ところで「纏向遺跡」など「近畿」周辺の土器の出土状況を見てみるとその多様さに驚くほどです。それほど、各地の土器が多様に出土しているのが目につきます。
従来、ともすればこのことを以て「近畿に各地の文化が流れ込んで来ていたこと」の証左と考え、「倭の中心地に流れ込む周辺諸国の文化」という図式で見ていたのですが、それは重大な錯誤と考えられます。
前述したように「弥生時代」は「九州」に始まり、それから長い期間この地にだけ「弥生文化」が花開いていたと考えられています。そのことを示すようにこの地域では長い間「曽畑式土器」と呼ばれるこの地域特有の土器しか出土せず、他の地域の土器は全く見られなかったものです。
そもそも「文化の移動・伝搬」というものが、文化の「中心地から周辺に向かって」流れるものであるのが原則であることを考えるとき、この土器の変遷は「九州筑紫平野」が、文化の中心であったことを示しているものであり、その逆ではないことを示すものと思われます。
逆に、「近畿」でも「九州式土器」の出土があるのですから、少なからず「九州」の文化が「近畿」に及んでいたと言うことも想定できるものでしょう。
このように「筑紫」を中心として非常に広い範囲に見られた「曽畑式土器」の勢力範囲は時代とともにだんだん狭まり、それとともに次第に「近畿」のタイプの土器の勢力範囲が広くなっていく事が見て取れます。そしてついに決して他の地域の土器が見られることのなかった「筑紫平野」内に「近畿式」の土器が見られるようになります。これについては従来ちょうど「卑弥呼」の時代のこととされていたものですが、そのような年代観を形成する元となった「土器編年」は、その後「年輪年代測定」と著しく齟齬することが指摘され、修正を余儀なくさせられています。
新しい年代観では「弥生終末期」は「弥生後期」へと繰り上がることとなり、この「卑弥呼」の時代とされていたものも、繰り上がって「紀元〇年から後一〇〇年付近」のこととなるとされるようになりました。この時期は既に述べたように「巨大地震」とそれに伴う「巨大津波」という天変地異が特に近畿中心に襲ったものと見られ、「社会不安」から「兵乱」が起きたとみられます。つまり「卑弥呼」以前の「倭国乱」という一種内乱現象は「津波」と関係があるとみられ、「近畿勢力」の内部バランスが大きく崩れたことにより、一部勢力の軍事的行動が突出したという可能性が考えられます。(ただし兵乱と「高地性集落」の全てが直接結びつくわけではないことは既に述べました)
「紀伊半島」においても「高地性集落」の形成と共に「河内」で主にみられていた銅鐸が紀伊半島にもみられるようになるという現象が起こっており、これは「津波」や「地震」の影響が相対的に少なかった地域の勢力による支配地域の拡大という事象につながったことを示すと思われます。同様の現象が「北部九州」に波及したものではなかったでしょうか。
この結果「卑弥呼」の時代になると「初期九州王朝」の勢力範囲が相当に狭まり(それも「津波」の影響もあったと思われますが)、逆に「軍事的」に突出した「近畿」の勢力が次第に伸長し、主たる勢力範囲が「西側」へと拡大した結果「土地」を追われた人々がいわば「難民」となって最終的に「筑紫平野」にたどり着いたというような状況があったものと思われます。
結果的に「初期九州王朝」の「聖地」とも言うべきところにも「近畿」の文化が流入し、それが受け入れられていく事となっていったものとみられます。
またこのことは「初期九州王朝」の勢力の減少とその中心が「筑紫」から「他の地域」(肥後)へ移動したことを示すものとも言えます。
「肥後」は「津波」の影響が極小ではなかったかと思われ、「高地性集落」の存在がほとんど確認できていません。この時点以降「倭」の中心は「肥後」へと移動したものと考えられ(それは考古学的な状況とも一致します)、一種の「遷都」が行われたとみられます。
ところで、魏志倭人伝のなかに、「伊都国」には代々王がいるが皆女王国に「統属」している、という文章があります。「統属」とはただ単に従属している、というだけではなく「血筋」がつながっている場合をさす用語です。
「邪馬壹国」がどこにあるかは諸説があっても「伊都国」については、福岡平野の一端、という点で異論がないようですが(それについては若干異論があるのは既に述べたとおりです。)、女王国が「代々」「伊都国」と関係が深かったという文章は、その時代だけではなく「その前の時代」までにも「邪馬壹国」と「伊都国」の関係が深かったということを意味しているわけです。
「伊都国」は『倭人伝』に「戸数」が「千余戸」とされ、さほど多くないながら「三等官制」になっているように書かれており、これは「世々王有り」という「倭」の内部情勢ならびに歴史過程と関係があると思われます。(「一大率」との関連も考えられるでしょう)
この「世々」という表現は、「代々続いた」と言う意味ですから、これは他の「諸国」と違って「王」の「伝統」が古いと言う事を意味すると考えられ、それらの「王」が「皆」(つまり過去も)「邪馬壹国」と「統属」関係にある、と言う事を示すわけですが、それは「邪馬壹国」という国の王も「伊都国」の王と同様に「歴史」と「伝統」があることを意味するものと推量されることとなります。
「伊都国」についてはその一端が博多湾岸に面しているという可能性を指摘したわけですが、主要な部分については現在の「糸島半島」の付け根付近にあったという可能性もまた高いものと考えられ、この地に遺跡がある「三雲」「平原」などは「伊都国」の代々の「王墓」ではないかと考えられ、「三雲」遺跡などからは「璧」(ただしガラス製)が出ていますが、「玉」や「璧」は「王権」のシンボルであり、また「祭祀」に使用される「聖器」とも言えるものであったわけですから、そのようなものが出る、と言う事の中に「世々王有り」という中身が示されているといえるでしょう。
しかし、先に述べた土器の出土状況などは、この時代になってようやく「近畿」と「九州」の間にある種の関係が成立したかのごとくに思われる事を示しているわけです。つまり、「近畿式」の土器の影響を受けたと推測される土器がこの時代になって始めて「筑紫平野(北部九州)」に出現するようになるわけですから、「近畿」の政治勢力はやっとこの時点で「筑紫平野」の政治勢力と接触(平和的、非平和的を問わず)したかのように考えられ、「世々」女王国に「統属」していたという「筑紫平野」の権力者と「邪馬壹国」の関係とは矛盾していると思われることとなります。
このことは「近畿」に「邪馬壹国」の存在を仮定することが困難であることを示しています。
「後漢」の「光武帝」が「倭王」に与えたという 「漢委奴国王」の印 が「筑紫」の「志賀島」から出てきた事も、同様の意味で「近畿」の政治勢力と「筑紫平野」の政治勢力との関係に疎遠なものを感じさせるものです。
また、「伊都国」に派遣、常駐していると書かれている「一大率」については以下のように書かれています。
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
この文章中には「女王国より以北」という文言があり、それは「伊都国」が「首都」に近接した「北方」に位置する国であり、そこに「一大率」が防衛拠点を構えており、それは主として海から侵入してくる外敵に対応していたものであり、「倭」内部の「諸国」はこれを恐れていたとされているところから見てかなり強力な軍事力を有していたことが推定できるでしょう。
またこの「検察」という用語からは「犯罪捜査」など現在の警察や検察的な職掌も持ち合わせていたことが推測され、その意味でも諸国からは恐れられていたことが窺えます。それは『倭人伝』の中で「訴訟や犯罪が少ない」(「不盜竊、少諍訟。」)と書かれていることにもつながるでしょう。
当時は「兵警(兵刑)一致」という体制であったと思われ、軍事がすなわち警察をも兼ねていたものです。強力な軍事力はすなわち強力な警察力の存在となるわけであり、そうであれば「綱紀」は粛正されることとなって犯罪の発生率の低下につながることは容易に想像できます。
また「諸國畏憚之」という書き方からは「一大率」の「軍事」的活動の実績もまたそう思わせる根拠になっているものと考えられ、「倭国乱」の際に鎮圧に威力を振るった実績などをさすものと考えられます。またそれはこの「一大率」が周辺国と比べて非常に強力な戦闘能力があったことを示しており、その主戦武器として「鉄器」が多く使用されていたことを示唆するものでもあります。このことは、「鉄」という先進的な金属が「倭」中央(というより「一大率」)により独占されていたことを示すものであり、圧倒的な「武器」の性能の差により諸国を武力で威圧あるいは制圧していたものと考えられます。
この「一大率」は「常治伊都國」とあるように「伊都国」に常駐していたようであり、また「伊都国中」においては「刺史」のようであったとされますから、「伊都国」の実質的な統治権は「伊都国王」にはなかったことが窺えます。『倭人伝』の中では「世々王あり」とされるのはこの「伊都国」だけのようですから、そのこととそこに「一大率」率いる強力な軍隊が存在していることには深い関係があると考えるべきでしょう。
それは逆にいうとそれ以前には「伊都国」の権力がかなり強かった時代があり、その「伊都国王」の権威を低下させる「事件」があり、その結果「実質的統治権」を譲り渡すようなこととなったという経緯が推定できます。
そのように「伊都国」が他の国に先んじて強い王権を確立できたわけですが、それは地理的条件がよかったことが大きな意味を持っています。「伊都国」は「海」に面しており、強力な水軍が利用できたと思われますが、既に考察したように「唐津湾」だけではなく「博多湾」に面していた地域にまで勢力があったものと推定され、このことは海外からの先進文化を受け入れる地理的好条件があったことを示すと同時に、外部から侵入を企てる勢力に対して強力な防衛施設をもって対抗することができたという点も重要な意味を持っていたでしょう。そのような「伊都国」の持っていた特質や利点はその後「実質的統治者」となった「一大率」に引き継がれることとなったものと思われます。
しかし最も重要なことは「伊都国」が「海人」の国であり、彼らが最初にこの地に「領域」を確保したのが「伊都国」という場所であり、この周辺の水域(海域)に対する統制力を持っていたことではないでしょうか。
彼らは「陸上」と言うより「海岸」にその拠点を持っていたものであり、その意味で「奴国」「邪馬壹国」とはその権力の性質が異なっていたと考えられます。
彼らのうちさらに奥域に移動したグループが後の「邪馬壹国」につながるものであり、このことが『倭人伝』に「統属」していると表現される所以であろうと思われます。
ところで、すでにみたように「後漢」に「生口」を献上した「倭国王」(『後漢書』ではこう表現されている)「帥升」は「奴国王」であったと思われますが、彼以降「邪馬壹国」に権力が継承あるいは委譲される事案が発生したものではないかと考えられ、「倭」に闘争が発生したのは「邪馬壹国」に強い権力が発生した時点以降であったと思われることとなるでしょう。つまり「倭国乱」の主役は「邪馬壹国」ではなかったかと考えられる訳です。
「卑弥呼」が王になる経過を推測すると、最初にこの「伊都国」の権威が絶対であった時期があったものと思われます。その時期は「大地震」と「大津波」以前であり、紀元前であったと思われます。しかし、「史上かつてない」天変地異が日本列島を襲ったものであり、それに対応して「奴国」の勢力が強くなった時期に「倭」の代表権力の座が入れ替わったものと推量します。
その後「奴国」が列島の支配者となったと思われますが、「帥升」以降「指導力」のある人間が「奴国」からいなくなると、「奴国」の元での「国郡県制」は破綻し(カリスマがいなくなると中央集権は破綻しやすい性格があります)、各国の王が「倭王」を自称して相争う状況となってしまったのではないでしょうか。
特に「邪馬壹国」が重要な役割を果たした可能性が強いでしょう。「邪馬壹国」が「奴国」に反旗を翻せば、「倭」の各国は大混乱となるでしょうし、そして、そのとおりの事が起きたのではないかと推量されます。
その結果「奴国」はその実質的統治権を失い、また「邪馬壹国」から派遣された「一大率」が「伊都国」を直轄することで「旧権力」の抑制が実現したものと思われます。
つまり「伊都国王」という存在が重要であるがためにそのお目付役という意味もあって「一大率」が「刺史」の如くに「伊都国」の政治を取り仕切ると云うこととなり、「伊都国王」の実権はほぼ無視ないしは剥奪されていったものと思われます。
そのようなことが起きた最大の理由は、既に「軍事力」としては「陸上」勢力の重要性が大きく増していたという現実があったものと思われ、そのことから「水軍」主体であったと思われる「伊都国」の軍事的優位は大きく減少するに至ったと言うことが推察されます。
そしてその後も「伊都国」は(「危険な存在」という意味においても)、その権威をある程度保ち続けていたものと思われます。
既に述べたように「伊都国」は「中国」と「漢代」以前から関係を独自に結んでいた可能性が強く、国内諸国に対する「権威」も相当高かったものと思われ、それを盾に王権を維持していたと思われますが、日本列島を襲った大地震と大津波によって国内に不安が大きく広がった時点以降、新興の「奴国」などが勢力を増し、「後漢」の光武帝から「奴国」の王が「倭奴国王」の印綬を拝するに及んで「伊都国」の権威は大きく低下し、諸国の一つとなったのではないでしょうか。つまりこの時点以降「倭」の代表権力の座は「奴国」にあったと見られるわけです。
それ以降「帥升」が「奴国王」として「倭」を統一したものと思われますが、彼はその統治範囲の中に「漢」を真似た「国郡県制」を指向しようとしたものと思われます。しかし、それが未完成のまま彼は亡くなったものであり、その後「倭」の領域内に「疫病」が発生するなど混乱が生じ、その対応をめぐって「邪馬壹国」を代表とする勢力が反旗を翻し、「内乱」が発生することとなったものでしょう。そしてこの混乱状態を収拾するために各国の指導者(「王」)が協議して、「奴国王」の最高権力の座を否定すると共に、「伊都国王」についてもその復活を抑止し、「邪馬壹国」を主体として各国が協力せざるを得ない状況を作り出すこととなった結果「鬼神祭祀」の「巫女」であった「卑弥呼」を「女王」として即位させたとみられるわけです。
もちろんそれ以前の「王」もいずれも「祭祀」の主宰者という立場も兼ね備えていたものとは思われますが、「卑弥呼」はその「霊的能力」が他に比して格段に優れていたものと思われ、庶民の圧倒的な支持をそれ以前から得ていたものと思われます。
当時発生していた「疫病」に対して有効な手立てを打てていなかったそれまでの「倭王」に代わり安定した「統治」を広範囲に行うため「卑弥呼」の能力を利用しようということとなったものと思われ、彼女が「国家祭祀」の主宰者としての「王」という座に座ることとなったものと見られます。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2017/03/26)