「投馬国」の位置として「邪馬壹国」の北にあるという主張があります。その根拠としては、「邪馬壹国」の前に「南至る」と有り、それが「郡治」からの方向であるとして、その構文と同一である「投馬国」も同様であるというものです。しかしそもそも『倭人伝』の冒頭は「倭人在帯方東南大海之中」という大方向指示があり、そこには「東南」とありますから「南」が「郡治」からの方向とすると食い違ってしまいます。あくまでも「南」が「郡治」からの方向であるとすると「東南」は「邪馬壹国」の方向ではないこととなりますが、「常識的に考えて」それはいかがなものと思われます。
「倭人」の代表として「邪馬壹国」の「卑弥呼」を「倭王」としたからには、「倭人」のいる方向としてはやはり「邪馬壹国」の方向を示して当然です。そうであれば「南至」という「邪馬壹国」の方向は「郡治」からではないこととなりますが、それは即座に「投馬国」の南」という方向も「郡治」からのものではないということにならざるを得ません。ではどこからなのかというのは、それを示すものが「郡使往來常所駐」という一語が付されている「伊都国」からと考えるのは自然でしょう。
『倭人伝』が単なる「風俗資料」ではないのは当然であり、軍事的意味合いが濃いとすれば自ずと「読み方」があると思われそれを押さえた上での読解が必須と思われます。
仮に「郡治」の「南」に「投馬国」がありそこに「郡治」などから使者が行っていたとすると、「郡より倭に至る行程」を書いたはずの記事中に「投馬国」がないということになります。それは「報告書」として「不体裁」でしょう。「報告書」を作成した「魏使」は、「投馬国」は「倭」への行程上の中に(支線行程であっても)あるとして書いたに違いないのです。そうでなければ「邪馬壹国」への行程上に(不意に)「郡治」からの方向が示された国が出てくることとなり、想定された第一読者としての「皇帝」を初めとした他の多くの読者は混乱することでしょう。
また『倭人伝』の冒頭に出てくる一文として「今使訳通じるところ三十国」というものがありますが、そこに「狗奴国」は入っていないのでしょうか。この「三十国」とは『倭人伝』で示された「国」を示すと考えられますから、「女王国以北」とされる「諸国」及び「女王国」(邪馬壹国)、更に「遠絶」とされる「其の余の傍国」が該当すると見られます。そして「狗奴国」は明らかに「其の余の傍国」に入っていると思われますから、「女王国以北」には「対馬国」以降「投馬国」までが数えられると判断します。「狗邪韓国」は「韓」の領域にありますから、当然のこととして除外されるものであり、「地理風俗」等の情報が記載されるようになる「対馬」以降が「倭王権」の範囲に入ることはほぼ自明です。
「狗奴国」が「使訳通じる」とされる「三十国」に入っていると見る理由の一つはこの「使訳通じる」とされる対象あるいは範囲が「倭人」とされている点です。
『倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。』
この『倭人伝』の表現からは「使訳」が通じている「三十国」について、「邪馬壹国」の支配する領域の中の「国」であると限定することはできないでしょう。そこでは対象としては単に「倭人」といっているだけであり、その意味では「狗奴国」と「魏」との間に「使訳」が通じていなかったと判断することはできません。このことは「狗奴國」と「邪馬壹國」とが戦争状態にあるということと「使訳」が通じているかどうかは別のことと見るべきことを示します。
さらに疑問なのが、そもそも「今」とはいつのことなのかという点です。
つまり問題の一つは「今使訳通じるところ」という「今」についてです。一見すると「邪馬壹国」と「狗奴国」が敵対関係にある時点と考えられるかもしれませんが、そうでないことは「今」の示す「時点」について考えると判明します。
そもそも『三國志』は「陳寿」が「西晋」の史官の時に書いたとされており、その意味で「今」とは「西晋」時点と見ると即断してしまいそうですが(『書紀』の場合でも「今」という表現は『書紀』編纂時点のことと見るのが相当であり、この『三國志』でも同様ではないかと考えられる訳です)、しかし実際に『三國志』内で「今」の例を渉猟すると「地の文」で出てくるものについて明確に時代がわかるものとして例えば「高句麗王」についての記事(『高句麗伝』)があります。そこでは「高句麗王」の「宮」に対して「『今』句麗王宮是也」という表現があり、その彼は「正始六年」に「毋丘儉」により失脚させられています。つまりここに出てくる「今」は「正始六年」かその直後付近と理解できます。
「…伊夷模無子。淫灌奴部、生子名位宮。伊夷模死、立以爲王。今句麗王宮是也。其曽祖名宮、生能開目視。其國人惡之。及長大、果凶虐、數寇鈔、國見殘破。今王生堕地、亦能開目視人。句麗呼相似爲位。似其祖、故名之爲位宮。位宮有力勇、便鞍馬、善獵射。
景初二年、太尉司馬宣王率衆討公孫淵、宮遣主簿大加將數千人助軍。
正始三年、宮寇西安平。其五年、爲幽州刺史毋丘儉所破。語在儉傳。」(高句麗伝)
「正始中、儉以高句驪數侵叛、督諸軍歩騎萬人出玄菟、從諸道討之。句驪王宮將歩騎二萬人、進軍沸流水上、大戰梁口(梁音渇)、宮連破走。儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句驪所都、斬獲首虜以千數。句驪沛者名得來、數諫宮、宮不從其言。得來歎曰:「立見此地將生蓬蒿。」遂不食而死、舉國賢之。儉令諸軍不壞其墓、不伐其樹、得其妻子、皆放遣之。宮單將妻子逃竄。儉引軍還。六年、復征之、宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王?追之、過沃沮千有餘里、至肅慎氏南界、刻石紀功、刊丸都之山、銘不耐之城。諸所誅納八千餘口、論功受賞、侯者百餘人。穿山漑灌、民ョ其利。」(毋丘儉伝)
このことは「西晋」時点だけが「今」とされているわけではないこととなりそうであり、「陳寿」がその記事を構成する際に以前の資料を「そのまま」書いている部分があることが推察できます。その意味で「原資料」の性格を吟味することが必要ですが、いずれにしても『倭人伝』の記事自体が、派遣された「魏使」が皇帝へ提出した「復命書」という一種の帰朝報告書を下敷きにしているとみられるわけです。そしてその「魏使」は「告諭使」として派遣されたものであり、彼らの帰朝時点ではその「告諭使」としての使命が果たされたという可能性が高いと見るのが相当です。
「告諭使」の使命は「邪馬壹国」率いる倭王権とそれに対抗していた「狗奴国」との争いを停止させることであり、いわば「和平工作」であったはずです。そしてこの「告諭使」の活動が成功裏に終わったからこそ、その帰国にあたって「倭女王」を継承した「壹与」によって多大な貢献物が「魏」の皇帝にあてて送られたものであり、それはいわば「感謝のしるし」であったはずです。
また「告諭使」としてやってきた彼らが「黄幢」「檄」などを手渡しただけでその責務を全うしたこととなると考えたとは思えません。彼らには「結果」が求められていたはずです。そうであれば「狗奴国」が「告諭」に応じたかどうかを確認しなければ帰国することはできなかったでしょう。後代の例からは彼ら一行には「告諭使」が正しく「魏」法令に則り「皇帝」から与えられた使命を全うするか確認する係の官吏(監察御史)も同行していたものと思われ、その意味からも結果を出さずに帰国するわけには行かなかったはずです。この点について古田氏が指摘した「海賦」という史料に書かれた文が参考になるでしょう。
「古田氏」は『「海賦」と壁画古墳』(『邪馬壹国の論理』所収)において、『海賦』で述べられている以下の部分について「倭国が狗奴国との交戦によって陥った危急を急告、それに対する中国の天子のすばやい反応によって危難が鎮静された事件」があった事を示すとされ、この「正始八年記事」が該当すると述べておられます。
「若乃偏荒速告,王命急宣。飛駿鼓楫,汎海?山。於是候勁風,?百尺。維長?,挂帆席。望濤遠決,冏然鳥逝。鷸如驚鳧之失侶,倏如六龍之所掣一越三千,不終朝而濟所屆。」(『海賦』より)
ここでは「不終朝而濟所屆。」と書かれており、この「不終朝」という一語が事件の解決に時間がかからなかったことの比喩として書かれていると思われ、それは即座に「告諭使」の責務が全うされたことを示すものです。そうであれば「狗奴国」は「邪馬壹国」との戦闘行為を停止したと見るべきこととなります。
また「狗奴国」にとってもこの「魏」が直接使者を派遣してきたことを決して軽視はしなかったと思われます。なぜならそれ以前に「卑弥呼」が「親魏倭王」と認定されていたからであり、また直前に「韓半島」が「帯方」「楽浪」両郡の前に武力で制圧された例があるからです。
「親魏倭王」という称号を付与された「卑弥呼」が要請すれば「魏」の皇帝はその要請を無視できないこととなりますから、本格介入がありうることとなり、そうわかっていれば「魏使」の「告諭」に対して「狗奴国」としてあえて異を唱え、戦闘停止に応じなかったと見ることは無理があるといえます。
もし「狗奴国」がこのような態度を取り続けた場合、最悪「魏」の軍隊が「帯方」「楽浪」両郡から派遣されてくる可能性があり、それは避けるべき事柄であったはずです。そうであれば「魏使」の「和平工作」は成功したと見るべきですが、その時点以降「狗奴国」は敵対勢力ではなくなっていたと考えられ、「魏」あるいはその後の「西晋」と「使訳」を通じるようになっていたとみて相当です。そうであれば「魏使」の帰国付近である「正始八年」付近を「今」と表現しているとみることができそうですが、それは『高句麗伝』において「今」が「正始六年」に至近となることと矛盾はありません。つまり彼らが帰国し「復命書」を提出した時点付近で「使訳通じるところが三十国あった」ということとなるでしょう。そう考えれば「狗奴国」が「三十国」に入っていたとすることは不自然とはいえないこととなります。
(この項の作成日 2019/03/21、最終更新 2019/09/26)