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「関東」王朝と倭の五王


 前述したように琴の弦の数の違いは祭祀領域の違いであり、政治領域の違いでもあるわけですが、その意味からは古代の「国内」は「九州」を中心とする西日本全体に広く使用されていた「五弦」琴に象徴される「領域」と、関東、特に北関東に濃密な「四弦」の琴の祭祀領域とに大きく二分されていたと考えられます。
 この古墳は埼玉県行田市にあるものですが、築造が五世紀後半と考えられる前方後円墳です。
 「一九六八年」の発掘で「金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)」が発見され、「一九七八年」になり銘文が「金象嵌」されていることが判明しました。
 以下にその銘文全文を示します。

(表)「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比跪其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」

(裏)「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」

 この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあるため、中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられています。(ただし未発掘です)
 この古墳と銘文についての「従来」の解釈は「『大彦』から代々続く家系であり、また「杖刀人」として「近畿天皇家」に仕えてきたものであって、彼は(彼らは)近畿王権に関係の深い大首長、またはその一族の有力者であった可能性が高い」というものです。

 しかし、これについては「古田氏」より以下の疑問が表明されています。
 つまり、彼は「副郭」に「倍葬」されていた人物であり、鉄剣銘文でいう「獲加多支鹵大王」なる人物が近畿天皇家の王であるとすると、主郭の人物が「不在」になってしまうことがあります。
 彼が「主人」である「王」のすぐ側に「埋葬」されている、ということは非常に希なことであり、「臣下」として「栄誉」の「極致」であったと考えられ、それにふさわしい事績が「主郭」の人物とのあいだにあったことを示すものですが、そのことは「鉄剣」に書かれた内容についても「主郭」の人物との関係において考えるべきものと考えられるというわけです。これは重要な指摘であり、これを前提に考察すべきものと思われます。

 この文章の中では「佐治天下」という「用語」が使用されていますが、この「歴史的」用語が使用されている、ということはそれなりの事実を背景としていると考えざるを得ません。これは中国の故事に発している用語です。「殷(商)」の「紂王」を滅ぼした「武王」により「周王朝」が始まった後、彼は亡くなり、その跡を第二代「成王」が継いだのですが、彼はまだ幼少だったため、「武王」の遺言で、武王の弟である「周公」が統治行為を代わって行なったのです。そのことを「佐治天下」と言う用語で表現しているのです。
 つまり、この用語を使用しているからには、王に替わって政務を執ると言うような「最高権力者」の「補佐」や「代行」などの事実があったものと考えなくてはならず、この点については、多くの古代史学者などは「大言壮語」などのレッテルを貼って済ましていますが、実証性に欠けるものであり、論証という点では全く不足です。
 この「佐治天下」という用語使用が「誇大」ではないと考えられるのは、歴代の祖先の中にあって彼(乎獲居臣)だけが「臣」という称号を称していることがあります。彼の前二代は「無称号」であり、「獲居」(ワケか)などの称号を持っているのは更にそれ以前の先祖です。「乎獲居臣」は「乎獲居」というように「ワケ」は既に名前の一部になっていて、「称号」ではなくなっており、「普通名詞」化しています。このような例は『書紀』や『古事記』でもあり、「武内宿禰」や「野見宿禰」のように「姓」(カバネ)が「名前」の一部になってしまっている例がありますが、これと同様であったと思われます。彼はこのように「姓」が「名称化」した時点で更に「臣」を称すると言うことになったものと考えられ、この事は「彼」(乎獲居臣)に至って何らかの優秀さを示したことにより「抜擢」されるような事があったものを推定させます。そうであれば「彼」が「佐治天下」にふさわしい活躍をしたと言う事を実際にあったということを示すものかもしれません。この推測が相当と考える根拠はこの「鉄剣」が埋葬されていた古墳の古さです。

 この「稲荷山古墳」は「埼玉古墳群」の中の「前方後円墳」の中で最古のものとされています。彼の先祖から「代々」事えてきていたにも関わらず、彼以前の古墳は「円墳」や「方墳」であって「前方後円墳」ではなかったのです。彼が「臣」となり「佐治天下」するに及んで「前方後円墳」の登場となるわけであり、このような「時代」の画期ともいうべき時期に「乎獲居」が「臣」となったとすると「鉄剣」の銘文の持つ意味が整合性を持って明確となります。
 「古墳」の形状が変化することは「祭祀」の様式が変化したことを示すものです。それには「外的要因」が考えられ、人為的なものとしては政治的・軍事的圧力が強く影響しているとみることができますが、他方「自然的要因」つまり「疫病」「自然災害」(火山噴火・地震・津波など)により、既存の「祭祀」の限界を当時の人々が見極めた結果、新しい祭祀の創出あるいは外来のものの導入という事態に至ったということも考えられ、どちらなのかはやや微妙ですが、いずれにしてもその「祭祀」に関わる立場のものの地位が大きく変化したことは疑えません。後でも触れますが「銘文」中の「杖刀人」に関してこれが「杖刀」つまり「祓え」により「病気治療」等の儀礼に「仕込み刀」を使用するという立場のものであるという可能性があり、彼らが歴代「王権」の内部でその地位を暫時高めていった流れの先に「臣」として「佐治天下」するという現実があったとみられます。特に「前方後円墳」はくびれ部に「造り出し」と呼ばれる部位があり、そこで「祭祀」が行われていたとする説が有力ですが、そのことは「前方後円墳」の登場が「祭祀」に関わる「杖刀人」の政治的地位を向上させる契機となったとみることができ、「臣」という「王権」内での有力的地位へと上り詰める実態があったとして不自然とはいえないこととなります。

 またこの「臣」は明らかに「音」表記、つまり「表意文字」となっています。つまり、表記として「訓」(万葉仮名)ではなく漢字(「音」)であると言う事はかなり重要ではないでしょうか。
 たとえば、先に出てきた「獲居」(ワケ)は「訓」表記つまり「表音文字」となっています。また「ワケ」自体中国には存在しないもの(制度)です。つまり「臣」は「中国流」であり、当時の先進的用語使用であると思われ、それは王権を支える勢力の間に「差異」ないしは「等級」を設けるための新制度が導入されていたという可能性を示唆するものです。
 またこれら「臣」や「杖刀人」については「音」で表記されているわけですが、可能性としては「読み」も「音」であったとも考えられます。つまり「臣」は「オミ」ではなく「シン」、「杖刀人」は「ジョウトウニン」と呼称したという可能性があると思われます。「万葉仮名」で表記されていない理由はそこにあるのではないでしょうか。そのことはこの時点付近以降「官職」に関しては「音読み」とすると云う決まりができていた可能性を示唆します。そうであれば『隋書俀国伝』で「官職」様のものとして「軍尼」という表記とも関連しているという可能性が考えられます。つまりこの「軍尼」については(これが漢音であると考えられること及び「昆布」(コンブ)のことを「軍布」とする表記が存在していることなどから)「コンジ」と発音するのではないかと考えられますが、これは一見しては「倭語」とは思えません。「ン」という発音は元々「倭語」にはなかったとされています。つまりこれは「漢語」の「音読み」ではないかと考えられ、想定可能なものとしては「根子」があると考えられます。
 「根子」は「天皇」の「和名」として何人かに出てきますが、通常は「ネコ」と発音し、「直系」を意味する用語(呼称)と考えられていますが、この『隋書俀国伝』時点付近では各「クニ」の長に当たる人物の「役職名」であったという可能性も考えられます。
 また別の考え方としては「軍郡」つまり「軍郡事」を略して「軍事」と称していたという可能性もあります。「倭の五王」の時代「南朝」から「軍郡事」を除されていたとすると倭国では「州」の軍事力のトップの位置にいるものについて「軍事」という呼称の職掌があったという可能性もあります。(「呉音」でも「コンジ」です)それを「北朝」たる「隋」では「南朝」との関係に気づかず「倭国」独自のもとして「軍尼」という「表音表記」としたのかもしれません。
 いずれにしても「音」で役職を表す慣習がこの頃作られたのではないかと思われます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2017/02/21)