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『倭人伝』の行路記事と「短里」(二)


 (ここまで書いたところで「古田史学会報一二一号」の正木氏の論を見ました。それによれば水行の場合一日五百里であるとして對馬海峡横断に要する日数を各二日間とっているようです。その分朝鮮半島の西岸の水行部分を削ったようですが、おおよそは私見と同様のようであり、得心のいくものでした。ただし、「一刻百里」というのはこの当時「一日百辰刻法」であったと見られることと矛盾すると思われます。

「…日短,星昴,以正中冬。【集解】孔安國曰:「日短,冬至之日也。昴,白虎之中星。亦以七星並見,以正冬節也。」、馬融、王肅謂日短晝漏四十刻 。鄭玄曰四十五刻,失之。」(「『史記』五帝本紀第一/帝堯」より)

 ここに註を施している「馬融」は後漢の人物です。また「王肅」は三国時代の人であり、ちょうど卑弥呼と同時代を生きた人物です。彼らの言葉によればこの時代の「冬至」の昼の長さは四十刻であったとされます。
 
「三月,行幸河東,祠后土。詔曰:「往者匈奴數為邊寇,百姓被其害。朕承至尊,未能綏定匈奴。?閭權渠單于請求和親,病死。右賢王屠耆堂代立。骨肉大臣立?閭權渠單于子為呼韓邪單于,?殺屠耆堂。諸王並自立,分為五單于,更相攻?,死者以萬數,畜?大耗什八九,人民飢餓,相燔燒以求食, 因大乖亂。單于閼氏 子孫昆弟及呼?累單于、名王、右伊秩?、且渠、當?以下 將?五萬餘人來降歸義。單于稱臣,使弟奉珍朝賀正月,北邊晏然,靡有兵革之事。朕飭躬齊戒,郊上帝,祠后土,神光並見,或興于谷,燭燿齊宮,十有餘刻 。師古曰:「燭亦照也。刻者,以漏言時也。」」(「『漢書』本紀/第八/五鳳三年」より)

 ここでは「匈奴」が帰順したことを感謝するために「郊外」で上帝に対し祭天の儀を行ったところ、「神光」が見え、それが「十有餘刻」つづいたというわけです。これを正木氏が言うように当時の一日が十二辰刻であったとすると、その経過時間はほぼ丸一日ということとなりますが、その間郊外で祭天の儀を行っていたとすると、余りに長時間に過ぎるでしょう。これらのことはこの「魏」の時代の直前の「後漢」の時代には「百辰刻」で「漏刻」による時刻測定が行われていたことを示すものです。そう考えると「一刻百里」ではなく「十刻百里」ではなかったでしょうか。この場合「一刻」はおおよそ十五分弱と思われますから、十刻で約二時間三十分ほどとなり、百里つまり8km程度の距離であれば(通常歩く速度は時速3km程度とされますから)およそ整合するといえます。ただし、この「陸行」のさなかにどのように「刻数」を計ったのかという問題は残ります。固定した施設であれば「漏刻」で測定しているわけですが、移動中とあればそれも適いません。「線香」や「火縄」のように一定の速度で燃焼するものを利用したという可能性もあります。あるいは「日時計」のようなもので太陽の角度などを測定したと言う事も考えられますが、はっきりしません。今後の検討課題です。

 また、「末廬国」を「佐賀県呼子」付近と想定しているのは「一大国」から千里とされた里程からみると少し近すぎる気もします。「唐津」付近の方がその点整合すると思われるのです。またそうであれば「大津城」付近まで五百里という行程が届くのも仮説としては捨てがたいものです。
 ここで半島全体を水行していないのは、「済州島」近辺の海域については小島が多く海流が複雑でありまた水深が浅い場所があるなど座礁の危険などのリスクを伴うからと思われます。このため途中から陸路により「半島南岸」まで移動すると言うこととなったものではないでしょうか。
 また逆に半島内全部を陸行しないのは「韓国」が混乱の後やっと制圧されたのが「張政」来倭の直前であり、その時点であれば「全陸行」も可能かも知れませんが、それ以前の「正始元年」付近に倭国を訪れた「魏使」はまだ「不穏」な情勢があり、完全には「帯方郡」の治世下に入っていなかった「半島内」は部分的にしか陸行できなかったのではないでしょうか。その際はまだしも「帯方郡」の統治力が強い地域を限定して通過したものであり、その意味で「洛東江周辺」地域は安全地帯であったかもしれません。それに対し「帯方」「楽浪」二郡と主に戦火を交えたのが郡治のすぐ南にあったと思われる「馬韓」であり、「魏使」はこの地を迂回して進んだとすると部分的に「水行」している理由として理解しやすいものです。
 また「陸行」は道路整備が進んでいない段階では正しい方向に進んでいるのかがかなり判りにくいことと、山賊や野犬(半島であればまだ虎もいたはずです)などの動物の脅威などもあり、長距離移動はかなり危険を伴ったと思われ、しかもその割りに「馬」でも使用しなければ非常に日数を要するものであったらしいことも不利な条件です。そう考えると長距離移動は「水行」(ただし「沿岸航法」による)が基本であったと思われます。

 これらのことは「邪馬壹国」(邪馬台国)が「近畿」にあったという説には決定的に不利なこととなります。「南」を「東」に変えたところで、「郡治」から「末盧国」までで総距離の九割方を所要してしまうとすれば、「近畿」には全く届かないこととなります。しかし「長里」では列島内から大きくはみ出してしまうわけですから、「邪馬壹国近畿説」は成立の余地がないこととなるでしょう。

 またそれ以前に「投馬國水行二十日」と記載されていますが、これは「邪馬壹国」への行程には「投馬國」への行程はカウントされていないことを示し、これがいわゆる「傍線行程」であることを示しています。ただし、後でも触れますが、そこには「戸数表記」(「可五萬餘戸」)がありますから、これは「魏使」が「投馬国」へ赴き、担当官吏から戸籍データの開示を受けた事を示すと考えられ、魏使は「邪馬壹国」からの帰途「投馬国」へ立ち寄ったという可能性が考えられることとなります。(往路の主たる目的は「卑弥呼」への謁見であり、これは最優先事項であったはずであり、これを済ますまでは他の件は実行されなかったであろうと推量されるため「帰途」であろうと考えるわけです。)
 帰途とはいえわざわざ「水行二十日」という遠路の「寄り道」をした理由としては「投馬国」が「邪馬壹国」の統治範囲の中で重要な役割を受け持っていたからと思われ、「邪馬壹国」を支える主たる勢力であることが重要であったものではないでしょうか。地理的には「主線行程」、つまり「朝鮮半島」から「邪馬壹国」へ至る最短距離の道のりからは外れるものの「魏」と反目していた「呉」に対する防波堤としての機能がこの「投馬国」にはあったものと見られ、南方からの侵入を阻止する役目があったとすると、「魏使」は「投馬国」についても正確に把握する必要があると考えたものと思われるわけです。

 このように『倭人伝』においては「短里」が使用されていると見られるわけですが、その由来は実際には「殷・周以前」の時代の単位であると思われ、それを「秦」の始皇帝が中国の統一を果たしたときに大幅に改定し、さらにその「始皇帝」の制度を「漢」が継承していたものを、「魏晋朝」になって(明帝の時代)「旧に復す」ということで「殷・周以前」の時代の単位の復権となったという歴史的過程も推定されています。(西村氏の論(※))
 古田氏も言うように「同じ東夷伝」の中で「韓半島」の距離表示単位と「倭」領域の単位が同一ではないというのは非論理的ですから、「帯方郡」という立派な「魏」の「版図」である領域において表記に使用された「里単位」が「短里」であることは動かしがたいこととなります。このことはこの「里単位」が「魏」の全域においても同様の意義で使用されていたという可能性を想定させるものであり、実際に『三國志』や『史記』の中にも「短里」で理解する方が合理的である例が散見されています。(「長里」はその後の南北朝に継承され、さらに「隋」・「唐」にも受け継がれることとなったものです。)
 以上見たように、『倭人伝』に示された「里」が「短里」であるのは間違いなく、そうであれば「邪馬壹国」の位置は自動的に「北部九州」と決まってしまいます。そこには何の操作も必要ありません。そこに書かれた距離も方向も「自然な理解」により「邪馬壹国」が「北部九州」に存在していたことを示すものです。


(※)西村秀己「短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?」(『古田史学会報』一二七号二〇一五年四月十五日)


(この項の作成日 2012/12/17、最終更新 2016/06/12)