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「生口」について


 『倭人伝』の中に「生口」という用語が見えます。

「…景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼、帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男『生口』四人、女『生口』六人、班布二匹二丈、喪到。…
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻『生口』、倭錦、絳青■、緜衣、丹木、■、短弓矢。…」

「其八年(二四七年)太守王斤到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、〓葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩臺與、臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女『生口』三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」

 これについて「倭」の各諸国(「三十国」)からの使者であるとする意見もありますが、そうは考えられません。ここに書かれた「生口」以外の「班布二匹二丈」や「白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」はその「目録」とも言えるものが添付されていたはずであり、それは「献上」されたとみられる「生口」についても同様であったと考えられます。この史料が中国側の史料であると言う事を考えれば、ここに書かれた文章はそれらを参照して書かれたとみるべきこととなり、そう考えればこの「生口」が「白珠」や「雑錦」などと同様「贈呈」されたものであり、「往還」する立場である「使者」とは異なることは自明ではないでしょうか。

 他に『三國志』の中で「生口」が記載された例を以下にいくつか挙げてみます。

「魏志東夷伝 わい伝」「…其邑落相侵犯、輒相罰、責『生口』牛馬。名之爲責禍。…」

「魏志東夷伝 倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去〓蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其『生口』財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」

 その他『三國志』以外にも「生口」の例は多いのですが、以下に後漢書と旧唐書の例を挙げます。

「後漢書倭傳」「…安帝永初元年、倭國王帥升等獻『生口』百六十人、願請見。…

「舊唐書東夷傳 高麗」「貞觀十九年、…夏四月、李勣軍渡遼、進攻蓋牟城、抜之、獲『生口』二萬、以其城置蓋州。五月、張亮副將程名振攻沙卑城、抜之、虜其『男女』八千口。…」

 またこれは後代の例ではありますが『三国史記』に「生口を解放して良人」としたという記述が見え、この場合の「生口」が「奴隷」(奴婢)を意味するものであることがわかります。

 「生口」とは上の諸例でも分かるように、要は「人間」であり、それは「提供」されたり、「取得」されたり、「献上」されたり、「奪取」されたりしている事でわかるように「金品」と同じ扱いをされるものであったと思われます。それがどのような種類の人間であるかは不明ですが、少なくとも「自由を奪われた」種類の人間であることは間違いありません。
 例えば近隣諸国との争いの結果取得された「戦争捕虜」であったという場合が多いと思われます。『三國志』や『後漢書』などではこの例がほとんどです。
 戦争捕虜が「奴婢」となるのは「隋唐」の「律令」にも定めがあり、『書紀』にも「百済を救う役」で捕虜になり「唐」の「官戸」とされた例がいくつか出て来ますが、このように「捕虜」は「官戸」ないしは「官奴婢」となるとされています。
 「殷代」の「王墓」からは「捕虜」と思われる多数の「殉葬者」が確認されており、「戦争捕虜」の用途としてこのような場合もあり得べきものかとも思われます。
 「倭」から「生口」が献上されたという意味は、「外交儀礼」(というより「服属儀礼」と言うべきか)として「戦争捕虜」に準じた人員を献上したという可能性もあり得ます。(これが「狗奴国」など反対勢力との闘争で獲得した「戦争捕虜」であったという可能性も考えられます。)
 しかし、これらの「生口」を「奴婢」として扱うかどうかは「送られた側」が決めるわけであり、「良人」として扱われるという場合もあったでしょう。(「特殊技能」があるなどの場合)それが「生口」という表現の中に現れていると思われます。つまり「ユーティリティパーソン」というべきものであり、「素材」としての人間であったと思われます。持ち合わせた特徴により「ご随意にご使用ください」というわけです。
 戦争捕虜と違って、このように「皇帝」に「献上」するというような場合は、基本的に皇帝に「喜んでもらえる」種類の人間を選んでいるはずです。
 つまり、なにがしかの「技能」を有する人間が選抜されたものではないかと思われ、音楽、曲芸、舞踊などに秀でた人物達を献上したと推定されるものです。また「女性」の場合「容姿端麗」な者が選ばれたと考えられます。(それだけで特殊技能と言うべきですから)

 「前漢」の「金日?」は元々「匈奴」の太子であったのですが、捕らえられ「官」に「没」されたとされていますから、「官戸」ないし「官奴婢」となったものと思われます。彼は「馬」の飼育係となったとされますが、日本でも「馬飼部」という部民は「奴婢」として扱われていました。その意味でも彼は「官奴婢」であったものと思われます。
 後に彼は「漢皇帝」(武帝)に見いだされ、取り立てられて「良人」となったものですが、当初「漢」に連れてこられた際は「生口」として連れてこられたものと思料されます。

 ところで、上の「魏志東夷伝わい伝」の例の中の「責生口牛馬」については「捕虜」や「牛馬」を「取り返す」というような意味として訳されるときがありますが、これは「相侵犯、輒相罰」と「相」という字が使用されていることから分かるように、「双方」つまり「両村」へのペナルティーであり、それは「不耐■(わい)国」の上層部からの措置であると考えるべきと思われます。つまり、「生口」や「牛馬」を「責」する主体は「不耐■(わい)国」そのものであると理解すべきではないでしょうか。農耕に必要な人や牛馬を取り上げるというのですから、戦いは終わらざるを得ないと思われます。
 「取られた方」に「取り返す」権利があると理解すると、互いに「取られたら取り返す」という争いは終わることがなくなってしまうでしょう。


(この項の作成日 2013/04/17、最終更新 2014/11/22)