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倭の五王と南朝遣使


 連綿として続いた中国「漢」王朝は、歴代にわたり北方異民族である「匈奴」の侵入に悩まされてきましたが、「晋」(西晋)の時代についに「匈奴」が都に侵入し、皇帝を捕らえ奴隷として使役するなどして「漢民族」最後の王朝である「西晋」王朝は崩壊するに至りました。(三一六年)
 この時王族の一部のもの(「司馬睿」)が江南地方(揚子江の南側地域)へ脱出し、その地に新たに建国したのが「晋」(東晋)であり、これが「南朝」の始まりとなります。
 それに対し中国北半部は、群雄が割拠し、互いに権力闘争を開始して、ここに世にいう「五胡十六国」と呼ばれる乱世が出現しました。その結果朝鮮半島や当時の日本から「大義名分」のある王朝としてみなされていたのは中国南半部を制圧していた「南朝」の歴代の王朝でした。
 周辺の諸国はその「南朝」の皇帝の配下の諸侯王の一人として「将軍」号を受けていたのです。
「倭の五王」とはその中国南朝の史書に登場する倭国王であり、彼らは「南朝」の皇帝に使者を派遣し、貢物を持参し、また上表文を提出したとされています。
 それらについて見ていきましょう。まず倭王「讃」が朝貢します。

「梁書五十四、諸夷、倭」「晉安帝時,有倭王賛。賛死,立弟彌。彌死,立子濟。濟死,立子興。興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東大將軍。(進武號征東大將軍「大」各本脱,據南史倭國傳補。)」

「普書十、安帝紀」義煕九年(四一三年)是歳,高句麗、倭國及西南夷銅頭大師並獻方物。」

「宋書」高祖永初二年(四二一年),詔曰:「倭讚萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授」

 つづいて「讃」の弟「珍」が即位したようです。

「宋書」「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」

「宋書」「文帝元嘉十五年(四三八年)夏四月…己巳,以 倭國王珍為安東將軍。…是歳,武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物。」

 この後「珍」とどういう関係にあるか不明ですが、その後「済」が即位します。

「宋書」「(元嘉)二十年(四四三年),倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍倭國王。」

「宋書」「(元嘉)二十八年(四五一年),加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死,世子興遣使貢獻。」

 続いて「世子」つまり世継ぎ、というのですから「親子」と思われますが「興」が即位したようです。

「宋書」「世祖大明六年(,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王。」

 その後「武」が即位しますが、それによると「奄(とも)に父兄を喪い」とありますので、父(済)と兄(興)をいっぺんに失った、といっているようですが、実際には「済」が亡くなった後に「興」は正式に即位しており、南朝から将軍号を授与されていますので、この二人の死去には時間差があるようです。

「宋書」「順帝昇明二年(四七八年)遣使上表曰、封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬環甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道遥百濟、裝治船舫。而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隷、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風、雖曰進路、或通或不、臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大擧、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣、居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆載摧、此彊敵克、靖方難無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸假授、以勸忠節。詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」

「南斉書、倭国伝」「建元元年(四七九)進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事、(都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事 據南史補。按補一慕韓,方符六國之數。)安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍。」

「梁書、武帝紀中、第二」「天監元年(五〇二年)夏四月戊辰,車騎將軍高句驪王高雲進號車騎大將軍。鎮東大將軍百濟王餘大進號征東大將軍。安西將軍宕昌王梁彌進號鎮西將軍。鎮東大將軍倭王武 進號征東大將軍。鎮東大將軍 倭王武進號征東大將軍。(「征東大將軍」各本及倭國傳並作「征東將軍」。今據南史倭國傳補。)鎮西將軍河南王吐谷渾休留代進號征西將軍。巴陵王薨于姑孰,追諡為齊和帝,終禮一依故事。」

 以上のように「南朝」皇帝に次々と朝貢していたわけですが、彼らのこの行動の原動力となったものは、周辺の国々を制圧したことから来る「自信」であり、また「高句麗」など半島諸国との競争激化という半島情勢が反映しているといえるでしょう。少なくとも「卑弥呼」が「魏」に朝貢したのとはやや違う意味があると思われます。
 「三世紀」の「邪馬壹国」の女王「卑弥呼」はいわば「狗奴国」との戦いに疲弊し、「切羽詰まって」朝貢し、「魏」に援軍を要請したわけですが、この「倭の五王」の場合は、あくまでも「自分たちの実績を認めてほしい」という欲求から、朝貢し将軍号をもらいたがったのです。ここには周辺の国々に対する「征服行動」の正当化を図ろうという意味もあるようです。それは「高句麗」の拡張政策と「倭国」の政策が激しくぶつかり合っていた時代の証しと考えられます。(これらの記事で「倭国王」という表記がされていることと、この時代の人物である南朝劉宋の「笵耀」によって書かれた『後漢書』に「倭国王」という表現が出てくることは関係していると思われ、それが記述対象の「後漢」時代の「日本列島」の実態を表していないとみたのは前述したとおりです。)

 ところで最後の「武」に至ってある変化が確認できます。それは自称としての称号の「軍事エリア」として管轄している部分に「百済」を入れたこと、「将軍号」以外に「開府儀同三司」をも自称していることです。
 さすがにこれについて「宋皇帝」は認めず、「百済」の軍事権も外して「版図」としては従来通りの範囲に止め、僅かに「将軍」から「大将軍」へと進号させただけでした。そしてこれ以降「遣使」記事が見られなくなります。
 「開府儀同三司」という用語のうち、「開府」とは「将軍」の本拠地としての「砦」的なものを言い、それを開いて「府」の元に階層的官僚制を敷いているということを意味します。
 それは本来「皇帝」の「勅」を得て行なうものであり、それを「竊かに」つまり「勅許」を得ず「勝手に」やっているからそれを事後承諾して欲しいというものです。これに対し「皇帝」はそれを認めなかったというものであり、それを「帰国」した使者から聞き及んだ「武」の反応は「不満」であったでしょうし、その後「南朝」に対する「遣使」を取り止めることとなる訳ですが、それはそのような「自称」した称号を認めてもらえなかったということが伏線としてあるのではないでしょうか。(対して「百済」や「高句麗」については大きく進号しており、「倭国」ではそれに対し「失望感」を持ったのではないでしょうか。)
 「南朝」から「自称」を認めてもらえなかったということは、「高句麗」や「百済」に対して「倭国」の影響力の行使が不完全ないしは不足となることにつながるものであり、「武」の上表文においても「南朝」からのサイドサポートを期待している(要求)意味のことが書かれているのに対して、それが実現され得ないこととなりますから、そうであれば「遣使」をする意味がないと考えたかも知れません。
 
 既に述べたように「武」から「磐井」への交替以降、「磐井」は国内政策を重点的に選択するようになり、「半島」への「深入り」は避けるようになったと思われます。
 そもそも「遣使」の理由として大きいのは「半島」における覇権の帰趨が不透明であり、「高句麗」「百済」「倭」の三国の力関係がどのように収束するのかが不明であったものですが、「武」以降「南朝」から明確な支持が受けられなくなった(と少なくとも倭国側は考えたもの)ため、「高句麗」の南下政策に歯止めをかけることができなくなり、「百済」も「倭国」から帰国した「斯麻王」の即位と共に「国力」が復活し、相対的に「倭」の存在の比重が減少したということも影響していると思われます。つまり「倭国」にとって見れば「南朝」の力をバックにできず、逆に「高句麗」は「南朝」と共に「北朝」にも遣使し、勢力の拡大に緩みがなかったことから、半島における覇権を得ることができないという見通しとなったものと見られ、そうであれば「遣使」の意味がないということとなるでしょう。そのため「東国」などに対する圧力を加える形で「国内」政策に主力を集中することとなったものと思われます。「遣使」の記録がみられなくなるのはそのように事情によるものではなかったでしょうか。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2016/08/30)