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倭国の「租賦」について


 すでにみたように『倭人伝』によれば「租賦」を収納する「邸閣」があるとされます。この「邸閣」は「蔵」(「倉」)の一種であり、基本的には人民から徴収した「稲や雑穀」など穀類の収納と支出が目的と考えられます。ただし、ここでは軍事にかかわると思われる「邸閣」しか触れられていないわけですが、国内には通常の「租賦」を収める「倉」が多数あったと見るべきでしょう。「邸閣」は「倉」のバリエーションであるわけですから、その方が一般的であったはずです。そしてその「倉」には「租賦」が収められていたというわけですが、その「租賦」という制度について若干考察してみます。

 「租賦」は「前漢」以来「王権」が「人民(農民)」を土地に縛り付け、そこからの収穫物を搾取するための方策でした。それを「倭」では取り入れていたものと思われます。その時点は「奴国」が「金印」をもらった段階かその後「帥升」が「奴国王」を継承し、「後漢」の皇帝に拝謁したいと申し出たその時点以降のことではなかったかと推定されます。
 この「租賦」のうち「租」については「田租」と思われるものの、その「田」は「班田」ではなく「私耕田」であったと思われます。
 当時「後漢」では「班田制」が行われており、律令で決められた区画された土地を国家が貸し与え(部分的には永業田として所有を認めていたものもあるようですが)そこからの収穫物の一部を国家に「税」として納めるようにするというシステムを制定し施行していました。しかしこのようなシステムは当時の「倭」ではまだ取り入れられていなかったと見られます。「班田」を支給するためにはそれなりの条件が必要になり、それがこの「卑弥呼」の時点ではまだ形成されていなかったと考えられるからです。その条件のひとつは「田地」を耕作する為の「安全保障」が確保されていなければならないことであり、またその条件のもとに「測地」が行われ、「田地」のデータベースができていることです。
 
 「卑弥呼」の時代及びその前代は「男王」が即位して以降の混乱の中にあったものであり、さらに「狗奴国」との争いなど「倭」の内部では戦乱に明け暮れる状況であったと思われますから、そのような「安全」は全く確保できていなかったという可能性が高いものと思われます。さらにそのような中で測地をして土地を区画するというようなこともまた非常に困難であったと思われ、「班田制」はほぼ施行されず、「倭国内」の「田地」はそのほとんど全部が「班田」というより「私耕田」であったという可能性が高いと思われることとなるでしょう。(その後ずっと時代が下って「班田制」が施行されていた時代においても、「大隅」地域には「私耕田」から「租」を徴収していた記録があり、このようなことは支配力の弱い地域に対する方策として「邪馬壹国」のころからおそらく普遍的に行われていたものと思われます。)

 また、その「田祖」についてはその負担割合がどれぐらいのものであるかは不明ではあるものの「漢」の制度では「収穫物」の「三十分の一」を納入することとされていました。これはそのまま「倭」でも受け入れられたと考えて良いと思われます。ただし後でも述べるように本来「人頭税」としての制度であった「租」についても「戸」に対するものというある程度「雑駁」なものになっていた可能性があります。
 また「賦」については「漢」では「銭貨」を支払う「口銭」と「力役」を行う「更徭」とで構成されていましたが、「邪馬壹国」の統治範囲では「貨幣」が浸透していなかったとみられるので、実態としては「更徭」と「布帛」(絹帛)を納めることが行われていたものと考えられます。
 『倭人伝』の中には「有無を交易する」という言い方で必要物の確保が行われているとされ、これはこの段階においてはまだ物々交換が主流であったことを示すものです。つまりこの段階では「銭貨」は導入されていなかったと思われるわけです。それはこの時代の「銭貨」の出土がほぼゼロに等しいことからもいえるでしょう。
 実際には「五銖銭」や「明刀銭」などが出土することは事実ですが、「流通」という言葉に当てはまるほどの枚数ではありません。この時代の「銭貨」は「威信材」つまりそれを所有していること自体が権威の象徴であるような存在であり、いわば「貴金属」的扱いであったと思われます。
 ただし「銭貨」的なものがなかったというわけではありません。それは「稲」であり「稲束」です。「租」として適用される物品の原則的作物は「稲」であり、その「ひと掴み」を最小単位とする「稲束」であったと思われます。これは「弥生時代」の遺跡から出土が確認されるものであり、これを単位として「租」が構成されていたと思われるわけですが、当然「貸稲」においても「元本」も「利息」も「稲束」がその単位とされたと思われるものです。

 「漢代」の中国では「賦」の一部については「銭貨」によるとされていましたが、その後「後漢」から「西晋」に王権が移動して以降は「布帛」へと代替手段が決められたものですが、「倭」でもこれを取り入れていたということが考えられます。それは「卑弥呼」からの貢献物の中に「倭絹」があるところからも察されます。
 「卑弥呼」や「壱与」から「魏」あるいは「西晋」の皇帝への貢献物の中に「倭絹」がありこれは「賦」として各国の蔵から「布帛」の形で徴集されていたものと思われます。
 また「青大勾珠」というものや(これは「貝」の加工品ではないかと思われます)、「眞珠」、その他「翡翠」と思われる「青玉」など「玉類」の記述があり、これらが「特産物」として各国から徴集されていたものと思われます。(これは「江戸幕府」と「松前藩」の関係にも似ていると思われます。「松前藩」では「年貢米」を納めない代わりに「昆布」等の特産物を貢納していました。)

 またこれらの「租賦」は「漢」では本来は「人頭税」として存在していたと思われるものの「後漢」以降「戸」に対する税となったものです。そうなった最大の要因は「後漢末」の混乱であり、逃亡する人々が数知れなくなったため、個人を確定させることが行政としては困難となったものです。そのためまだしも把握の容易な「戸」に対する制度として形を変えたものと見られます。その意味で「調」との差異が見いだせなくなったものであり、それは「倭」においてもほぼ同様の状況があったものと思われます。
 「帥升」以降混乱の中にあった「倭」でも「個々」の人々の消息が「王権」により容易に捕捉できなくなった情勢があったと思われ、やはり「戸」の把握という中に制度の存続を行ったとみられます。そのため「王権」としては「戸」を把握することに重点が注がれたものと思われ、これは『倭人伝』においても多くの国で「戸数」が記されることとなった理由になったとも考えられます。
 つまり「倭中央」(邪馬壹国)から各国に派遣されている「官」の仕事の最優先のものは「戸数」の把握であり、また「特産物」の把握であったと思われるわけです。その内容によって各「国」ごとに「倉」を立てそこに剰余としての農産物を「租」として収蔵するとともにそれを、(「漢」の制度を模倣したとすると)「現地消費分」を除き残りを「中央」つまり「耶麻壹国」へと上送していたものと思われます。
 この「戸」を中心とした「租庸調」の制度は長く「倭」に残り、ずっと後代の「七世紀」に至ってもなお遺存したと思われ、「隋」や「唐」の律令を継受した中でも「戸」によって「田祖」を把握する事はそのまま倭国独自のものとして(「唐令」にはないにも関わらず)『大宝令』などに残ったことが確認されています。

 またこの制度は「漢」やその後の「魏晋」では「国郡」ごとに集約されたものですが、「倭」では「令制国」のような組織化された(広域行政体としての)「国」がこの時点では成立していなかったとみられ、「クニ」つまり「伊都国」や「奴国」のような「クニ」ごとに「租賦」が集約され、それが「耶麻壹国」へと送られていたと思われます。
 この点は「漢」などでは「国郡」から「中央」へは「銭貨」に換算されて送金されていたものですが、この時点の「倭」ではそれが行われず、「物品」が「地元消費」の分を除きすべて中央へと送られていたものと考えられるわけです。
 つまり、「俗」としては「正歳」を知らないとされるなど制度の徹底が不完全であったは思われるものの、かなりの部分「秦漢」の制度を模倣していたと思われ、その意味で「東夷」では出色の存在であったと思われます。


(この項の作成日 2015/02/05、最終更新 2017/12/02)