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「壹與」から「讃」へ〜四世紀の出来事


「倭の五王」が登場するのはその最初に出てくる「讃」がほぼ「四世紀末」から「五世紀初め」にかけてであり、それ以前の「倭国」の状況が全く外国史書に登場せず「謎の四世紀」といわれます。

「梁書五十四、諸夷、倭」「晉安帝時,有倭王賛。賛死,立弟彌。彌死,立子濟。濟死,立子興。興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東大將軍。(進武號征東大將軍「大」各本脱,據南史倭國傳補。)」

「普書十、安帝紀」義煕九年(四一三年)是歳,高句麗、倭國及西南夷銅頭大師並獻方物。」

「宋書」高祖永初二年(四二一年),詔曰:「倭讚萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授」

 ここで見るように「五世紀」の初めには既に「倭王」として「讃」がいるとされています。彼から七〜八十年以前に「卑弥呼」の「宗女」という「壹與」がいたわけです。
 彼女は「卑弥呼」の跡を継いで「倭女王」として宗教的祭祀者としてその能力を発揮して「統治」していたと思われるわけですが、「卑弥呼」が即位した時点では国内に「疫病」が蔓延していた可能性が考えられるわけであり、その状態が(多少の軽減があったとしても)まだ残っていたという可能性があるでしょう。かなりのパンデミックであったと思われますから、そう簡単には収束しなかったのではないかと考えられるからです。「壹與」が即位した時点でも統治の実務は従前の通り「卑弥呼」の「男弟」が仕切っていたとみられますが、最終的に彼の判断により「遷都」が行われたと考えます。

 この時の「遷都」は「疫病」から逃れるためであり、その意味で「対外的窓口」として機能していた「筑紫」を離れる必要があったと思われ、「筑後川」を超えた「肥後」の領域へと移動することとなったものと見られます。私見ではこの領域は『魏志倭人伝』で「投馬国」とされていた領域ではないかと思われ、元々「呉国」の影響に対しての防衛線として機能していたと思われますが、「一時的に手を結んでいた「半島」の「公孫淵」が滅ぼされた以降脅威はかなり減少していたと思われますが、二七九年になり「魏」により「呉」が滅亡した後では特段海外からの脅威もなくなったわけであり、「副都」として充分機能すると見たかもしれません。そしてここへ遷都したことで「疫病」の脅威にさらされることもなくなり、また「狗奴国」などの脅威からも遠ざかることとなって、国内的には安定することとなったと思われます。しかしその「安定」は次には「強い男王」の登場を促すこととなったでしょう。
 「卑弥呼」の男弟が補佐していた政治は、その「男弟」が高齢になった時点以降不安定要因が高くなったものと見られます。既に検討したように「卑弥呼」の年齢と男弟の年齢の考察から「西晋」成立時点の二六五年付近で六〜七十歳程度ではなかったかと思われ、「壹與」との年齢差を考えても「壹與」が成人に達した頃には「男弟」もかなりの高齢となっていた可能性が考えられます。そのため「肥後」へ遷都した時点以降国内が安定すると「宗教的」な能力が特に求められることもなくなるわけであり、「壹與」の次代の王についての撰定には「男弟」は既に関わらなかったものと思われ、もう「共立」という手段が採用されたことはなかったものであり、その時点の「邪馬壹国」内外の勢力のパワーバランスで決まったものと思われ、国内の有力者が「男王」となったという可能性が高いと見られます。

 「西晋」成立時点ではまだ「壹與」が「倭女王」として存在していたものであり、「西晋」への貢献が史書『晋書』に残されていますが、その後三世紀の終わり頃になって「男王」が後継者となったと思われます。この時点でも彼らの権威の後ろ盾としてまだ「西晋」が機能していたと思われますが、その「西晋」は「三一七年」に「匈奴」の侵入により崩壊し、その時王族の一部のもの(「司馬睿」)が江南地方(揚子江の南側地域)へ脱出し、その地に新たに「晋」(東晋)を建国することとなったわけです。その時点以降「倭王」が「権威」として頼るべき「皇帝の国」ははるか「南」へ去っていったものであり、「半島」を通じて交渉を持つことはほぼ叶わぬこととなったものです。この時点以降「倭王権」はその「権威」をどこに求めるべきか相当の「迷い」があったものではなかったでしょうか。
 当時「中国北半部」は争乱の中にあり、よるべき「権威」として認められるような国はありませんでした。また彼らが話す言語も北方系部族としてのものであり、それまでの歴代中国王朝とはかなり異なっていたことから、「権威」としてよるべき存在とは考えられなかったものではなかったでしょうか。
 そのような中で国内においても少なからず混乱があったと思われ、それを「武力」で制圧したものが新しく「倭王権」を継承したものと推測されますが、彼らはそのような混乱を制圧する中で「拡大政策」へと転換していったものと思われるわけです。

 その「拡大政策」の中身としては「墓制」の強制(統一)であり、「王権」に対する服従の証しとしての「鏡」の配布であったものでしょう。この時点付近以降「前方後円墳」が広い地域に作られ始めると同時に「墓域」に「三角縁神獣鏡」が埋納されるようになります。
 後でも述べますが「鏡」は「倭王権」から配布されたものであり、またその「コピー」が多く作成され「王権」との関係を強調する「権威物」として機能するようになりました。この「鏡」を所有し事ある毎に広く掲示することで「倭王権」とのつながりを強調することが可能であり、そのことを自らの「権威付け」に利用していたものと思われるわけです。
 「西晋」の「権威」が利用できなくなるということは「実力」で制圧し統治する必要が出てくるわけであり、その際の「ツール」として「卑弥呼」「壹與」以来の宗教的な威力も利用するということではなかったかと思われ、「鏡」にも同様の意義が(多少なりとも)付与されていたと見られるわけです。それを示唆するのが「神獣」というモチーフであり「長命」「冨」などを願う願文が刻まれていることです。これら「現世利益」という考え方は「卑弥呼」など「仏教」以前の列島を支配していた「宗教」の考え方そのものであり、「宗教」という面で受け入れやすい内容であったことが「統治」に利用されたと見られるわけです。
 この時点ではまだ「馬」が導入されておらず、また「道路整備」も進んではいなかったと見られますから、遠方の地域には「鏡」を配布する以上のことはできなかったと見られ、「中国王朝」の権威から自前の王権である「倭王権」の権威へとその対象を移動することにこの「鏡」の配布が役立ったということではなかったでしょうか。しかしその中心領域では「武力」が前提となっていた可能性が強く、地方においてはそれが「鏡」という宗教的権威の裏打ちをしていたと思われる訳です。そしてそれが「四世紀」から「五世紀」をかけて「讃」が「南朝」に遣使する段階付近でやや変化したものと思われるわけです。


(この項の作成日 2019/03/09、最終更新 2019/03/09)