ホーム:「弥生時代」について:魏志倭人伝について:

「奴国」と「邪馬壹国」


 すでに「奴国」が「後漢代」における「倭」を代表する権力者であったと推定したわけですが、『後漢書』に書かれた「倭国王」とされる「帥升」は「漢委奴国王」の金印を授けられた「奴国王」を継承した人物と思われることとなったわけですが、彼により「奴国」による「倭」の地における支配領域はさらに拡大したものと思われます。そして、彼はこの「帥升」がその最後の「奴国王」ではなかったかと推察されます。

 「卑弥呼」の即位の事情を書いた『魏志倭人伝』の記述から「奴国」から「邪馬壹国」へ「後漢末」に中心王朝が交替したことが推察できます。つまり「帥升」あるいは彼の次代の「奴国王」付近で、「奴国」に代わって「邪馬壹国」が「倭」の覇権を握り、中心的権力の位置についたという流れが考えられます。
 その「邪馬壹国」は「伊都国」と「統」(血筋)がつながっていると記述されていますから、「邪馬壹国」(女王国)は「伊都国」から分岐した「朝廷」であり、「倭王」としての「大義名分」は本来「伊都国王」ないしは「奴国王」が保有していたことを推定させます。それが「邪馬壹国」へ移り変わったのは「帥升」という傑出した人材が亡くなって以降の倭国の政変の結果であったと考えられます。しかし「帥升」段階でそもそも何か「政変」の芽のようなものがあったという可能性もあります。なぜなら「後漢」の皇帝への「生口百六十人」の貢献した際には「帥升」自らが「朝見」したいと請うたと書かれています。

「建武中元二年(五十七年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年(一〇六年)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」『後漢書』

 この「安帝永初元年」記事では「使者」を派遣したというようにには書かれていません。明らかに「願請見」したのは「倭國王帥升等」であり、素直に解釈すれば「倭国王」たる「帥升」が自ら「後漢」の都「洛陽」へやってきて「皇帝」に会うことを「願請」したというわけです。そこにはそれが実現したとは書かれていませんが、会わない理由はないと思われますから、「皇帝」には面会できたとは思われるものの、そもそもその目的は何だったのかと考えれば、『魏志倭人伝』において「難升米」達が派遣された理由とも重なるものであり、危急の事態が「奴国」に起きていたことの証ではないかと思われます。もし「後漢王朝」の後ろ盾が得られなければ「奴国」の「倭」における中心権力の位置が失われる危険性があったということを示すものであり、それは危惧した通りになったということではないでしょうか。
 それは「奴国」の勢力範囲が広がったために「狗奴国」との争いが先鋭化するという事態が発生したものと考えられ、その中で「狗奴国」との「対応」について「域内諸国」から不満が出たのかもしれません。もっと強硬な態度が必要という勢力に対して「後漢」のバックアップつまり「実力」というより「権威」によって対応するという「奴国」(「帥升」達)の間で対立していたという可能性も考えられます。それは「一大率」が後に設置され「諸国」を検察するようになったという状況がその周辺の事情を物語っているとも思えます。

 この「一大率」が「伊都国」と「邪馬壹国」の連係の証であるとすると、「奴国」の生死を決定づけたのは「一大率」であったと思われるわけです。つまり、その「政変」の主役は「伊都国」「邪馬壹国」連合であったと思われるわけであり、彼らの位置関係を見ても「奴国」はこの両国に挟まれるような場所にあったはずですから、その意味でもこの両国と争いになる場合は「奴国」側に不利な状況が発生することとなるでしょう。
 当然詳細は不明ですが、「卑弥呼」の以前に「七〜八十年」男王期間があるということからも、「帥升」の末年付近で「奴国」が没落し、『倭人伝』に書かれたように「奴国」からは「王」がいなくなるという状況となったものと推察できます。つまり「卑弥呼」を「共立」するという段階ではすでに「邪馬壹国」は「王権」の大義名分を継承していたものと見ることができるでしょう。

 また、以下の『倭人伝』の記述からは、「中国」や「半島」とは国内の「三十国」が各々使者を取り交わしていたようにも受け取られ、そのような状況は「邪馬壹国」の地位もやや「不安定」であるという可能性もあるでしょう。

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。…」

 これは書かれたとおりの意味と考えられ、以前は「百餘国」であったものであり、「今」は「使譯」を通交させているのは「三十国」であるというわけです。この「今」というのは「陳寿」執筆時点を指すと考えられますから「西晋代」のことと思われ、「壹與」の時代には「倭」内の各国は、通過地点を「伊都国」と限定されながらも独自に「西晋」と関係を持っていたと推定されることとなります。ただし「卑弥呼」の時代とはやや異なるという可能性もあるでしょう。

 この「三十国」というのが「倭」つまり「女王」の統治範囲として書かれた国々を指すと考えられますが、そうであれば「百餘国」から大きく減少していることとなります。
 従来この「減少」の意味を「統合」の結果であるとする考え方もありましたが、これはそうではなく、単に「百餘国」から「三十国」がいってみれば「分離独立」したものと考えるべきではないでしょうか。そのように「分離独立」した(あるいはせざるを得なかった)理由というのが「内乱」であり、その結果「狗奴国」などが「女王」の統治範囲の外において他の国々の「盟主」となっていたという可能性も考えられます。(ただし、「狗奴国」が残りの「七十国」全部を代表していたとは思われません。これら「七十国」についてもある程度の地域ごとに分裂していたと考えるべきであり、「近畿」「東海」「関東」など各地域ブロックを統治領域としていた「国」と「王」がそれぞれにいたものと推定されます。)
 しかし、この「卑弥呼」の時代に「邪馬壹国」が「北部九州」を制圧した結果、半島への出入口を閉ざされた他の地域の勢力は明らかに「先進的」な「情報」や、「鉄」「銅」などの「資源」の入手が困難となったものと思われ、ここにおいて「邪馬壹国」率いる「倭」の優位性が確立したと考えられます。もちろんそれには「魏」の皇帝との関係を巧みにアピールした「卑弥呼」(実際には「男弟」の功績か)とそれを継承した「壱与」の戦略があったものと推量します。


(この項の作成日 2015/07/19、最終更新 2015/07/19)