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『筑後国正税帳』と「水行二十日」


 中村明蔵氏の『鑑真幻影』(南方新社)は興味深い書ですが、中に当方にとって特に興味あることが書かれています。

 中村氏の上記書の中に天平十年の『筑後国正税帳』による記事が書かれています。それによれば「種子島」(多ね)の「僧侶」二人についてその帰路の食料として二十五日分が支給されています。

「得度者還帰本嶋多ね僧貳躯《廿五日》単五拾人食稲貳拾束《人別四把》」(『筑後国正税帳』より)

 他にも同様に「多ね」の人間「二十八人」にその帰国の途中食料として二十五日分を支給した記事が見えるとされますから、この時「太宰府」から「多ね」への帰国は二十五日を必要としていたことが窺えますが、これはそのルートとして「陸路」を想定していないことを示すとされていますが、強く同意します。
 氏も言われるように陸路を行く場合は途中の国「肥後」「薩摩」を経過する際それぞれの国庁から食料が支給されるはずであり、これだけ大量の食料を「筑後」で支給する必要がないはずです。当然途中の「国庁」つまり「肥後」「薩摩」両国の内部を経由しないことの表れと思われる訳です。

 また大伴旅人の歌(「大宰帥」任期中のもの)でも薩摩の「奇岩」の風景を歌っていますが、その内容から「征隼人大将軍」として戦闘地域に赴いた際に水路を利用したという可能性が指摘されています。それは「帥大伴卿遥思芳野離宮作歌一首」という説明が付いた以下のものです。

「隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧<尓> 尚不及家里」(『万葉集巻六「九六〇番歌」』)

 この「隼人乃 湍門」云々は「薩摩」の地名と推定されており、彼が「征隼人将軍」として派遣されていた時点を思い起こして歌ったものと考えられますが、その内容からこの時の遠征軍は「水路」(海路)「薩摩」へと向かったことが推定できます。

 また彼が征隼人将軍として派遣されていた際に朝廷から軍の全員に対し以下の褒賞が為された記事が『続日本紀』にあります。

「(養老四年)秋七月甲寅。賜征西將軍已下至于『抄士』物各有差。」

 この記事中「抄士」とは『大系』の注でも「《手偏+来》抄の士」とされ「船頭」と解釈されています(同じ用語が「唐令」にある)。つまりこの遠征軍が「海路」を使用したことの表れといえるわけです。(但し『大系』の中では「難波津」から「太宰府」までの海路の際に作業した人員と理解しているようですが、それだけではないと思われる訳です)

 『筑後国正税帳』の記事からは「多ね」への往復は全て「水路」に拠ったといえそうですが、それは「多ね」だけのことではなかったと思われ、「多ね」以南の諸島から「太宰府」を目指す場合一般に「遠路」は基本「水行」であったことを示すといえそうです。(筑後川河口まで船を利用し、到着後川を遡上し、その後上陸した後僅かな距離陸上移動して太宰府へ到着するというルート)
 さらに一般論的にいえば「大伴旅人」の例によっても「遠距離移動」の際に最も使用される可能性のあるものは「水行」であり、船による移動であったと考えられるものです。このような事実はたとえば『倭人伝』において「帯方郡治」から「倭」つまり「女王国」へ向かうルートとして当初「水行」している理由と同一であったと思われることを示します。
 つまり時代は異なるものの、遠距離移動の主たるルートは(もし利用できるならば)「水路」であったものであり、できるだけ目的地の近くまで「水路」を利用し、陸上移動を最小限にしようとする意図は共通であったと思われるものです。そのようなルートが選択された理由としては陸上移動の方が時間がかかるからという理由の他、すでに述べたようにより危険でもあったからでしょう。
 古代においては(短距離を除き)拠点間を結ぶ幹線道路のようなものは存在していなかったわけであり、基本的に道路整備が為されていない場合がほとんどですから「けものみち」程度のものしかなかったはずであり(それは『倭人伝』においても「伊都国」の移動中の記事として「行くに前を見ず」という形容がされていることで窺い知れます)、そのような状況が普遍的であるなら、短距離ならともかく遠距離移動に陸路は困難であったと思われ、基本「水行」によっただろうと推測できます。
 ちなみにこの『倭人伝』の末羅国以降の陸路は、「魏使」がいつも通るルートとは思われますが、あえて整備をせず原野のままにしていたように見えます。それは「魏」とは限らないものの「狗奴国」などの侵攻を考慮に入れていたのではないかと思われ、大量の軍兵の派遣を阻止する意図からではなかったかと思われる訳です。(江戸時代の街道が広くなかった理由も同様であったと思われます)

 「投馬国」が「薩摩」とすると、彼らが「邪馬壹国」へ来るような場合でも「魏使」と同様「末羅国」から上陸し内部を「一大率」にガイドされながら「伊都国」を経由した後「邪馬壹国」へというルートが使用されたものと見られます。つまり「諸国」が(「魏」も含め)「邪馬壹国」との通交の際には「伊都国」を経由することが求められていたとすると、後の時代の「多ね」などの人達が利用した「筑後川」を利用するというルートではなく、「末羅国」の港から出港し「壱岐水道」から「平戸」付近を経由して「天草灘」へと行くルートが考えられ、一旦北へ向かうルートであったことが推定でき(それが理由で「以北」の諸国に入っていたわけではないと思いますが)、「最短距離」というわけではなかったものでしょう。そう考えると「太宰府」から「多禰」まで「二十五日」を水行していったと理解できる『正税帳』の記事が注目されます。
 多少航海術や船の構造などが進歩したことを想定しても「投馬国」までの「二十日間」というのが「多ね」までの「二十五日」というものと近似しているのは明らかであり、それほど長大な数字ではないことが理解できます。「多ね」との往復には「筑後川」を利用していますから、かなり距離は短かったと思われる訳ですが、「薩摩」と「多ね」との距離差を考慮すると「投馬国」への「水行二十日」は不自然ではないと見られ、九州島の西海岸沿いを「沿岸航法」により航海したものと見られるものです。


(この項の作成日 2019/05/11、最終更新 2019/05/16)