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「女王国」の「領域」


 『魏志倭人伝』は「自郡至女王國萬二千餘里」とありますから、「帯方郡」の「郡治」が置かれた場所から「女王国」までの総距離が「萬二千餘里」であることが明記されています。この里単位が「漢代」のものであったとすると、総距離として「5500km」という数字が出ます。これを地図に落とすと前述したように「インドネシア」まで届くほどの遠距離となります。この数字が意味するものは既に述べたように当然「漢」の長里ではないこととなりますが、といってこの「里」が「短里」であるとすると近畿には到底届かないことになります。つまりこの里単位によれば「倭」(その中心的な国の邪馬壹国)が九州島(しかも北部九州)にあったことは明白であるわけです。
 また、對馬、壱岐にくるときには、「海を渡る」意味の文がありますが、それ以降にはまったく存在しないので、この意味からも九州島を離れて「渡海」して他の地域には行っていないと考えられます。(九州の他の場所に船で行くときは単に「水行」という表現を用いる)
 また「倭地温暖」とか「冬夏食生菜」であるとか「倭人皆徒跣(裸足)」という表現などやその他「黥面文身」などの倭人の習俗を記した文章から考えても、「倭」は「南方」の雰囲気が強いといえるでしょう。(ただし、「魏」の都「洛陽」や帯方郡都に比べると、という意味ではありますが)
 これらのことは「九州島」の中に(特に北部)「倭」の中心があったと考えざるを得ないことを意味します。

 ところで、『倭人伝』の記載から「女王国」より「北」にある各国については、その詳細が「略載」できるとされていて、そこ(女王国)までは「魏使」が訪れた事を示すものの、「伊都国」の説明の中に「『魏使』が常に駐まるところ」とされていることを挙げて、そこ以上には「行かなかった」という意味と理解する向きもあります。
 しかし「駐」の本義としては「馬」や「車」をある程度長い時間止めることを指すものであり、移動してきた「魏使」はそこで「行程」(多分徒歩と思われます)を休め、休息をとり、食糧を確保するなどの支援を受けたものと思われ、そこから先には行かなかったということはこの「駐」という語からは窺えません。

(その余の傍国について)
「…自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。…」

 この文脈からは「斯馬國」以降に書かれたこれら「女王国」の「向こう側」の「諸国」については「遠絶」であるため、容易には行くことができないため詳細が分からないとしているのです。このことから「国名」だけが書かれている「二十一国」については、そこに書かれた記事内容については(実際には行けなかったとするのですから)「倭人」からの「伝聞」であると理解できます。さらにこれらは「女王国」の至近の国、少なくとも「魏使」が足を伸ばせば簡単に行けるような場所ではないこととなるでしょう。
 また『倭人伝』の記載から考えると、「邪馬壹国」までのクニ数と「遠絶」であるとされるクニ数とがかなりアンバランスであることが分かります。
 「邪馬壹国」までのクニ数として『倭人伝』には「七国」しか書かれておらず、(ただし、投馬国を含む)それに対し「より遠方にある」と推定される「其餘旁國」は「二十一国」あるわけですから、「邪馬壹国」の位置として「列島」の中ではかなり(多分「西」に)偏っていることが推定されます。
 そう考えると、「伊都国」に派遣、常駐していると書かれている「一大率」が「倭人伝中」ではその「検察対象」が「以北」地域であるように書かれていることが注目されます。

「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」

 上でみたように「女王国より以北」には余り多くの国がないことが推定され、「狗邪韓國」以降「伊都国」まで、およびその周辺各国が想定されている地域と考えられることとなります。そう考えると「一大率」にとっての「外敵」というのは海から侵入してくる勢力であり、そのような「外敵」に対応するというのが、この「一大率」の目的の最大のものであったと考えざるを得ないものです。
 そもそもこの「一大率」の「大率」は「将軍」あるいは「指導者」のような形容として使用されているケースが多く、「個人」を対象とした呼称ではあると思われます。それは「卑弥呼」が派遣した「難升米」達に「魏」が「銀印青綬」を与えた際に彼らに「率善中郎将」等の称号(官職)を与えたという中にも現れており、そこにも「率」という文字が使用されていることとの関連が注目されます。このことは「率」にはやはり「軍」を「率いる」という意があることを示し、この「一大率」も同様に「軍」を率いていたことが推測され、文字通り「将軍」というような役割があったことを示します。
 さらにもし「一大率」という存在に実効的軍事力が伴っていないとすると「防衛」という成果を上げ得るとは思えませんから、当然「一大率」のいるところには彼の配下として「軍事力」があったと考えざるを得ません。つまり「伊都国」にはかなりの軍事力が集結していたと考えられることとなります。
 しかし、これはある意味大変不思議です。なぜなら、「邪馬壹国」の最大の敵は『倭人伝』によれば「狗奴国」であり、それは「邪馬壹国」の支配の範囲の向こう側にあると考えられるものですから、「南」あるいは「東」に存在しているのではないかと考えられ、少なくとも「北側」ではないと思われるからです。にも関わらず「南」や「東」には「防衛線」が構築されているように見えません。これについては「狗奴国」側は「日本海」ないしは「瀬戸内海」を「船」で「西下」し、博多湾から直接攻撃していた(しようとしていた)のかも知れません。

 当時は「官道」はもちろん整備されていなかったと見られますから「陸上」から侵攻するとしても大軍を送ることはできなかったものと見られ、それよりは「船」を使用した「水軍」が主戦部隊であったと思われます。これに対応するべく「一大率」が控えていたと見るべきでしょう。(その意味ではこの「一大率」の主力も水軍であった事が示唆されます)それは「博多湾」が最も「邪馬壹国」に至近の「湾」であり、そのため「一大率」は当然「海岸線」(それも「博多湾岸」)に水軍と共に監視と上陸阻止のために「城」を構えていなければならなかったはずと思われ、「一大率」が常治していたという「伊都国」はこの「博多湾岸」にその領域の一部があったか、あるいはその「出先」が設置されていたかと見るべきと思われるのです。そしてそれはその後「大津城」と呼称されて後々まで残っていたものではないでしょうか。
 博多湾の水深が深くなく、大型の外洋船などは進入できなかっただろうという論もありますが、「狗奴国」などの国内で使用されていた船はそれほど大型であったとは思われず、博多湾奥深くまで進入可能であったと思われ、これを阻止するための防衛線が博多湾にあったとみるのが相当と思われます。
 
 
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2020/11/28)