ところで、近年、「古田氏」により「一大率」に対する理解について、「一大国」の「軍」を示すものという見解が示されています。
その当否を考える上で重要であると考えられるのは、「一大国」が「家」表記であることです。『倭人伝』の中では「不彌国」と共に「家」表記がされており、この意味を考える必要があると思われます。
「倭王権」による民衆の支配と把握については、各国ごとにやや強度が異なるものであったという可能性はありますが、少なくともこの「邪馬壹国」への「主線行程」とも云える国々についてはそのような差はなかったのではないかと思われます。なぜならこれらには「官」が派遣されているからです。「派遣」された「官」の第一の仕事は「戸籍」の作成ではなかったかと思われますから、「戸籍」がなかったというようなことは想定しにくいこととなります。
つまり、「家」で表記されている国である「一大国」と「不彌国」についても「戸籍」は存在していたと考えられ、『倭人伝』で表記の差が現れているのは、単に「戸籍」に関する情報が「魏使」に提示されたかされなかったかの違いであると考えられます。
つまり、「一大国」及び「不彌国」については「魏使」に対して「戸籍」に関する資料、情報を提示しなかったと言うことが推定されることとなるでしょう。そして、その理由については詳細は不明ですが、推測すると「戸籍」というものが多分に「軍事的情報」を含んでいるからではないでしょうか。
『三國志』(特に魏書)における「家」の出現例を見ていくと、「軍事」と関係しているという可能性が窺えます。
「三國志/魏書 卷三 魏書三 明帝 曹叡 紀第三/太和元年」
「太和元年…十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。…魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。」
『三國志』中では「家」は通常の「家」(いえ)という場合の使用例が圧倒的ですが、「数量」の単位として現れる場合は(ここでは「四千餘家」という表現がされている)特定の場合に限られるようです。
上の例では「部曲」として書かれていますが、この「部曲」は「部隊」を構成する単位を示す用語であり、ここでは直接的に「兵隊」を意味するものとして「家」が使用されています。
また「以下」の例では「流入した」者達が「家」で表され、彼等は「部曲」(兵隊)となっており、そのため「軍事力」ばかりがあって「生産力」がないという意味のことがいわれています。
「三國志/魏書 卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一/衞覬」
「衞覬字伯儒,河東安邑人也。少夙成,以才學稱。太祖辟為司空掾屬,除茂陵令、尚書郎。太祖征袁紹,而劉表為紹援,關中諸將又中立。益州牧劉璋與表有隙,覬以治書侍御史使益州,令璋下兵以綴表軍。至長安,道路不通,覬不得進,遂留鎮關中。時四方大有還民,關中諸將多引為部曲,覬書與荀ケ曰:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者十萬餘家,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷,以為部曲。郡縣貧弱,不能與爭,兵家遂彊。」
他にも多数の例がありますが、それらはいずれも「家」と「軍隊」の間に強い関係を窺わせるものです。
そもそも「魏」の「曹操」は、「屯田」を配置しそこからの収穫物を全て自家のものとしていました。これは「地方統治」の方法として「兵士」に開墾させ、糧食を確保させると共に一旦急あれば「武器」を取って戦うという体制を築いたものです。そのために配置された軍人は「兵戸」という専用の「戸制」に登録されていたものであり、それらに属する者達は「家」で数えられていたものです。
また以下の例は「冢守」(墓守)について「家」で表示している例です。
「三國志/魏書卷九 魏書九 諸夏侯曹傳第九/曹仁」
「…仁少時不脩行檢,及長為將,嚴整奉法令,常置科於左右,案以從事。?陵侯彰北征烏丸,文帝在東宮,為書戒彰曰:「為將奉法,不當如征南邪!」及即王位,拜仁車騎將軍,都督荊、揚、益州諸軍事,進封陳侯,摎W二千,并前三千五百?。追賜仁父熾諡曰陳穆侯,置十家。後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽,詔仁討之。仁與徐晃攻破邵,遂入襄陽,使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北,文帝遣使即拜仁大將軍。又詔仁移屯臨潁,遷大司馬,復督諸軍據烏江,還屯合肥。?初四年薨,諡曰忠侯。…」
ここでは「曹仁」について「封戸」を「三千五百戸」に増やすとされているのに対して、彼の父の「墓」(冢)の「守冢」について「十家」とされています。このように「守戸」や「陵戸」というような人達については「通常」の「戸制」に登録はされませんでした。(後の「隋唐」でも同様であり、それを踏襲したと思われる『大宝令』などにもそれは継承されています)
これらの例から考えて、「魏」の「通常の戸籍」ではない戸籍に登録されている場合「家」を使用するものと思われ、それは「夷蛮」の国において「戸制」が十分整備されていない場合や、「魏」とは異なる戸制の場合にも適用されると見られます。(「呉」や「蜀」がこの場合でしょうか)
「軍団」は兵士の集団であり、その兵士は住民から徴発するわけですから、住民に対する「居住」の状況(年齢、性別などの諸情報)が把握されなければ「兵士」として徴発することができないのは明らかです。
どこにどれだけ「兵士」になりうる人間がいるのかを把握できなければ「常備軍」も「臨時」の軍編成もできるものではありません。
そう考えると、「一大国」と「不彌国」の両方が「家」表示であるのは、その両国の「戸籍」がほとんど「兵戸」であったからではないかということが考えられます。
ただし、「兵戸」であることを「倭」側の官(これは「一大率」か)が「魏使」に告げたかどうかは不明です。それは即座に「軍事情報」とも言えますから、秘密にしたということも考えられますし、「他国」からの「流民」などについては「家」で表記するというルールらしいものもあったようですから、それを「装った」という可能性もあります。
それは上の「一大国」の記事においても、特記すべき事として軍関係の表示が全く無いことからも窺えるものです。
もし「一大國」「家」が「兵戸」に基づくとしたら、「一大国」には「軍事」に関する何らかの表象があったはずと思われますから、必ず「魏使」はそれを明記したことでしょう。(軍事情報は最優先事項でしょうから)
それが書かれていないと言うことは、「家」の正体を「倭」の側は明らかにしなかったという可能性が高いと思料します。つまり「倭王権」は「戸籍」の開示をしなかったばかりか、国内(島内)の「軍事情報」を意図的に「隠した」のではないでしょうか。
「魏使」を案内するにもそのような施設を見せないように迂回させたものと考えられます。(『倭人伝』の距離表示が「壱岐」と「對馬」については「半周読法」である理由もそこにあるのかも知れません。つまり、反対側の「半周」には軍事基地等があったという可能性もあると考えられます)
そして、それは「不彌国」についても同様であったと推測できます。
「不彌国」は「邪馬壹国」の至近にあったと考えられますから、「首都」を防衛するものかあるいは「王権」そのものを防衛する役割があったと見られ、やはり軍事的拠点であったと考えるべきではないでしょうか。それは「首都」の近傍にしては少ない「家」の数からもいえると思われます。そのことは「不彌国」を構成する人達はほとんどが「兵士」であったことを推測させるものであり、通常の「国」の構成とは全く異なっていたと考えられることとなります。
これらのことを考えると、「一大国」には「軍事拠点」があったと推定されることとなり、「一大率」という名称はそれが「一大国」の軍事力の前線基地として機能していたことを示すものであったという「古田氏」の推定が正しいことを示すと思われます。
(「壱岐」の「原の辻遺跡」からは「鉄・銅・骨」などの各種「鏃」や「短甲」「投弾」「烽火跡」など「軍事」に関係するものが多く出土しています。また「港湾施設」と思われる遺跡が出土し、そこには「堤防」と考えられる遺構に「敷きソダ工法」が使われ、「水城」などと同様の建設手法であることが確認されています。その意味でもこの「壱岐」という島が軍事に特化した地域であったらしいことが推測されています。)
既に検討したように「一大率」は海外からの使者などについては「対馬国」以降「末廬国」の「唐津」へ誘導しそこで「外交文書」その他貢献物などの確認等の行為を行った後「伊都国」にあった「宿舎」(迎賓館も含むか)へと案内していたものであり、「対馬国」以降「一大率」の監督下に入ったものと見られることとなります。「壱岐」(一大国)はその「対馬」と「末廬国」などの中間地点にあり、それは人員の輸送という点で利便性があったことを示すものであり、それらの事から「一大国」と「一大率」には重要な関係があるのは確実と思われ、「伊都国」に展開している首都防衛のための防衛線として「防人・斥候」的役割をする部隊の「本体」が「一大国」にいたことを示すものであり、これが「一大率」の真の本拠地であったという可能性も考えられるところです。
また同じ軍事情報でも「伊都国」に「一大率」が存在しているということが「秘密」とされていないのは、「伊都国」に「郡使」が「常駐」するという環境の結果であると考えられます。
「伊都国」は「千余戸」という少ない戸数が記録されており、そのことからも「一般民家」の少ない「公的エリア」であったことが推定され、「軍団」についてもほぼ「露出」しているような状態であったのではないでしょうか。つまり「隠しようがなかった」というような事情によって「一大率」についての情報が記載されると言うこととなったものと思われます。
「実際」に「戸」と「家」との間の違い(差)はどれほどであったかというと、それは「戸」が示されない場合に「家」で表示していると言うことの中に既に現れているといえるでしょう。つまり「家」で「戸」数は代替できる場合が多いと「魏使」が考えていた証左であると考えられ、「家」はほぼ「戸」と等しいと考えられていたのではないかと思われます。後の「養老律令」や『令集解』に示されている「古記」がもとづくと思われる「大宝律令」でも「戸」と「家」はほぼ同義で使用されています。たとえば『令集解』の「戸令」の条では「戸謂。一家為一戸也。」とあり、明確に「戸」と「家」が同義であることを示しています。
このように「大宝律令」でも(多分それ以前の古律令においても)その母体は隋・唐の律令にあるのは明らかですから(この点後に触れます)、「戸」と「家」についての関係も隋・唐に淵源すると思われますが、その隋・唐の律令はその時点で目新しく造られたものではなく、究極的には(秦)漢魏晋時代の律令につながっています。その意味で魏の使者が使用した「戸」と「家」の意義と大きくは異ならないはずであり、基本的な制度あるいは構造として、「戸」の主たる(あるいは全的な)構成要素は父母兄弟(とその婚姻者)という自然発生的な「家」というものであったとおもわれるわけです。
ただし、この二つが常に等しいということではなかったと思われ、それは『倭人伝』でも「…有屋室、父母兄弟臥息異處。…」とあり、「家」の実態が「父母兄弟」が基本的単位であることを示していますが、同じく『倭人伝』には「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。」とあり、これら「四五婦」や「二三婦」が一つ屋根の下に暮らしていたとも考えられませんから、彼等が一つの『家』を形成してはいないと思われ、この時点ですでに「戸」と「家」が異なる場合もあったことが推定できます。さらに「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。」と書かれていることから、「妻子」というのが「家」であり、それを含む複数の「家」で構成される「門戸」というものが存在していたことを推定させますが、この「門戸」が『倭人伝』の中に多く見られる「戸」と同義であると見るのは間違いではないでしょう。
いずれにしても「戸」というものがいわば制度としての形而上的存在であり、外からそれと分かるものではなかったのは確かであり、魏使が「戸」を把握できなかった場合「家」で代用せざるを得なかったというのもまた確かでしょう。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2018/01/20)