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「二倍年暦」について(3) 寿考とは


 『魏志倭人伝』の中には「寿考」についての記事があります。

「…其人壽考、或百年、或八九十年。…」

 この「寿」というのが「平均寿命」なのか「最長年齢」が問題となるときがあります。私見によればこれは「寿」という言葉が示すように「長生き」を示す言葉であり、平均寿命ではないことは明らかです。あくまでも中には百歳や九十歳まで生きるものもいるということであり、それは現代とほぼ変わらないことであったと思われます。現代と異なるのはその「数」であり「割合」です。
 すでに述べたように平均寿命は長い間非常に短かったわけであり、それが延びたのは近代以降の話であったわけです。それはもっぱら「栄養」と「衛生」の向上によるものであったわけですが、そのような中でも中には長寿の人もいたわけです。『魏志倭人伝』が触れているのもそのような『長寿』の人に対する情報であったと見るべきでしょう。

 ところで、動物によらず鼓動の回数には上限があるとされ、それがいわゆる「寿命」であるとされています。(本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』中公新書1994年)それによれば通常人間の(というより全ての動物の)鼓動回数の上限は「20億回」とされ、脈拍数として毎分60〜70回とすると約50-60年程度で到達してしまいます。これが原初的な人間の寿命であると思われるわけですが、実際にはそれを上回る寿命となっています。その理由として大きいのはもちろん、「衛生状態」「栄養状態」「社会的救済」「薬」などの発展と充実が関係しているでしょう。これについてよく聞くのは「盲腸」(虫垂炎)や「破傷風」というような病気が寿命を決定づける大きな要因ではなかったかということです。
 例えば「抜歯」の風習は「破傷風」に対するものという説もあります。この病気は「地下」の浅い場所にいる「破傷風菌」によって傷口などから感染するもので、「足」などに傷がありまた「わらじ」などの粗雑な履き物しかない場合に罹患する可能性が高いものです。
 感染すると高熱が出て「筋肉の緊張」が起こり、口が開かなくなります。その場合でも流動食的なものが「抜歯」した歯の隙間から飲み込むことができるように先人が経験則的に工夫したものとする説もあるようなのです。このように対策らしきものが建てられているとすると、このような病気は人の一生の内に罹る率が高いことを示し、それによって人の「寿命」が決定づけられていたともいえるでしょう。しかしそのようなものに罹らなかったとすると、「栄養状態」などによって「寿命」の長短が決まったということもまた確かと思われます。
 
 縄文時代においては「栄養価」の高いものを日常的に摂取することはかなり困難であったのではないかと思います。もちろん「水産物」や「動植物」による栄養確保はそこそこできていたとは思われますが、やはり「米」を食べるという方法による「日常」的栄養確保法はドラスティックなものであり、一気に「栄養状態」の改善が成されたと見られます。
 当時すでに「クリ」などを「栽培」し、それを栄養価向上の一策にしていたようであり、そのような工夫は相当程度成功していたようですが、気候変動が起きると主食であったであろう山野における収穫物が減少し、その穴埋めがかなり困難となったものと見られます。そのタイミングで「稲作」が導入されたわけであり、「米」を摂取することによる「エネルギー」と「栄養価」(ビタミンなど)の確保が可能となったことは画期的であり、その意味で「縄文」から「弥生」は単なる「稲作」がの有無というだけではなく、生活全体の革命をもたらしたものであり、それは「寿命」にも大きく影響したことは間違いないものと思います。(米にはタンパク質も含まれており、肉や魚などの摂取が必須ではないことも重要です)
 その結果前述したような病気に遭わず、不測の事故もなければ、「稲作」によって基本的な栄養状態が確保され、また老衰等により動けなくなっても家族や村落全体からの助けによって食事ができていれば、そこそこ長生きしたのではないでしょうか。その意味ではいわゆる「寿命」は「縄文」から「弥生」に至ってかなり延長されたとみるべきでしょう。

 上記のように「鼓動数」から計算される「寿命」は人間にはそのまま適用できないわけですが、その大きな要因が「時代の転換」に関係しているとすれば、「弥生」の始まりと共に「実質的」に寿命が延びたという可能性が考えられ、そうであれば『倭人伝』がいう「其人壽考、或百年、或八九十年。」という数字は誇大な数字であるとか「二倍年暦」によるものではないと見るべきこととなります。しかも当時「戸籍」があったと見れば(しかもその「戸籍」に「年齢」が書かれていたとすると)、「九十歳」「百歳」が実数であるという可能性は低くないと思われます。
 古田氏も言うように「戸数」が書かれているのは「戸籍」の存在を前提として考えるべきであり、しかもその「戸籍」の型式等はほぼ「漢魏」の「戸籍」と同じ様なものであったと見るべきです。(そうでなければ「戸」ではなく「家」で全て書かれたはずと思われる)その場合「年齢」は「必須」のはずです。

 中国では「秦」の時代までは「身長」で「賦課」を決めていたようですが「漢」になってからは「年齢」が基準となったもののようです。(これは太陰太陽暦の発展によるものでしょう)そうであれば「倭」においても「漢制」に則っていたという可能性が最も高いのではないでしょうか。
 一般に「二倍年暦」の証拠とされる「其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」という文は、「裴松之」によって『魏略』より引用されたものでそれは「俗」のものとされており、「倭」あるいは「邪馬壹国」という公的な立場からのものではなかったものです。つまり「暦」に関しては国内に二種類が存在していたものであり、この「寿考」については「公的」なものと考えるべきではないかということです。


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2018/04/11)