『倭人伝』には「租賦」を収めていたという「邸閣」というものが出てきます。
「…其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國…」
上にあるように「倭」の風俗を記した中に「犯法」記事と「使大倭」記事に挟まれるように「邸閣」が記されています。これについては「古田氏」はすでにこれが「軍事」目的のものであり、それは一般の「倉」とは別個の存在であることと言及されています。(※)
確かに『三國志』の使用例から帰納するとここでいう「邸閣」は「軍団」の「糧食」保管基地を意味するものであると考えられ、あくまでも軍事に従事している者達への食糧提供がその機能であったと思われます。
(以下そう判断できる例)
「…酒泉蘇衡反,與羌豪鄰戴及丁令胡萬餘騎攻邊縣。既與夏侯儒?破之,衡及鄰戴等皆降。遂上疏請與儒治左城,築?塞,置烽候、『邸閣』以備胡。西羌恐,率?二萬餘落降。」(「三國志/魏書十五 劉司馬梁張?賈傳第十五/張既」より)
「…其年為尚書,出為荊州刺史,加揚烈將軍,隨征南王昶??。基別襲?協於夷陵,協閉門自守。基示以攻形,而實分兵取雄父『邸閣』 ,收米三十餘萬斛,虜安北將軍譚正,納降數千口。於是移其降民,置夷陵縣。…
基以為:「儉等舉軍足以深入,而久不進者,是其詐偽已露,?心疑沮也。今不張示威形以副 民望,而停軍高壘,有似畏懦,非用兵之勢也。若或虜略民人,又州郡兵家為賊所得者,更懷離心;儉等所迫脅者,自顧罪重,不敢復還,此為錯兵無用之地,而成姦?之源。?寇因 之,則淮南非國家之有,?、沛、汝、豫危而不安,此計之大失也。軍宜速進據南頓,南頓有大『邸閣』,計足軍人四十日糧。保堅城,因積穀,先人有奪人之心,此平賊之要也。」…」(「三國志/魏書二十七 徐胡二王傳第二十七/王基」より)
「…十一年冬,亮使諸軍運米,集於斜谷口,治斜谷邸閣。…」(「三國志/蜀書三 後主 劉禪 傳第三/建興十一年」より)
これらを見ると「邸閣」とは軍事における後方支援施設の一つであり、単なる「租賦」を収納する「倉」とは異なっていたことが明確となります。つまり、「倭」においても同様に「租賦」は一時各国の「倉」に納められた後「邪馬壹国」の「倉」へと運ばれ、その後その一部が「邸閣」へと移送されたと見られることとなります。
「後漢」及び「三国」では「倉」の出納管理者が帳簿をつけており、「倉」と「邸閣」ではその内容が異なるのが確認されていますから、「邪馬壹国」の統治範囲の諸国でも同様の取り扱いであった可能性があるものと推量します。
つまり「邸閣」はその「租賦」を収納するというより、それを「軍事」用として供出していたと見られ、その存在意義は「狗奴国」との戦乱という事態に対応して設置されたものと考えられることとなるでしょう。
当然その「糧食」は「不彌国」と「一大国」に本拠地を持ち「常治伊都國」とされたように「伊都国」に展開していた「一大率」という「軍事勢力」のためのものであったでしょう。
また上の例から判断してその「租賦」を(「倉」から)「邸閣」へ運んだのは「軍」つまり「一大率」そのものであったという可能性が高いでしょう。必要になったときに「一大率」から糧米移送担当者がやって来るというわけです。
(後の「宣化元年」に出された「詔」の中でも、各地の「屯倉」から「筑紫」へ「穀」を運ぶように指示が出されていますが、これも「邸閣」としての「大蔵」への移送であり、「筑紫」に多数の兵力が存在していたことを示すと考えられ、それが元の「一大率」にあたる「筑紫」防衛システムのキーとなる場所への「糧食」の移送であったという可能性が高いと思料します。また「宣化元年詔」の中では「蓄積儲粮遥設凶年。厚饗良客。」という表現もあり、「郡使」など外国客に対する迎賓用という用途もあったことが推定できるでしょう。)
また「邸閣」は戦いに備えるという意味からは、「城塞」や「烽候」(ノロシと斥候)あるいは「水城」などと同時期に構築されたという可能性もあります。そうであれば「邪馬壹国」の内外に「城塞」や「烽候」があったということにもなりますが、それがいわゆる「神籠石」遺跡として現在確認されているものという可能性もあるでしょう。
「神籠石」遺跡の中には、出土遺物として「卑弥呼」の時代に遡るものもあることが確認されていますから、これが「狗奴国」との戦いに備えたものであるとみれば、至近に「邸閣」があったことを示唆するものでもあります。
「一大率」が後の「大津城」や「鴻臚館」付近にあったとすると、その至近の場所(行程として一日以内)という場所に「補給拠点」としての「邸閣」がなければならないはずであり、その意味でも「伊都国」と「邪馬壹国」の間はそれほど遠距離とは考えられないこととなります。「糧食」を供出すべき存在と余り離れていては支援とは言えませんし、近すぎては火急の際には「邸閣」ごと敵に奪われかねません。つまり「邪馬壹国」に「邸閣」があったとみるのは「補給」という後方支援の観点から見ても妥当なものといえるものです。
実際に「鬼ノ城」などの「神籠石」遺跡では「礎石」から城内に「高床式倉庫」があったことが推定されており、これが「邸閣」であったことは間違いないと思われています。またここには「烽火」が機能していた形跡も確認されています。(但し全ての「神籠石」が「卑弥呼」の時代まで遡るとは言えないのは当然ですが)
(※)古田武彦「吉野ヶ里遺跡の証言」『市民の古代』第十一集一九八九年
(この項の作成日 2014/08/11、最終更新 2015/04/22)