「三角縁神獣鏡」については、既に「卑弥呼」との関連で述べたように『魏志倭人伝』に言う「銅鏡百枚」とは異なるものであり、その後「近畿」を中心に展開・配布されたものであって、それは「四世紀」の後半以降に行われた「倭王権」の権威の拠り所とされたものと考えられ、「倭の五王」の最初の王である「讃」の直前の時期であったと考えられます。つまり「銅鏡百枚」と「三角縁神獣鏡」は「時代の位相」が異なっていると考えられるものす。
「三角縁神獣鏡」については既に多くの研究があり、その中で指摘されていることから考えて、「国産」であること、つまり「国内」で生産されたと考えられること(但し「材料」は国産ではない)、「三世紀」のものではない(四世紀のもの)と考えられる事、古墳の中での「重要度」が低い(遺体から離れて置かれている)こと、「近畿」がその分布の中心であること、「同笵鏡」と称するものが多数あること(これは本来あり得ないが)等々の指摘があります。
確かに「近畿」(「奈良」「京都」「滋賀」「兵庫」等)で非常に多数の「三角縁神獣鏡」が確認される訳ですが、これは「前方後円墳」の分布と非常によく似た関係があるものであり、そのことは「起源」においても「前方後円墳」と共通のものがあることが推定されることとなります。
後にも触れますが、「前方後円墳」はその起源が「九州」にあり、またその影響下に「近畿」に展開されたものと考えられる訳ですから、「三角縁神獣鏡」の発生から拡大に至る過程も同様であったと考えることができるでしょう。
これについては通説では「伝世論」(何世代か経ってから埋納したとする)などと言うものが有力であった時代もありますが、現在ではそれらはほぼ否定され、やはり「古墳」と同時代と判断すべきと見るのが主流となっています。(そもそもそのような理解は「埋納期間」の設定が恣意的にならざるを得ず、非科学的です)
「三角縁神獣鏡」については、その「大きさ」(直径)は「23cm」ほどとされ、これは「漢代」の「尺」にほぼ等しいものです。それに対し「北部九州」などに多い「前漢鏡」「後漢鏡」などでは「10cm」内外が多く、これは「殷周」及び「魏晋」で使用されていた「尺」である「19.7cm」が基準尺であった可能性が考えられ(五寸と推定される)、別の基準尺によっていた可能性が強いと思われます。このことは「前漢鏡」「後漢鏡」の伝来の理由、状況などにおいて「殷周」「魏晋」などの王権との関係が考えられるところであり、また逆に言うと「三角縁神獣鏡」は「殷周」や「魏晋」との関係が「薄い」とみなさざるを得ないこととなるでしょう。
「古墳」から「三角縁神獣鏡」が消滅するのは「五世紀代」の事ですが、その時点では「三角縁神獣鏡」と共に「銅鏃」「碧玉製腕飾類」がほぼ同時に消滅することが確認されています。そのことはそれらを主たる「モチーフ」としていた「王権」そのものが「廃絶」したか、あるいはそのような「王権」との関係が途絶したかを示していると考えられます。
既に考察したように「三角縁神獣鏡」の分布は「九州王朝」による「王権」再確立の過程の結果であると考えられ、この時点で「倭の五王」に象徴的な、「王権拡大」「統治領域拡大」が行われたものであり、その支配を受け入れた証明として「三角縁神獣鏡」と「前方後円墳」という権威の象徴と墓制を受け入れたものであって、(直接統治ではないという意味で)「緩やかな」統治支配の波が「近畿」を中心とする「諸国」に伝来したことを示すと思われます。
これ以降、国内諸地域は「倭王権」とのつながりを重視する政策へと転換せざるを得なくなり、それを示すのが「三角縁神獣鏡」の配布とその受容であったのではないでしょうか。
また、この鏡の当初生産地は「筑紫」であったと思われます。これは当時「倭王権」の外部領域であった「近畿」の王からの「リクエスト」で「筑紫」で製作されたものであり、それを「近畿」の王は「大量」にコピーし、自らの統治範囲に「倭国」との関係をアピールする意味で「配布」したものと推定されます。(この時点で「銅鐸」の生産と使用を中止したものと推定されます。ただし、「三角縁神獣鏡」の材料と「銅鐸」の原材料とは異なるとされ、「銅鐸」を鋳つぶしたという可能性は考えられていません。これらは王権の指示と圧迫により一斉に「埋納」されたものです。)
「鏡」が「棺」の外に置かれるなど「古墳内」で重視されていないように見えるのは、それが「倭王権」から「直接」下賜されたものではないからではないかと思料され、それがいわば単なる「コピー」であったことを各諸国では把握し承知していたものと考えられます。
その後時代の位相が変化し「倭王権」が「古代官道」の構築に着手し「騎馬」勢力の地方への進出など、「拡張政策」に基づいた直接的な「力の支配」を行うようになるとそれらは「放棄」させられることとなったと見られ、「鉄製武器」の大量投入という事態となったことから「銅鏃」などの存在意義が急速に薄れたことが推定されます。
(この項の作成日 2013/05/21、最終更新 2016/09/18)