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「戸」と「家」について(二)


 「韓伝」においては「総数」が「戸」で示されているにもかかわらず、その内訳として「家」で表されています。しかも、その「戸数」と「家数」の総数が合いません。この「韓伝」の数字についてはいろいろ議論されていますが、よく言われるのは「戸」と「家」の「換算」が可能というような理解があることです。そこでそれが事実か実際に計算してみます。
(以下「魏志東夷伝」から)

「韓伝」
「(馬韓)…凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」

 ここでは、「凡五十餘國」とされており、その総戸数として「十萬餘戸」とされています。「余」というのは文字通り「余り」であり、「五十餘」という場合は「五十一−五十九」の範囲に入ります。同様に「十萬餘」という場合は「十万千から十万九千」を云うと思われ、概数として中間値をとって「五十五」と「十万五千」という数字を採用してみます。その場合単純平均で一国あたり「千九百戸」程度となります。しかし、実際には内訳として「大國萬餘家、小國數千家」とされています。これを同様に「一万五千」と「五〜六千」として理解してみます。
 この数字の解釈として「平均値」として受け取る場合と「最大値」として理解する場合と二通りありますが、「平均値」と考え、さらにここで「大国」が「五国」程度と考えて、残りの四十五国は「小国」であったこととする様な想定をしてみます。これらを当てはめて総数を計算してみると、「三十二万家」ほどとなります。これが戸数として、「十萬餘」つまり「十万五千」程度に相当するというわけですから、「戸」と「家」の数的比として「1対3」程度となります。
 この「想定」を「大国」がもっと多かったとして「十国」程度とし、それ以外が「諸国」であるとして計算しても、合計で「三十六万家」弱程度しかならず、比の値としては「1対3.5」程度となるぐらいですから大きくは違わないと思われます。
 また「韓伝」の表現が「最大値」を示していると考えた場合は当然総家数は「三十三万」よりも少なくなりますから、「比」は「1対3」よりもかなり低下するでしょう。
 たとえば「大国」を五国としてそのうち二国は「万余」つまり「一万千」ほど、他の三国は「九千」程度と仮定し、「小国」は「四十五国」中五国程度を「最大値」の国として「五千五百」とし、それ以外をその半分程度の「二千五百」ほどと見込むと、総家数として「十七万六千五百」という値が出ます。つまり「総戸数」との「比」は「1対2」を下回るわけですが、これはかなり極端な想定ですから実際にはもう少し大きな値となるものと思われ、いずれにしろ「家」と「戸」とは「イコール」ではないこととなります。
 
 同様なことを同じ「韓伝」の「弁辰」について検討してみます。

「韓伝」
「弁辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。」

 ここで「馬韓」と同様「平均値」と「最大値」と両方でシミュレーションを行ってみます。
 たとえば「大国」を五国程度と考え、「家」の数を「四千五百」とし、「小国」を残り十九国として「六百五十家」とすると、総計で「三万五千家」ほどとなりますが、これでは総戸数より少なくなってしまいます。これは想定に問題があると思われ、今度は「大国」を十国程度に増やして考えてみます。その場合は総計「五万四千家」ほどとなります。これであれば「比」として「1対1.2」という数字になり、これはほぼ「家数」と同じといえるでしょう。
 更にこれを「平均値」として考えると当然この値より低下するわけですから、ほぼ1対1程度になると思われます。また、これ以上「大国」を増やした想定をしても「馬韓」のような「1対2〜3」という数字(比)には遠くおよばないこととなるでしょう。
 以上のことは、よく言われるように「戸」と「家」の間に一意的な関係がある(ある一定の比率で相互に換算可能と言うこと)わけではないことを意味するものであり、「戸」と「家」の関係は国ごとに異なるということを示すものといえるでしょう。

 以上見てきましたが、基本は「戸」と「家」とはその意味も実態も異なると考えられる訳です。しかし、『倭人伝』では「夫餘伝」などと違い同じ「国」の人口などを記すのに「戸」と「家」が使い分けられているように見えます。
 この場合考えるヒントとなるものは、「戸」が「公式」なものであり、「戸籍」にもとづくものであるということです。
 つまり「魏」からの使者が「戸数」を知るには、「戸」についての資料あるいはそれを元にした口頭説明などを「各国」の「官」から受ける必要があったと考えられます。明らかに「戸」とは「国家」(官)の把握・管理している対象としてのものですから、部外者がそれを知るためには何らかの「記録」を見る、あるいは担当官吏から「説明」を受けるというような手続きを経なければなりません。そうしなければ決して知ることのできない性質のものであると考えられるのに対して、「家」は外観から知ることが出来る性質のものであるといえるでしょう。(無理すれば数えれば分かるものとも言えます)
 これを『倭人伝』に当てはめると「一大国」と「不彌国」だけが「家」表記されているわけであり、その意味するところを考えると、「魏使」が通過した際この両国については「資料」を見る機会がなかった、あるいはその際に引率・対応したと思われる「一大率」(あるいは彼から派遣された人員)が、そのようなデータを「教えてくれなかった」というような事情があったと考えることができるでしょう。
 彼ら魏使達はそのような場合は何らかの方法(やや高いところからざっと家の数を数えたとか)で「家」の数を把握したと言う事ではないでしょうか。そのため「許」(ばかり)という「概数表記」がされているのだと思われます。
 「戸数」に使用されている「余」というのも「概数表示」であるように思えますが、表現を曖昧にしているだけで「概数」表記であるとは言い切れません。実際には「正確」に把握されているものの、それを全て書くと「冗長」なので省略しているだけという場合もあり得るからです。「許」(ばかり)の方は明らかに「正確な数量」を把握していない、という事の表れですから、内容は明確に異なると思われます。
 (ちなみに「投馬国」と「邪馬壹国」の戸数表記に「可」という表記がされており、これも「概数」を表すものですが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見られます。それは両国とも人口が多く、「詳細」な報告は煩瑣であるということを担当官吏が考えたからではないかと思われ、結果として「概数」が魏使に対して提示されたということではないかと推察します。)

 以上から「魏使」に対し「戸籍」という「資料」を提出したところとそうでないところがあったものと見られ、またそれは「魏使」としては「強要」するものではなかったからと言うことも考えられます。
 この『倭人伝』の原資料は、「卑弥呼」に対する「冠位」の賜与と記念品の贈呈を「魏」の皇帝に代って行なうために来倭した際の記録が主たるものであったと思われ、彼らの任務として「国情」の視察等は副次的作業であった訳ですから、「資料」を提示された場合は見るし、そうでない場合は推測すると言うだけのことではなかったでしょうか。その国ごとの対応(応接)の差が「戸」と「家」の表記の差になっているという可能性が高いと思われます。
 このことは、「魏使」が「邪馬壹国」まで行っていないとか、「卑弥呼」には面会していないというような理解が成立しにくいことを示します。なぜならそこには「戸数」が表記されているからです。
 上に見たように「戸」が「公的情報」であり「官」から提示説明された資料に基づくとすれば、「邪馬壹国」など「万」を超える戸数の国についてもそれが「戸数」で表記されている限り「類推」などではなく、根拠のあるものであることとなり、実際に「邪馬壹国」に行き「官」に面会し、各種の情報を入手したと考えるべき事を示しますから、当然「倭女王」たる「卑弥呼」にも面会し、直接「魏皇帝」からの下賜品を授与したと見るべきこととなります。

 ところで、「投馬国」も「戸数」が表記されており、同様に「担当官僚」から正確な情報を入手したものと考えられ、現地まで実際に赴いたという可能性が高いものと思料しますが(この時も当然「一大率」が魏使をサポートしたものと見られます)、その「投馬国」については「水行十日」と記されていますが、その記事は「不彌国」の次ぎに書かれており、それは「不彌国」に港があったことを示すものです。
 ここで通常いわれるように「不彌国」が傍線行程であったとして、実際には「港」はその手前の「奴国」にあったものとすることも一見できるかもしれませんが、それでは「投馬国」への行程を「不彌国」より先に書くのが通常なのではないでしょうか。ここではあくまでも「不彌国」と「邪馬壹国」の間に「投馬国」への行程が記入されていますから、「投馬国」への分岐は「不彌国」であり、そこには「港」があって「投馬国」へのルートが確保されていたことを示すと共に、その港の至近に「邪馬壹国」があったということを示すものとも思われます。
 この「投馬国」記事には「戸数表示」があり、また「官名」も独特なものがあります。これらは「魏使」が実際に現地に行ったということを示しているものと思われ、それは主に案内した「一大率」あるいは「邪馬壹国」首脳にそのような行動の理由(あるいは動機)が存在していたものと思われますが、最も考えられるのは「魏」にとって見逃せない「呉」との関係ではなかったでしょうか。
 つまり「投馬国」は「呉」に対する防衛線を構成していた主要な国の一つではなかったかと考えられるのです。そう考えると「南」という大方向表記からは「肥後」が西方から侵入してくる外敵に対して要衝の位置にあることは間違いなく、「投馬国」として最も想定可能な領域であると思われます。

 このように「戸数」表示があるところは「魏使」が実際に赴いたところであるということは『倭人伝』中の以下の文章からも推定できます。

「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」

 ここでは「其餘旁國」つまり「斯馬國」以下の「二十一国」については、実際に行くことが出来なかったから「戸数」表示が出来ないというのですから、「邪馬壹国」や「投馬国」など「戸数」表示がされているところは「魏」の使者が実際に赴き「戸数」に関する資料の開示を受けたと言う事を示すものです。

 このように各国に「複数」の「官」が派遣され、しかもそれら各国にはほとんど「王」がいないとされ、また「戸籍」が充実している点などを見ても、この時点の「倭王権」がかなり強力な「中央集権的」存在であることが理解できます。このような統治機構は他の東夷伝には全く書かれておらず、『倭人伝』にしか見られないものです。つまり、「中国」以外では「例外的」に「倭」に「中央集権的」権力がこの時点で存在していたことを示すものであり、それを「魏」の王権でも重視していたものと思われ、「親魏倭王」という称号を与えたのもそのような「高度」な統治体制を構築したことに対する「賞賛」を示すものであり、少なからず「畏敬」の念も含んでいたこととなるでしょう。

 このように「戸数」が「戸籍」に基づくという前提から考えると、先に計算した「韓」において「家数」と「戸数」とがかなり食い違うという事情については、「総人口」(総家数)に対して「戸籍」に編入されている割合(「捕捉率」とでもいうべきでしょうか)が地域によってかなり異なっていたという事情があると思われます。特に「馬韓」においてそれが顕著であり、三分の一程度しか「戸籍」に編入されていなかったらしいことがその「戸数」と「家数」の計算から推定できるでしょう。それに対し「弁辰」は「捕捉率」が高かったようであり、ほぼ一〇〇%戸籍に編入されていたらしいことが推定できます。その差は両国(地域)の「統治」の実情と関係していると考えられるものです。
 「馬韓」の場合「韓伝」の中に「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。」という記事があり、このことは「支配力」が末端まで及んでいなかったことを推定させるものですが、そのことと「家」と「戸」の数量の間に乖離があると言う事が深く関係していると思われます。それに比べ「弁辰」においては同じく「韓伝」中に「法俗特嚴峻」とされており、「法」や「制度」がしっかり守られていたとされていて、「隅々」まで「統治」が行き渡っていたことが推定できるものですが、このことと殆どの「家」が「戸」として把握されていたと言う事の間にも深い関係があると推定します。
 いずれにしろ「倭」とは異なり、「諸国」に「官」が派遣されているという体制ではなかったようですから、「戸籍」が未整備であったとしても不思議ではないと思われます。


(この項の作成日 2012/05/19、最終更新 2015/06/17)