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屯倉の設置


『書紀』によれば「履中」「安康」「清寧」の代等、いわゆる「倭の五王」のころと考えられる「五世紀」の初めごろ以降近畿に「屯倉」の設置が相次ぎます。
 これらの「屯倉」は「堤」「池」「水田」などの整備事業を伴うものがほとんどであり、「屯倉」に収納するべき「稲」などの「産品」を安定的、継続的に収集する体制を整えたことを示すと思われますが、これらの「堤」「池」「水田」などが「道路」の設置と深く関係していることを考慮すると、この段階で「古代官道」が整備され始めたことを示唆するものでもあります。
 「古代官道」については後述しますが、「直線的」構造が特徴であり、その結果「山」を切り通したり、「谷」をせき止めたり、「池」や「沼」に「堤」を設けたりする付属的工事が行われることがあります。
 また「地割」の標準となる例も多く、「官道」の周囲に「水田」ができるなどの例が見られることがあります。これらのことを考慮すると、この時期の「屯倉」設置が「官道」と深く関係していると考えるのは当然と思われます。
 「官道」が整備され、「池」などが灌漑の機能を持ち、「水田」が規格化された地割で造られ(これは「屯田兵」によると考えられます)、収穫された「稲」などをはじめとした「貢納品」の貯蔵所として「屯倉」が設置されるという一連の流れは、「行政」機能がこの時点で大幅に強化された事を示すと思われ、「拡張政策」をとっていた「倭の五王」により、「倭国王権」による地方支配、地方収奪の道具として「屯倉」が存在したことを示すと考えられます。これは、強力な「服属関係」を表すと同時に、その地方の安定的支配のための一環であったと考えられます。

 前項で見たように「倭の五王」の時代と「鉄器」拡大の時期が重なっていることから考えると、その時期に「屯倉」が出来はじめると言うことは、その意義として「武器」(軍事力)により「服属」させ「附庸国」とした領域に対して、その後の「統治」のための体制の構築を行う必要から設置されたとも考えられるところです。「官道」設置の意義も同様であったと考えられます。このことから当初の「屯倉」には軍事的意義つまり「邸閣」としての意義があったものと思われます。
 「邸閣」は『倭人伝』にも出てきますが、「後漢」から「三国」時代には「軍事」に供する兵糧を収納する場所としての機能を持っていたものです。つまり軍事行動を行う際の糧食の供給のために後方支援体制の一環として設置されていたものであり、最前線から一歩下がった位置に設置されるのが通常でした。そう考えると、「屯倉」の設置されている場所はほぼ最前線と言うべき場所であり、その場所まで「官道」が延伸されていたと言うことは支配地域の拡大を(軍事によって行う)体制が構築されたことを示すものであり、軍事行動のためのインフラである「古代官道」と同時期に「屯倉」が設置され始めるというのは非常に自然であり、理解できることとなります。
 そのことは「屯倉」という文字面にも現れています。これは「屯田」という用語と無縁ではなく、「屯田」が「三国時代」の「魏」などでは「屯田兵」という特殊な「兵戸」による辺境防衛体制の一貫として設置されたものであり、そのことから用語上からも「屯田兵」という組織と「屯倉」が不即不離であり、この時「屯倉」と共に「屯田兵」が同時に設置された可能性が高いことを示します。
 「屯倉」の場合「戦闘集団」であるところの「屯田兵」が至近に所在していたわけであり、彼らが「屯田」から収穫したものは全てこの「屯倉」に集められ、戦闘が拡大した場合などはここから彼らに対し臨時食料が供出されたものと思われます。
 この「屯田兵」としての役割を担っていた人々が「部民」であったと推量され、彼らは一般人としてではなく別戸籍(ここでは半ば奴婢)で把握され、使役させられていたものと推量します。

 またその地域の軍事行動が一段落すると、それ以降「屯倉」はややその性格を変え、一般的な「蔵」としての機能が発揮されたものと見られ、「租賦」の集積及び上送の機能が全面に展開されることとなったものと思われます。これはその時点でその「屯倉」を中心とした地域の「責任者」を常駐させることが必要になることを意味します。そのためには当初は「別」や「造」を配置されたものと見られますが、後には「評制」が施行され、「評督」が「屯倉」の管理をするようになったらしいことが「皇太神宮儀式帳」から明らかとなっています。
 当初任命されていた「別」や「造」は「倭国王朝」から「信任」を得て「統治行為」を代行するわけであり、一種の「信託統治」とでも言うべき存在であったと思われます。そして、これら「地方支配」の道具である「屯倉」が「近畿」に設置されるということは、その時点で「近畿」が「倭国王」から見ると「地方」(諸国)であったという証明でもあります。
 このような「官道」整備は一般には「七世紀」の始めに行われたと推定されています。しかし、上の記事はそれより「一五〇年」以上離れた「倭の五王」の時代と考えられ、実在性が問われる記事ではありますが、後の官道に比べ「幅」などは狭かったものの同様の意図を持った「官道」は一部ではあっても形成されていたと考えるのはそれほど不自然ではないと思われます。その様なものがなければ「領土拡張」という事業そのものの正否が問われるものだからでもあります。しかもその領土拡張の主役は騎馬によるものと思われますから、その意味でも「高規格道路」が部分的にでも竣工していなければそれも叶わぬ事となると思われるわけです。しかもこれらの「屯倉」が「近畿」に限定されていることは、「官道」もまた後の「山陽道」の延伸として「近畿」周辺地域に展開されたものと考えられ、それは「近畿」に巨大な古墳が形成されることと表裏を成すものといえます。

それに対し別の一群の「屯倉」があります。「贖罪」か「代償」のために献上されたとされる「屯倉」です。
(以下の年次については修正が必要な可能性があります。詳細は後述)
 これらの「屯倉」記事は「磐井の乱」を除き全て「安閑紀」にありしかも「安閑紀」は実質三年間しか治世期間はないので、「屯倉記事」しかないようなものなのです。
 それらは以下のものです。

(一)継体二十二年(五二八年)糟屋屯倉 筑紫君磐井の乱の贖罪

 「磐井の乱」の際に「葛子」が献上した「糟屋屯倉」が皮切りです。

(二)安閑元年(五三四年)伊甚屯倉 春日皇后への罪の贖罪

 「安閑元年」(五三四年)「上総伊甚直稚子(国造)」が「真珠」を献上する期限に遅れ、罪を恐れて皇后の寝殿に逃げ隠れたため、さらに罪が重くなった結果「伊甚屯倉」を献上した、と書かれています。

(三)安閑元年 (五三四年)竹村屯倉 大河内直味張が贖罪で献上。併せて県主飯粒が土地四十町を献上。

 「河内県主飯粒」が土地を献上するようにという「勅命」に従わず、そのことを「追求」された際に「贖罪」として「田部」として「河内縣部曲」と共に「竹村(たかふ)屯倉」が献上されています。(これは正確には「大伴金村への献上ですが)

(四)安閑元年(五三四年)廬城部屯倉 娘の幡媛の贖罪

是月。廬城部連枳唹女幡媛。偸取物部大連尾輿瓔珞。獻春日皇后。事至發覺。枳■喩以女幡媛。獻采女丁。是春日部釆女也。并獻安藝國過戸廬城部世倉。以贖女罪。物部大連尾輿恐事由己。不得自安。乃獻十市部。伊勢國來狭狭。登伊。検狭狭。登伊二邑名也。贄土師部。筑紫國膽狭山部也。

 ここでは「廬城部連枳唹女幡媛」に関する「不祥事」があり、この事に対する「贖罪」として「廬城部連枳唹」から「采女」と「安藝國過戸廬城部世倉」を「献上」したとされています。

(五)「武蔵国造」の地位を「笠原」と同族である「小杵」が争った際の「調停」に対する「代償」

(安閑元年)閏十二月己卯朔壬午。

武藏國造笠原直使主與同族小杵相爭國造。(使主。皆名小杵。也。)經年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求授於上毛野君小熊、而謀殺使主。使主覺之走出。詣京言状朝庭。臨斷以使主爲國造。而誅小杵國造使主悚憙交懷。不能默已。謹爲國家奉置横渟。橘花。多氷。倉樔。四處屯倉
 
 これは「武蔵国造」の座を「笠原」と「小杵」が争った際に「小杵」に対して「上毛野君小熊」が付き、それに対し「笠原」が「倭国王家」に対し助力を求め、結果「笠原」側が勝利したもので、その事に対する代償として「笠原」から「横渟」「橘花」「多氷」「倉樔」の四カ所の「屯倉」が献上された記事です。
 
 このように「屯倉」が「献上」されたという記事が並ぶわけですが、これらは「範囲」も「東国」にまでその範囲が広がるものであり、明らかに当初の「屯倉」よりも後代のものであることは確かです。また「屯倉」の成立については上に見たように当初は「倭国王権」の「直轄」として設置された「はず」であるにも関わらず、そうではなくなっていることが注目されます。
 この段階ですでに「屯倉」が成立した「起源」についての記憶が失われ、またその「屯倉」について既に在地豪族(国造や県主)に属する形と変わっていることからも、設置された年次からかなり年月が経過していることを示唆します。
 つまり、これらの「献上記事」は、「王権」の権威を再び届かせるための行為の一環と考えられ「屯倉」を本来の「王権」直轄とするための施策の一部であったと考えられます。このようなことが行われた時期は後述しますが、「磐井の乱」以降「肥後」に「蟄居」せざるを得なくなった時期を経た「後」の「六世紀後半」の事ではないかと推察され、「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「革命」時点のものであることが推定されます。

 ただし、「武藏國造」を争った一件では「小杵」はここでは「惣領」に対してではなく、「京」に詣り「朝庭」に訴えています。このことから『常陸国風土記』に見る「我姫」を八国に分けたという政治的力量を見せた「高向臣(大夫)」はまだこの段階では任命・設置されておらず、「我姫」はまだ混沌としていたということを示すと思われ『常陸国風土記』にいう「古」の状態であったと思われます。というよりこのような各国造などの任命権をめぐって争いがある実態を「是正」するために「惣領」が設置・任命されたという流れが推定できるでしょう。


(この項の作成日 2011/01/06、最終更新 2015/02/10)