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「持衰」と「瀚海」について


 ところで『倭人伝』には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。
 
「魏志東夷伝 倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去〓蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其『生口』財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」

 既にみたようにここには「生口」が関連して書かれています。この「生口」については、以前から解釈が複数あり、この船の中に「皇帝」に献上すべき「生口」がいるという前提で、それを指すというような解釈がありましたが、それは大きな読み違えと思われます。
 生口は確かに「持参」することもありましたが、それも必ずというわけでもなかったわけです。しかしこの文章からは「いつもそうしている」というニュアンスを感じます。つまりここでいう「生口」は、「皇帝」に献上すべく乗船していたというようなものではなく「持衰」が母国に残した来たものであり、「其」という指示代名詞からもわかるように彼の所有に関わるものであったと考えられることとなります。つまり航海一般に「生口」が同乗しているというわけではなく、単に「貢納」する際にその一部として「生口」があるというケースも存在するものであり、それはある意味「レアケース」ではなかったでしょうか。

 ここでは「恆使一人…爲持衰」とされていますから、その「一人」とは「船」に乗り組んでいる人員のうちの「一人」と解釈すべきであり、使者のうちの一人であることは確実であり、決して「生口」ではないと考えられます。
 この「持衰」についての理解の中には、彼は航海の間陸上(出発地)にいるもので、乗船していなかったとするものもあるようですが、それでは「疾病や「暴害」などに遭遇したかは帰国しなければ判らないわけですから、「持衰」に対する対応としては後手に回るでしょう。当然彼は同乗していると考えざるを得ないものです。これに関しては古田氏が示した『海賦』の一節が傍証となります。

「『若其負穢臨深』,虚誓愆祈。則有海童邀路,馬銜當蹊。…。」(木華作『海賦』より)

 この冒頭に出てくる「若其負穢臨深」という部分が古田氏により「持衰」のこととされているわけであり、それは卓見と思われますが、ここでは「穢」を「負う」もの(これがすなわち「持衰」)が「深き」に「臨む」とされており、この「深き」とは「海」を表象するものと思われますから、「持衰」が船に乗っていることを示す文章であると思われ、「陳寿」や時代を同じくする「木華」などの常識として「持衰」は船に乗っていると考えられていたことを示します。
 「持衰」は航海の前に「誓い」を立て、それを破らず「祈り」続けることで航海の安全が保てると考えられていたようであり、それが満たされなければ遭難すると考えられていたもののようです。このような儀礼が習慣化していたことの裏側として「船」の構造の問題があり、外洋に出た場合いつ転覆その他不測の事態があるかわからなかったという現実があったものとみられます。
 その後の「遣唐使船」なども遭難する例が後を絶たなかったものであり、「船」の構造に関し特段発達した気配がありません。倭において「船」は「沿岸航法」が主であり、外洋に出る機会そのものが少なかったため構造が進化しなかったとみるべきなのでしょう。
 
 ところでこの「海賦」で示された「海」とは「瀚海」を指すものではなかったでしょうか。後の史料にはこの「海賦」をベースにした表現が多く見られますが、そこには「瀚海」という名称が使用されています。

「(隆安)十九年,立國子學,以本官領國子博士。皇太子講孝經,承天與中庶子顏延之同為執經。頃之,遷御史中丞。時索虜侵邊,太祖訪羣臣威戎御遠之略,承天上表曰:
伏見北藩上事,虜犯青、?,天慈降鑑,矜此黎元,博逮羣策,經綸戎政,臣以愚陋,預聞訪及。竊尋??告難,爰自上古,有周之盛,南仲出車,漢氏方隆,衛、霍宣力。『雖飲馬瀚海 』,揚?祁連,事難役繁,天下騷動,委輸負海,貲及舟車。凶狡倔強,未肯受弱,得失報復,裁不相補。宣帝末年,?其乖亂,推亡固存,始獲稽服。自晉喪中原,戎狄侵擾,百餘年間,未暇以北虜為念。大宋?祚,兩燿靈武,而懷コ畏威,用自款納。陛下臨御以來,羈縻遵養,十餘年中,貢譯不?。去?三王出鎮,思振遠圖,獸心易駭,遂生猜懼,背違信約,深搆攜隙。貪禍恣毒,無因自反,恐烽燧之警,必自此始。臣素庸懦,才不經武,率其管窺,謹撰安邊論。意及淺末,懼無可採。若得詢之朝列,辨覈同異,庶或開引羣慮,研盡?謀,短長畢陳,當否可見。其論曰:
漢世言備匈奴之策,不過二科,武夫盡征伐之謀,儒生講和親之約,課其所言,互有遠志。加塞漠之外,胡敵掣肘,必未能摧鋒引日,規自開張。當由往年冀土之民,附化者?,二州臨境,三王出藩,經略既張,宏圖將舉,士女延望,華、夷慕義。故昧於小利,且自矜侈,外示餘力,?堅偽?。今若務存遵養,許其自新,雖未可羈致北闕,猶足鎮靜邊境。然和親事重,當盡廟算,誠非愚短,所能究言。若追蹤衛、霍『瀚海』之志,時事不等,致功亦殊。寇雖習戰來久,又全據燕、趙,跨帶秦、魏,山河之險,終古如一。自非大田淮、泗,?實青、徐,使民有贏儲,野有積穀,然後分命方、召,總率虎旅,精卒十萬,使一舉盪夷,則不足稍勤王師,以勞天下。…」(宋書/列傳第二十四/何承天)

 これを見ると「飲馬瀚海」という表現があり、この「馬」とは『海賦』にいう「馬銜」つまり海に住むという怪物を意味するものと思われますから、『海賦』のいう「海」が「瀚海」を指しているのは明確と思われます。

 また「臨瀚海而斬長鯨」という表現も見られます。

「…虞世基字茂世,會稽餘姚人也。…于斯時也,青春?候,朝陽明岫。日月光華,煙雲吐秀。澄波瀾於江海,靜氛埃於宇宙。乘輿乃御太一之玉堂,授軍令於紫房。蘊龍韜之妙算,誓武旅於戎場。?金顏於庸、蜀,躪鐵騎於漁陽。?神弩而持滿,?天弧而並張。曳虹旗之正正,振?鼓之??。八陳肅而成列,六軍儼以相望。拒飛梯於?帶,聳樓車於武岡。或掉鞅而直指,乍交綏而弗傷。裁應變而蛇?,俄蹈肢ネ鷹揚。中小枝於戟刃,徹蹲札於甲裳。聊七縱於孟獲,乃兩擒於卞莊。始軒軒而鶴舉,遂離離以雁行。振川谷而八表,蕩海岳而耀三光。諒窈冥之不測,羌進退而難常。亦有投石扛鼎,超乘挾?。衝冠聳劍,鐵楯銅頭。熊渠殪?,武勇操牛。雖任鄙與賁、育,故無得而為仇。
九攻既決,三略已周。鳴?振響,風卷電收。於是勇爵班,金奏設,登元、凱而陪位,命方、邵而就列。三獻式序,八音未?。舞干戚而有豫,聽鼓?而載ス。俾挾\與投醪,咸忘?而殉節。方席卷而行,見王師之有征。登燕山而戮封豕,『臨瀚海而斬長鯨』。望雲亭而載蹕,禮升中而告成。實皇王之神武,信蕩蕩而難名者也。陳主嘉之,賜馬一匹。…」(隋書/列傳第三十二/虞世基)

 これによれば「瀚海」には「長鯨」がいるというわけですが、これも「海童」や「馬銜」と同類であり、いずれも『海賦』やその『海賦』のベースとなっている伝説や神話的な海に関する怪異の情報にその根拠があると思われますが、その「怪異」が現れる「海」というのが「瀚海」であったわけです。
 また後の「百済を救う役」の際に「斉明」の「詔」に以下のような文言が確認できます。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙『翦其鯨鯢。』■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

 ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などを意味するものですが、この「鯨鯢」という単語は「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもでてくるもので、「海」や「大河」に住む「大魚」の一種というように考えられていたものです。

「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,鯨鯢唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」

 このように「海」に棲んでいるという怪異についての情報は古典的なもののようですが、「斉明」がこの戦いにおいてこの語を使用しているのは、そこが「瀚海」だからとも言えるものであり、「新羅」に対して侮蔑的な使用法となっているわけです。

 すでに考察したように「瀚海」とは「広い海」を指す言葉であり、それは「九州本土」から見て「向こう側」の海を指すものであったと思われます。実際にその対象となる海は『倭人伝』の記述からは「対馬」と「壱岐」の間を流れる「対馬海峡東水道」を意味するものであったと思われますが、ここも含め「対馬海峡」を流れる「対馬海流」は流速が早く、外洋の中でも古代の船にとっては「難所」ではなかったかと思われます。このような「難所」を乗り越えるには本来正しい航行技術と航行に耐える構造の船が必要ですが、当時それらは(特に「倭人」には)求めて得られず、必然的に「神」に祈ることが必要であったと思われます。
 「魏」あるいはそれ以前の「後漢」や「半島」との往来に当たってはそのような外洋航海を行う必要がありましたから、その際には「持衰」が乗船することが必須であったものです。

 また「航海」がうまくいく、ということは「母国」に帰るまで確定しない事項ですから、「共顧其生口財物」というのは「帰国後」のことであるとわかります。
 またそこに「其」という指示代名詞があるところから考えると、「生口」と「財物」の双方とも本来「持衰」となっていた「使者」の所有するものであるということが推定できるでしょう。つまり「持衰」となる人物は乗船前から決まっていたと思われるわけであり、その意味で彼の所有となっていた「生口」と「財物」は出発前に当局に「預託」されていたものであったと思われるわけです。

 また上の記事の中では「持衰」について「如喪人」と表現されていますが、彼に対する形容から当時近親者が亡くなった場合の「喪に服す」という内容が具体的に判明します。つまり「髪に櫛を入れず、身体を洗わず、爪も切らず、肉を食べず」というような状態を継続する事が「喪に服す」ということであるわけです。(その後川などで「沐浴」して「ケガレ」を落とすこととなる)これと同じ状態になるということはその「祈る」対象が同一であることを示唆するものであり、「鬼神」信仰があったことを示します。
 自然界には人間にはどうすることもできないものが存在しているものであり、それが人間にとって良くない結果となるのは自然界を支配している「鬼神」に対し「正しく祈らないから」であるとするわけであり、その「正しい」祈りの方法が「喪人」のごとくするというわけです。

 このような「航海」の「無事」を祈願するために選ばれた人物は「誰でもよい」ということではなかったと思われ、特に選ばれた存在であったと思われます。つまり普段から「祈祷」のようなことを生業としている人物が推定されるわけであり、またいつも彼が「持衰」をすると「安全」に航海できるというようなある意味「幸運」な人物ならば彼に乗ってほしいという要求も多かったと思われ、ある程度「固定」していたという可能性もあるでしょう。(これは後の「忌部氏」や「中臣氏」のような、神事に関わるようなことをその職掌としていた氏族につながることも考えられるところでしょう) 
 そして、「共顧」するとは、無事に航海が全うできたならそれらについては「安堵する」つまり「返却」される(ただしその場合は褒賞付となり、増加していると思われますが)ということではないでしょうか。
 ここで用語として使用されている「顧」には「考慮する」あるいは「気を遣う」という意味があり、彼の「生口」「財物」については不当に扱われることのないよう「考慮」されるという意味で使用されているのではないかと思われます。

 また「荒天」に遭ったりしたなら使者は殺されるというわけですが、船には航海中の船内の治安を維持するために「解部」が乗船していたと思われ(「卑弥呼」の時代に既に「部」という制度があったものと見られます)、彼により判決が下され、また刑が執行されたものと思われます。また当然「母国」に残してきた「生口」と「財物」も(もし帰国できたならその後)没収されるということになると思われます。
 このように本人が「死刑」になった後に「生口」「財物」が「没収」されるというのは、後の「物部守屋」の死後にも同様のことが行われているとともに、「蘇我倉山田麻呂」の処刑後にも同じような措置が行われています。これらは「律令」の中にも同様の規定があるものであり、「倭」では古代より普遍的に行われた措置であったと考えられるでしょう。後にそれが律令に取り込まれたものと考えられるわけです。

 またこの「持衰」となった使者が「生口」を保有していたと見られるわけですが、当然「生口」を保有していたのは彼だけではなかったはずですから、他の使者やその他多くの「倭」の人々は「奴婢」として「生口」を保有していたものと思われ、その起源として最も考えられるのは「戦争捕虜」であり、この当時「戦争」が多くあり、多数の人々が「捕虜」となり「生口」という扱いを受けていたことを示すものと思われます。それが「奴婢」という存在ではなかったかと考えられます。
 すでに見たように「奴婢」には「犯罪者」やそれが「重罪」の場合「没」とされたその家族や宗族などがあったという場合と、「戦争」によって獲得された「捕虜」という二種あったと思われます。これらはいずれもその所有が「国家」に所属すると思われ、いわゆる「官奴婢」と思われます。また「犯罪」を犯して「奴婢」となったという場合その「被害者」にその「奴婢」が「国家」から「下賜される」という場合があったと思われ、そのような場合「私奴婢」として存在したとも思われます。さらに「戦争」で獲得したという場合も、その戦闘で主体的に活躍した武将などにその「捕虜」が「付された」という可能性もあり、これも同様に「私奴婢」となったと考えられます。
 この「持衰」記事において見える「生口」はこのような「私奴婢」であったと思われ、「持衰」が「所有」するところの「私奴婢」を意味すると考えられるものです。


(この項の作成日 2013/04/17、最終更新 2020/05/24)