ところで、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」という文章からは「一大率」が「津」においてその権能を発揮していたことを示しますが、それは当然「魏使」の上陸地点である「末廬国」におけるものと見るべきでしょう。すると「末廬国」に「一大率」(あるいはその「関係者」)が所在していたということが考えられることとなります。そのことと『倭人伝』において「末廬国」だけが「官」について言及されていないことは関係していると思われるものです。その理由としては他の諸国のように「邪馬壹国」から官僚が派遣されていたわけではないことが窺え、この国が「一大率」の支配下にあり、「一大率」により「直轄」が行われていたということが考えられるところです。
正木裕氏はこの「官記載」の欠如について「通過」しただけであったからという理解をしているようですが(※)、それはいかにも不自然と思われます。「魏使」という重要人物の訪問を「政庁」に寄らないで単に通過に留めるというのもまた考えにくいものです。しかもそこには「戸数」が表記されており、後でも述べますが、そのように「戸数」表記があるということはその国の官から戸籍に関する情報の提示を受けたことを示すものと思われ、それは「魏使」が政庁に赴いた蓋然性が高いことを示すものです。
『倭人伝』にも「常治伊都國 於國中有如刺史」とあり、さらに「世有王、皆統屬女王國」とされるように「伊都国王」の実権はほぼ「邪馬壹国」に握られていたようです。また「一大率」はその「邪馬壹国」が派遣している人物であり組織ですから、「伊都国」には通常の官僚はおらずすべて「一大率」という軍事関係者で占められていたという可能性が高いと思われます。そうであれば「官名」が書かれずとも不自然ではありません。つまり表記された「戸数」は「一大率」の関係者から提示を受けたものであると見られるわけです。
既に述べたように「一大率」が最も防衛すべきものは「首都」であり「邪馬壹国」ですが、それが所在する場所に最も至近の港は「末廬国」にはありません。「首都」である「邪馬壹国」は「博多湾」の内奥にあったと見られますから、「一大率」の本拠も当然「末廬国」にはないこととなります。そう考えると「末廬国」には正式な外交使節の対応を行うべき「外交官」的人物が配されていたものの、いわば「出先」としての機能でしかなかったこととなるでしょう。つまり「一大率」は「博多湾」において首都防衛のための軍事力配備を主として行うとともに、「末廬国」の「津」で外交使節の受け入れと送り出しという業務を従たるものとして行っていたものと考えられるわけです。
この「皆臨津搜露」の「津」が「末廬国」の「津」であると考えるのは当然ですが、上に見たように「郡使」の常に「駐」(とどまる)ところとされる「一大率」の本拠地が「博多湾」に面しているとして、そこが「首都」防衛に適した拠点であるとすると、後の大津城などがそうであったように、現代の平和台付近を想定すべきと見られますから、『倭人伝』の「末盧國…東南陸行五百里、到伊都國」という記事を「逆算」して、平和台付近から「五百里」(これを約四十キロメートル程度と見る)「西」の方角へ移動すると(唐津街道を使用したとして)「唐津城」の手前までで四十キロメートルをやや越えるぐらいになり、それ以上遠くへは届かないと思われます。そう考えると、「魏使」が入港した地点は唐津半島先端の「呼子」付近とはいえないこととなる思われることとなります。
またこの「呼子」付近を「末廬国」と想定する考え方は『倭人伝』内で「一大国」から千里とされた里程からみると少し近すぎるという点も疑問とするところです。その意味でも「唐津」付近の方が整合すると思われます。
この「唐津」には「松浦左用姫」の伝承で名高い「鏡山」があり、この「鏡山」はその伝承が示すように「唐津湾」を遠くまで一望できる要所ですから、ここに「一大率」の出先が陣を張っていたという可能性が高いものと推測できます。その「松浦左用姫」の伝承は「五世紀」のものとされますが、その中で「大伴狭手彦」がこの「唐津」から半島へと向かったとされているのも、この地が以前から「一大率」の出先としての軍事的拠点でありまた外国との使者の往復に使用される港であった過去を反映しているという可能性もあるでしょう。
そもそも正木氏も云うように「行程」の里数はその国の「政庁」的中枢の施設までのものであるはずですが、水行の場合は「港」までを指すものと思われ、そう考えると「末廬国」のように「水行」から「陸行」に変る地点においては、到着した「港」と「政庁」とが同一地点にあったと考える必要はなく、また実態としてもそれらが離れているとして考えて不自然ではないわけであり、「政庁」まで若干の距離があったと見ることもできるでしょう。その意味で入港は「現唐津城付近」と思われるものの、「一大率」の出先機関が「鏡山」という軍事的要衝を押さえていたのは当然であることから、そこは「政庁」的役割をしていた可能性が考えられ、「魏使」はこの「鏡山」付近に至ったという可能性が考えられます。これについてはすでに「末廬国」の官名が『倭人伝』内に書かれていない理由として「一大率」が「末廬国」を直轄していたということをその理由として考えられることを述べたわけですが、そうであるならば「一大率」の出先と「末廬国」の中枢が一致していると考えるのは当然でもあり、「鏡山」に「末廬国」の中枢としての「政庁」的建物がありそこに魏使が引率されたと見て不自然ではないと思われます。
このことに関連して、中村通敏氏は氏の著書(『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』海鳥社二〇一四年)で、「末廬国」〜「伊都国」間として「西唐津」から「今宿」までのJR筑肥線の距離を粁程表から約四十キロメートルと見出し、「伊都国」の中心を「怡土平野」の東端とされましたが、これは「上陸」地点と「伊都国」への出発地点を同じ場所ということを既定の前提としているようであり、上に見たようにその出発地点としては「鏡山」付近を措定するとした場合、JR筑肥線の粁程表をみるのであれば「虹ノ松原駅」からの距離を見るべきと思われ、「伊都国」の政庁位置としてはより東側へ移動することとなります。つまり、JR筑肥線の「虹ノ松原」からは「姪浜」までで39kmとなり、さらにそれに接続する福岡市営空港線の「姪浜」−「大濠公園」間が5.4kmと算出されますから、合計で44.4kmとなります。これは「五百里」という距離表示が「正木氏」のいうように「日数」あるいは「刻数」からの換算であることを考えると、実距離としては大きな誤差ではないと判断できるでしょう。いずれにしても「博多湾」に面した地点まで「伊都国政庁」の想定地点は伸びることとなると思われます。つまり「末廬国」の「津」から「政庁」所在地としての「鏡山」までの距離は『倭人伝』には記載されていないものと見られ、それを除いて距離を見る必要があると思われるわけです。
(※)正木裕「「末盧国・奴国・邪馬壹国」と「委奴国」−なぜ『倭人伝』に末盧国の官名がないのか−」(『古田史学会報)一二〇号二〇一四年二月十日)
(この項の作成日 2014/09/06、最終更新 2015/06/15)