賜」された刀剣であったとすると、そこに「大王」の諱が書かれていることは「あり得ない」といって差し支えないでしょう。まして「自家製造」のものであったとしたらなおさらそこに主君の「諱」が刻されているとは考えられないこととなります。このことは「獲加多支鹵」というのは「雄略」の「諱」を表すものではないと考えざるをえないこととなります。
 この刀剣に呪術的要素があって「神」に祈願する様な性格のものであれば「諱」が書かれることはありうるかも知れませんが、この刀剣はあくまでもその文章中にも書かれているように「奉事の根源を記す」という以上のものではなく、「呪術的要素」はそこには見られません。こう考えると「獲加多支鹵」というものは「諱」ではなくこのような刀剣類に書かれても問題とならないようないわば「字(あざな)」のようなものと思われ、ある「大王」の「通称」のようなものが書かれていると見るべきでしょう。そうであれば「雄略」に比定する必然性を失う事となります。

 また「佐治天下」という用語が歴史上「主君」が「幼帝」であるとか「女帝」であるというような場合に限定して使用されて来たことも重要と思われ、当然この場合も同様であったと見るべきこととなります。その場合「鉄剣」に書かれた「獲加多支鹵大王」という文字列の訓読が「ワカタケル」としてもし正しいとしても、それは「雄略」ではないと同時に、この人物が「幼い」という意を含んでいることを示唆することとなります。そして「佐治天下」すべき「幼帝」の存在は、その「先代」の王の死去から時間が経っていないという可能性が示唆されるものであり、さらに「幼帝」の名のまま「鉄剣」に刻まれているとすると、先代の王とこの「幼帝」とがほぼ相次いで死去したという事態が想定されます。このような状況は「雄略」を取り巻く情勢とは全く異なるものであり、この点からも「雄略」に否定する必然性がないこととなります。

 さらに同じ古墳内から「琴」が出土していますが、弦の数が「四弦」であると鑑定されています。このことは当時「近畿」を含む西日本全体として「五弦」が主流の領域であったことと少なからず矛盾するでしょう。
 前述したように「弦」の数の相違は「祭祀領域」の相違であり、明らかにこの被葬者は「西日本」の王権とは別個の「祭祀」「政治」領域に属していたと考えるしかないこととなります。
 ただし古墳の形は「相似形」のものが「近畿」などにあり、「近畿王権」同様「倭国王権」(倭の五王)の支配が及んでいることは間違いなく、その領域の一端に位置すると考える事はできると思われます。この「稲荷山古墳」の主も「辛亥」という「四七一年」を示すと思われる銘を持った鉄剣の存在からも「倭の五王」のうちの「武」あるいはその前代である「済」と「興」の影響下にあることが推定され、当時「親征」が行われていたとすると彼らの「皇子」の一人であったということも推定可能です。その場合は「軍事的圧力」の不足から、祭祀の方法などを強制的に変更できなかったことが「古墳」などに影響しているということも考えられるところです。(妥協の産物として関東王権の「祭祀」を認めたという可能性)
 北関東の「古墳時代」の遺跡からは「五弦琴」も出ており、「倭国王権」の影響が「やや」感じられますが、基本的には関東は祭祀に「鈴」を使用する「鈴釧」文明圏に覆われており、明らかに他の地域と比べて、「倭国王権」との支配−被支配の関係は緩いと考えられ、「倭の五王」の権威が強く及んではいないことが読み取れます。(それは後に「前方後円墳」の築造停止が行われた際に、西日本に二〜三十年程度遅れたこととも関係しているといえそうです。)

 もともと「関東」を中心的な密集地として「古墳」に遡るものとして「方形周溝墓」というものがありました。この分布は「関東」(特に「埼玉」)と「東海」が最密集地であり、それに次いで、「近畿」と「筑紫」でかなりの数が確認されています。
 この形式の墓制が全国各地にあり、その密集地が関東(特に「埼玉」)であることの意味は重大であり、弥生終末期から古墳時代にかけて「関東」の「王権」の影響する範囲がかなり広範囲に渡っていたことは事実と考えられます。このことと、この「関東」の地に「倭の五王」の影響が少ないことは強く関連している事柄と考えられるでしょう。
 (この「方形周溝墓」も「近畿」からの伝搬という相も変わらない発想とそれを前提とした編年が行われていますが、実際にはこれも筑紫発ではなかったかと考えられる点が確認できます。)
 この時代にはまだ「東山道」ができておらず、「東海道」も伊豆半島手前までしか伸びていなかったと思われます(それが「天女伝説」の場でもある「駿河国宇土浜」であったと思われます。)。そこからは「船」に乗ったと思われ、「房総半島」や「常陸」に上陸するルートがメインであったと考えられており、『書紀』や『風土記』の説話にもそれを示唆するものが多く書かれています。
 このように「関東」全体が別の政治領域であり続けた最大の理由は「遠隔地」であったということであり、「官道」の整備が進捗していなかっため「陸路」により「関東」の中枢に「大量」に軍(武装勢力)を派遣できなかったことが、「倭国王権」の統治が弱く、影響力を強く行使できなかった最大の原因と思われるわけです。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2018/03/24)