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「東南陸行五百里至伊都国」の謎


 「末廬国」の「政庁」所在地を「鏡山」付近と見たわけですが、ただし従来私見としていた「博多湾岸」に「一大率」の本拠としての「伊都国」があるという想定では「東南五百里至伊都国」という表記の「東南」という方向指示と整合しなくなります。すでに行った解析による「伊都国」が「伊都平野」にある、あるいは「博多湾」に面しているといういずれの理解においても、明らかに「終点」への「大方向」としても「始発時点」の方向とし「東南」ではなく、どちらも「東」あるいは「東北」といった方が適切なこととなります。
 以前はこの「東南」という方向指示が「錯誤」ではないかとしたわけですが、「伊都国」およびそこを基点として書かれている諸国についても「博多湾岸」である必要性は少ないと考えるようになりました。結局、現時点の理解としてはやはり「陳寿」の記述を尊重するのが正しいと思われ、以前の考え方を改めることとします。

 以前指摘したようにこの「方向指示」については、それを「始発方向」であるという「古田氏」の理解とは異なる考え方を披露させていただいていたわけですが、それは現時点も変わりありません。この『倭人伝』の記載の原資料として有力視されるものは「卑弥呼」への「金印他」を仮授するために派遣された「建忠校尉梯儁等」による「復命書」と、さらにその後「狗奴国」との争いについて「告諭」のために訪れた「塞曹掾史張政等」がもたらした報告書も原資料の中で大きなウェイトを占めていただろうと思われ、それはたとえば「告諭」に対して「邪馬壹国」率いる「諸国」や「狗奴国」が仮に従わなかった場合、「魏」としては本格的な軍事介入をしなければならない可能性もあり、そう考えると「復命書」は「軍事的」な情報という側面を必ず持っていたものと思われるからです。そうであれば「始発方向」にどれほどの軍事的価値があるといえるのでしょうか。それよりも重要なことは「大方向」であり、そこに至るまでの日数と道のり距離であって、その途中に横たわる障害の有無などです。つまり、川や谷あるいは山や峠の情報は必須であったと思われると同時に「大方向」つまり目的地の出発地から見た方向と日数あるいは距離がそこに明確に読み取れなければ「軍事的情報」の価値は著しく減少するものであり、「復命書」の目的を果たしているとはいえないこととなります。たとえば「唐津」からの行程は古田氏が言うような「一本道」ではありません。複数の方向へ進むことが可能であり、しかもその「分岐点」は一個所ではありません。つまり「伊都国」(その中心拠点が博多湾岸にあるとした場合)へ海岸沿いに進むためには、もし「唐津港」付近に上陸したとして出発地点もその付近を措定すると、そこから東南に行くとまず松浦川沿いに南下するルートとの分岐点があり、それを越えて東に行くと今度は「玉島川」に沿って「東南」方向へ行くルートとの分岐の場所が存在します。このルートが魏使の通った路であるという理解もあるぐらいですから、このように分岐点を複数通過することを考えると、「東南」の一語で進行方向を指示することにはほとんど意味がないこととなってしまいます。そうであればこの「東南」とは始発方向を示すものではないと考えるべきこととなるでしょう。それはたとえば「倭」の所在する場所として『倭人伝』冒頭に「帯方の東南大海の中にある」という言い方にも現れていると思えます。ここで「東南」とされているのは決して「始発方向」ではなく「倭」の位置についての「大方向」表示であり、このような「大方向」表記が『倭人伝』の各々の区間表記としても有効であったと見るべきであって、「伊都国」の場所についての「東南五百里」というものも「大方向」表記ではなかったかと見られることとなります。
 しかし「末廬国」から「伊都国」へと向かう場合、これが「伊都平野」や「博多湾」を目指すものとすると、行程のほとんど全ての区間において「東北方向」へと進行することとなってしまいます。このような状況下で「東南」と書いてそれで「軍事的情報」として有効であるとはとてもいえないでしょう。このことから現時点では、この「東南」という大方向指示は「正しく」、「博多湾岸」に「伊都国」の本拠があるとする理解の方に問題があるということに現時点でやっと到達できたものです。
 報告書に目を通した「皇帝」あるいは「鴻廬」など側近達が「伊都国」の位置について不正確な情報に惑われたと見るのは明らかに不審であり、そのような「不出来」な報告書が作られたと見るのは「恣意的」な推定でした。

 以上のように考えると「末廬国」から「大方向」として「東南」に実際に進むとすると「松浦川」沿いに進行するのが最も考えられるわけであり、このルートでは筑後方面(吉野ヶ里方面)へと出ることとなります。具体的な場所は不明ですが、現在の「佐賀城」あるいは「吉野ヶ里」付近がそうであるのかもしれません。ここに「伊都国」があり「一大率」がいたと想定することも十分可能と思われるわけです。ただしその場合でも「一大率」は重要港湾であった「博多湾」の防衛も併せて担っていたと見るべきでしょう。「有明海」に面する付近に「伊都国」があり、さらに「博多湾」の防衛を担っていたとすると「伊都国」の領域は相当広大なものとなりそうですが、そう見るより「博多湾岸」にも「末盧国」のごとく「一大率」の「出先機関」があったと見ればそれほど不合理な話ではないと思われます。「末盧国」には国内諸国ゃ国外の艦船の出入りがあり、「博多湾」には(有明海に面した場所にも)「一大率」を含めた「耶麻壱国」の「倭王」率いる「艦船」がいたとみればそれほど無理はありません。そう考えるのは『倭人伝』の記事で「斯馬国」が遠絶とされていることです。

「…自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、…」

 この「斯馬國」が現在の「糸島半島」付近にあったとするのは衆目の一致するところですが、この場所は想定されている「末盧国」からの移動ルートに非常に接近しています。にも関わらず「遠絶」とされていることは、そもそも「魏使」達はこのルートを使用しなかった可能性が高いと思われるものです。
 ただしこう考えた場合「伊都国」を基点としてその位置と方角が書かれている他の国の位置推定にも影響を与えます。

東南至奴國百里。官曰〓馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳〓。可七萬餘戸。

 これらの国も「筑後」周辺にその位置を求めることとなるでしょう。またこう考えると「南至投馬国水行二十日」という記述がにわかに自然に思えてきます。つまり「有明海」に直接面した場所に「伊都国」の主たる領域があったとすると、「投馬国」への基点としてこれほど適切な場所はないと思えるからです。

(※)正木裕「「末盧国・奴国・邪馬壹国」と「委奴国」−なぜ『倭人伝』に末盧国の官名がないのか−」(『古田史学会報)一二〇号二〇一四年二月十日)


(この項の作成日 2014/09/06、最終更新 2020/09/27)