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「邪馬壹国」の音価(発音)について


 すでにみたように「里単位」として「短里」(一里がほぼ80メートル程度)が使用されていたと思われ、そう考えた場合「北部九州」にしか「邪馬壹国」(およびその周辺の諸国)の位置として考えられないということとなったわけですが、それは『魏志倭人伝』の「音価」の研究からも言えるとされます。

 『三国志魏志倭人伝』に使われている漢字と正倉院文書に残る筑紫の地域の戸籍に使用されている漢字の「音価」の比較から、『倭人伝』に使われている倭国関係の人名などの音が筑紫地域のものに近い、という研究が出ています。(※1)
 この研究を行った長田夏樹氏によると「音韻体系」の比較材料として「美濃戸籍」「筑紫戸籍」及び『書紀』の歌謡に使用されている名詞の使用例を選び、検討した結果、その音韻体系は各々異なるものであり、端的に音韻の対立を示すことが可能な「サ行」において比較すると、「記紀歌謡」では(これは当時の中央語と思われる)「ts方言」とも言うべき音価なのですが、筑紫では「s方言」というべきものになり、明確に差がみとめられるとされています。(「美濃」もほぼ「記紀歌謡」と同様)
 この研究は重要な意味を持っていると思われましたが、使用した方法論は当時は正当と思われたものの、後に『書記』の「述作者」として「唐人」の参画が措定されることとなった結果、「記紀歌謡」少なくとも『書紀』の歌謡は「唐人」による「唐代北方音」を描写していることが推定されることとなり、「歌謡」についての考察は再検討が要求されることとなっています。そのため「記紀歌謡」を除き「筑紫戸籍」と『倭人伝』の比較ということとなってしまいますが、この両者はいずれも「s方言」であることが確認されています。つまり『倭人伝』に使用されている漢字からの考察では「倭国」内では「s方言」であることとなり、これは「筑紫戸籍」の状況と同じであることとなるわけです。(端的に言うと「さしすせそ」が「しゃししゅしぇしよ」に近い発音になるということ)
 これは現在でも「福岡」など「北部九州」の発音の特徴として残っており、2000年前からあまり変化していないように思われます。

 そもそも音韻としてはよほど大量の移民などの流入がなければ「s方言」から「ts方言」に変化することは非常に少ない可能性しかないといわれており(逆の変化であればありうるとされる)、『倭人伝』に記録された音価を強く保存しているのが「筑紫」地方であるというのは非常に示唆的です。
 また「記紀歌謡」についてはその多くが「唐人」により耳で聞いてそれを文字に写したものとされますので、いわば「唐代北方音」風にバイアスがかかっている可能性が強いわけですが、それを考えに入れても、ほぼ七〜八世紀の中央官人の発音にかなり近いことは確かといえるでしょう。そうであれば『倭人伝』の発音と「記紀歌謡」の発音は「近くない」といえ、三世紀に畿内が倭国の中心だったという可能性は非常に少ないということとなります。

 また彼はその研究の中で「末『廬』」「奴」について『韻鏡』では同じ「ag」音系に属するとし、「まつら」「な」と発音するとされていますが、彼がその推定に使用した「仏教」の「経典」(『仏説十八泥犂経』)は「訳者」が中国人ではなかった可能性が指摘されており(※2)、その訳語は標準音から離れている可能性があるため、信頼性が低いことが指摘されています。その意味では現在「まつ『ら』」や「し『ら』ぎ」と発音するのは、何らかの理由による特殊な音韻変化がこの地域(対馬海峡を挟んだ両岸地域)に起きていたという可能性が考えられ、更に検討を要する問題といえます。


(※1)長田夏樹『邪馬台国の言語』(學生社一九七九年)

(※2)『仏説十八泥犂経』の問題のみ指摘しておく。この漢訳仏典は宇井伯寿『訳経史研究』(岩波書店,1971 年)446 頁が安世高に仮託された訳経の一つとして取り上げているように、安世高訳でない可能性がある。また、一般の安世高訳や同時期の支婁迦讖訳において模韻字が基本的にインド語のo に対応することから見ても(Coblin. W. S , A Handbook of Eastern Han Sound Glosses, The Chinese University Press, 1983, 103 頁)、『仏説十八泥犂経』の音訳は特異であるため、この漢訳仏典を後漢〜魏晋期の言語資料として扱えるかどうかは検討を要する
(橋本貴子)


(この項の作成日 2012/12/17、最終更新 2018/02/06)