『倭人伝』では「半島」と「対馬」の間ではなく「対馬」と「壱岐」の間に「瀚海」という名称が書かれています。そのことは「対馬」と「半島」(狗邪韓国)との間に「国境」があることが推定でき、またこの「名称」(漢語)は「倭人側」の命名とみることができるでしょう。つまりここだけに特に名称がついている理由として「対馬」までが「邪馬壹国」率いる「倭王権」の範囲とみられるからです。
もし「半島」にも「倭王権」の統治が及んでいるのなら「半島」と「対馬」間の「朝鮮水道」にも名前がついていて当然と思われます。「対馬」に至って初めて「倭王権」の統治範囲に入ったと考えれば(逆に言うと「対馬」までが倭王権の統治範囲であるとすれば)、その向こう側の海域には「倭王権」による命名がないのは当然といえます。
「対馬」から「壱岐」までの間の海峡に名称がついているのは、そこが「倭王権」の領域内で通行・移動するための航海として「陸地」と「陸地」の間が「最も距離があった海域」だからと思います。
当時は「沿岸航法」が一般的であったと思いますが、「半島」へ行くためには「一海を渡る」必要があったものであり、その中で特に「広い海峡」であるということから「広い」という意を含んだ「瀚海」と命名されたと考える余地があるでしょう。
『倭人伝』ではこの二つの「一海」は共に「千余里」とされていますが(朝鮮水道も含めると三つの海峡が全て「千余里」となっている)、実際には九州と壱岐の間の距離に比べかなり壱岐と対馬の間の方が広いように思われ、実距離とはやや異なるようです。(これらの「千余里」は行程日数から逆算した「魏」の使者の判断と思います。)
「瀚海」は(想定によれば)「邪馬壹国」から「魏」(「帯方郡治」)への使者がその帰途「魏」の使者を同行した際に、「魏」の使者に対して説明をした中にあったと見られ、そう考えた場合「瀚海」は「邪馬壹国」という内陸にあった王権に属する人達の命名であり、九州島から見た視点で述べられていると思います。これを「対馬」に住む人達から聞いたとするなら彼らの感覚では「壱岐」との間も「半島」との間もさほど広さに変わりはないわけであり、特に「壱岐」との間だけに「翰海」という命名をする必然性に欠けるといえるでしょう。つまり「壱岐」を含んだ「九州島」側から見た視点での命名と思えるわけです。
たとえば「壱岐」に「一大率」の本拠があったとすると、明らかに「広い」のは「対馬」の方向ですから、彼らが命名したとして不自然ではありませんが、より自然なのは「九州島」の内部にある地域の人達による命名というケースです。彼らにとって「壱岐」から向こう側に広がる海は「広い海」といえるのではないでしょうか。そもそも現代と船の構造や性能が全く異なりますから、私たちが現代の感覚で「海峡」が「広いはずはない」あるいは当時の人がこの海峡を「広いと感じていたはずがない」と考えるのは「単なる思い込み」ではないかと思います。
この「瀚海」については古田氏の見解が定説となっているようです。氏は「瀚海」の「瀚」という字について「広い」という本来の字義では意味が通らないとされ、「さんずい」を取って「翰海」と理解すれば「飛鳥」つまり鳥の飛ぶ様を意味しているとして、「対馬海流」に対する呼称であるとしたのです。しかし上に見たように『倭人伝』では「半島」と「対馬」の間ではなく、「対馬」と「壱岐」の間に「翰海」という命名がされています。この海峡の流速は「対馬海峡」つまり「朝鮮水道」に比べ流速がかなり落ちます。「朝鮮水道」ではなく「対馬」と「壱岐」の間への命名として「翰海」としたというのであれば、この呼称は不適切といえるのではないでしょうか。
そもそも「瀚海」ではなく「翰海」と理解すべきならそう表記するはずであり、「卑弥呼」の場合は「表音」として使用されていますから、「卑」でも「俾」でも良いと言うこと思われ、基本的には「人偏」を取って意味が変わっても問題があるわけではなかったと思われますし、また「渡る」と「度」では既にこの時代で「度」で「渡」として通用していたと言う事情があったものです。もし「瀚海」を「翰海」として理解しようとするなら「翰」という文字が「三国時代」において「瀚」として通用していたと言うことを示す必要があると思われます。
しかし「瀚」と「翰」は全く意味が異なるものであり、「瀚海」が「表音」ではなく「表意」であったと見るなら、「さんずい偏」を取って理解しようとするのは無理だと思われます。
但し「瀚海」の「瀚」は「呉音」が「ガン」のようですから、当時の「魏晋音」が「呉音」に近いとみれば後代の「玄海」の「玄」と近い発音となります。これを偶然ではないと考えるならば(呼称の対象となる海域は「玄海」の方が広いようですが)、そのまま現代に継承されているという可能性が考えられ、その場合「翰海」はそもそも「表音」であったかもしれません。しかしそうであっても「ガン」あるいは「ゲン」という発音を聞いて「瀚」の字を充てたのは「魏」側となりますから、その字面の撰定には意味があったこととなると思われ、やはりこの当時「瀚」と「翰」が通用していたということが証明されない限り「広い」という意味で「魏」側が使用したと理解せざるを得なくなります。
またそう考えた場合「翰海」はあくまでも「倭人」からの聴き取りの結果であることとなりますから、「倭王権」がこの海峡にだけ「名称」をつけていたという推測はますます可能性が高くなることにもなります。
(この項の作成日 2019/01/30、最終更新 2019/02/14)