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「卑弥呼」の統治範囲について


 ところで『倭人伝』では「邪馬壹国」の戸数として「七万戸」としていますが、『続日本紀』に現れる「庚午年籍」記事(以下のもの)から推定した「九州諸国」の戸数として「三万八千五百戸」ほどという数字とかなり差があり、約2倍ほどとなっています。

「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳提。可七萬餘戸。」『倭人伝』

「(神龜)四年(七二七年)…
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」『続日本紀』

(「庚午年籍」は「一里一巻」で構成されており、また「庚午年籍」が編纂された時点は「一里五十戸制」であったわけですから「七百七十巻」とは「三万八千五百戸」を意味すると思われます。)

 『倭人伝』当時とその後の七世紀半ばで大きく戸数が異なるわけですが、(邪馬壹国の)戸数を過大としないならば、その領域として(「薩摩」「大隅」が「投馬国」であるとすると)九州島に納まらないものとみられ、中国地方あるいは四国の一部がその中にあったのではないかと推定せざるを得なくなります。しかしそれは少々疑問ではないでしょうか。それでは当時の「クニ」領域として広大に過ぎるものであり、この領域内統治だけでも負担になるように思えます。
 海峡などは「自然国境」として機能していたはずであり、「九州島」の中に収まらないというのは明らかに不自然です。その意味では「七万戸」あるいは「投馬国」の「五万余戸」というのは不自然さが感じられ、魏使に対して「過大」に報告したという可能性が考えられるでしょう。その意味で戸数の前に「可」という文字が使用されているのが気になります。この「可」には色々意味があり、多くは「可能」の意味ですが、「推測」の意味もあるようです。その意味ではこの「七万餘」という戸数も推測によるという可能性もあるかもしれませんが、「戸数」が表示されていることと矛盾するようにも思えます。

 『東夷伝』中には広さなどを表記する場合に多く「可」が使用されており、これはその数字が推測による以外に入手の方法がないという実態が表されているようです。現在のように正確な測量などができていたという訳ではない訳であり、数字が推測の下のものであり、誤差を含んでいるのは当然であったと思われます。

「夫餘在長城之北、去玄菟千里、…方可二千里。」『夫餘伝』

「高句麗在遼東之東千里。南與朝鮮、…、方可二千里、戸三萬。」『高句麗伝』

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。…、可千里、…」『東沃沮伝』

「韓在帶方之南。…、方可四千里。」『韓伝』

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。…千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。」『倭人伝』

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。」「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」『倭人伝』

 また『倭人伝』だけに「戸数」に対し「可」の字が使用されています。

「南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。」『倭人伝』

「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。 」『倭人伝』

時代は下りますが『隋書俀国伝』においても「戸数」に「可」が使用されています。

「開皇二十年…戸可十萬。」『隋書俀国伝』

 後でも述べますが、これらの「可」という数字は「概数」と「推測」を表すものではありますが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見ることができそうです。そうであれば「魏使」に対して提示した数字そのものに何らかの修正を施していたものとみることは可能かもしれません。それに対し最後に示した『隋書俀国伝』においても同様に「戸数」表示に「可」の字が使用されていますが、それ以前に「伊尼翼」と「軍尼」について記述があり、そこからの計算値とこの「戸可十萬」という値とが整合していますから、実態と大きく異なる数字を提示したわけではなかったものと推測されます。

 以上から「卑弥呼」の官吏は「魏使」に対して「邪馬壹国」と「投馬国」の両国の戸数について「誇大」な数字を提示した可能性があります。これは「戸」を開示しなかった国もあることと同様の性質の対応であり、「魏使」に対する一定の警戒を示すものといえそうです。特に「都」するところの「規模」を大きくいうことで「卑弥呼」の権威が強いことを表現し、それによって「魏使」に対し「邪馬壹国」という「クニ」が統治の中心としてふさわしいことをアピールしようとしたのかもしれません。それは「伊都国」「奴国」というそれ以前に「中国」と通交のあった「クニ」とはその規模が異なる事を示すことで、現在の「倭」の中心が「邪馬壹国」にあることを強調しようとしたということが考えられます。
 実際その「七万余戸」という戸数規模は「東夷伝中最大」であり、他に例を見ないものです。それは他の「クニ」に直接統治のためとして「官吏」を派遣していたという統治体制の中身と相まって、中央集権的権力が「邪馬壹国」を中心として実現しているということを主張するものであったと思われるものです。
 もしこれが「誇大」であったとすると実体としての戸数はどれほどであったでしょうか。それは『庚午年籍』の戸数から推定できる「四万戸弱」という数字が実数に近いことを示唆しています。つまり実際には「七万余戸」ではなくその半分程度ではなかったでしょうか。さらにいえば「投馬国」の「五万余戸」についても同様であり、半分程度と思われますが、その領域として同じ九州島の中ではあるものの後の「隼人」の領域が想定でき、それであれば『庚午年籍』の範囲からはずれていた可能性が高いものと思われ、この地域が三世紀以降「倭」が東方へと進出する間にいわば「忘れられた領域」となっていった可能性があると思われます。


(この項の作成日 2018/02/03、最終更新 2018/02/24)