「不改常典」とは ―「十七条憲法」との関連で(三)
札幌市 阿部周一
(要旨)
『懐風藻』における「淡海先帝」が「十七条憲法」を制定したものとみられること。またそこに表れた表現から彼の治世が『書紀』にいう「天智」の治世期間とは一致せず、『書紀』の「天智」とは異なる人物と見られること。「学校」の創立が「淡海先帝」の事業とされるのに対して、『推古紀』の記事から「学校」の創立は「阿毎多利思北孤」(あるいはその太子という「利歌彌多仏利」)の時代と推定されること。聖武天皇が「なにはづ」の歌を「紫香楽宮」遷都の際に朗詠する儀式を行っていたと見られることから、「不改常典」と「なにはづ」の歌が同一人物の手によると思われ、それが「阿毎多利思北孤」あるいはその太子である「利歌彌多仏利」であると見られること、この人物こそ『続日本紀』に「不改常典」という語と共に現れている「近江(淡海)大津宮御宇倭根子天皇」であると考えられること。以上を考察します。
T.『懐風藻』の「淡海先帝」
前稿では「十七条憲法」というものの性格がまさに「不改常典」たるにふさわしいことを述べたわけですが、問題となるのは「近江(淡海)大津宮御宇天皇」という表記と「聖徳太子」という存在の「食い違い」です。つまり『書紀』の中では「聖徳太子」は「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とは呼称されていないわけです。彼はそもそも「即位」していません。その意味でも食い違うわけですが、その『書紀』の記述に疑問を突きつけているのが漢詩集『懐風藻』です。
『懐風藻』の「序文」には以下のことが書かれています。(読み下しは「江口孝夫全訳注『懐風藻』(講談社学術文庫)」によります。)
「…聖コ太子に逮(およ)んで,爵を設け官を分ち,肇(はじ)めて禮義を制す。然れども專(もっぱ)ら釋教を崇(あが)めて,未だ篇章に遑あらず。淡海先帝の命を受くるに至るに及びや,帝業を恢開し,皇猷を弘闡して,道乾坤に格(いた)り,功宇宙に光(て)れり。既にして以為(おもへ)らく,風を調へ俗を化することは,文より尚(たふと)きは莫(な)く,コに潤ひ身を光(て)らすことは,孰れか學より先ならん。爰に則ち庠序を建て,茂才を徴し、五禮を定め,百度を興す,憲章法則、規模弘遠なること、夐古以来いまだこれ有らざるなり。…」(『懐風藻』序)
ここでは「聖徳太子」について「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていません。それに対し「淡海先帝」という人物については「定五禮,興百度,憲章法則」と書かれており、このうち「『憲』章『法』則」とは字義通り「憲法」を指すものであり、これはまさに「十七条憲法」に相当すると思われます。それは「古」以来このようなものがなかったという表現からも明らかであり、「十七条憲法」こそそれ以前にそのようなものはなかったと言いうるものです。
それについては後の『弘仁格式』(以下のもの)でも「十七条憲法」について「法」の始まりであるとされ、それ以前には「法令未彰」であったとされています。
「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」(『弘仁格式』序)
つまり以前は「未彰」つまり明確に書かれたものがなかったという意であると思われますが、「十七条憲法」に至って「書かれたもの」となったということであり、国が「法」を定めることがこの時から始まったものとされています。それは『懐風藻』の「憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。」という表現にまさに重なっていると思われます。また「未彰」に対応するものとして「制法」とされており、この時点における「法」つまり「憲法十七箇条」がいわゆる「成文法」であったことを意味するものと思われます。
さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。
「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」(『続日本紀』より)
この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「創立章程」とされ、つまり「章程」(これは「規則」や「法式」を箇条書きにしたもの)を初めて作ったとするわけですから、「憲法」が始めて造られたという時点を想定して当然といえるでしょう。つまり「十七条憲法」はここでも「淡海大津宮御宇皇帝」によって創られたものとされているわけです。
U.「学校」創立と「阿毎多利思北孤」
上で見たように『懐風藻』の序からは「十七条憲法」については「聖徳太子」ではなく「淡海先帝」の治績であったと理解するのが穏当といえます。
この「淡海先帝」は通常「天智」と理解されており、その意味では「近江(淡海)大津宮御宇天皇」を「天智」とする理解に無理はないとも言えるわけですが、実際にはそれは困難です。例えば『懐風藻』の序の中に彼の治世を賞賛する表現があり、そこを見ると『書紀』の「天智」とは明らかに齟齬しています。
そこには「淡海先帝」の統治期間の表現として「三階平煥、四海殷昌。旒\無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものであることはいうまでもありません。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという国家を揺るがす大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。(追従としても無理があります)
上の『懐風藻』の序では「淡海先帝」の業績として「孰先於學。爰則建庠序,徴茂才」とあり、この中の文言である「庠序」とは学校を指しますから、「淡海先帝」は「学校」を建て、「才能」のあるものを集めたこととなると思われます。この「学校」創立に関連しているのが『推古紀』の「学生」記事の存在です。
「推古十六年(六〇八年)九月辛末朔辛巳。是時条」「遣於唐國『學生』倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。」(『推古紀』より)
つまり「裴世清」の帰国に「學生」が同行したというものです。「學生」がいるわけですから、この時点で「学校」の存在を想定すべきこととなるのは当然です。
また、この記事以降であっても「白雉年間」に派遣された「遣唐使団」の中にも「學生」と称される人物が複数乗船しており、少なくとも『書紀』の「天智期」以前に「學生」が存在している事は確実と思われ、「学校」がこの時点で既成の存在であることが窺えます。
これらに関して従来は『天智紀』に「鬼室集斯」(鬼室福信の子息か)を「学識頭」に任命した記事や「法官」記事があることを捉えて「大學」と「大學寮」がこの時点で整備されたという説を目にすることがありますが(註1)、この記事は「既にある」組織としての「法官」や「学識頭」を、たまたま「百済」から大量のインテリ層が渡来したため、彼等にそれを割り当てたというに過ぎないと考えられます。以前の「百済」における官位や職掌などを勘案した結果、「日本」でもその知識を重用すると言うこととなったものと見られますが、それはそれだけのことであり、それ以前に「官吏養成機関」としての「大學」設置の記事が『書紀』に見あたらない事に単純に結びつけたものと思料されますが、上に考察したように既にそれ以前から「學生」が存在しているわけですから「大學」(学校)があったことは明白と考えられます。
つまり「学校」を建てたという記事からは「淡海先帝」の治世期間として『推古紀』に相当する時代が想定できるものであり、その意味で『書紀』の「聖徳太子」の時代とほぼ重なるものとなります。そのことから後代に「聖徳太子」の治績としていわば「すり替え」が起きたものでしょう。
V.聖武天皇と「なにはづ」の歌の関係から
ところで、「なにはづにさくやこのはなふゆごもり、いまはるべとさくやこのはな」という和歌が書かれた大型木簡が各地に出現しています。この木簡は長さが「二尺」(60cm)以上あったと考えられ、全長を復元すると「74cm」あったとみられています。これは「縦一行」に歌の全文が書かれているものであり、このような大きな木簡は日常的使用の観念を超えていますから、明らかに「儀式」など公的な場で、この木簡を「捧げながら」「朗詠」するという際に使用されるものであったと思われます。(合唱したのではないかという考えもあるようです)
また、この「なにはづ」の歌は、同時に「あさかやまかげさえみゆるやまのいの、あさきこころをわがおもわなくに」と言う、いわゆる「あさかやま」の歌とセットで詠まれる歌であったと推定されます。
『古今集』の仮名序でも「歌の父母」としてこの二つの歌は紹介されていますが(註2)、「紫香楽宮」跡地からこの二つの歌が木簡の両面に書かれているのが出土していますが、注目されるものです。
この二つの歌「なにはづ」と「あさかやま」が「歌の父母」として仮名序に書かれているということは、誰でも知っている、非常に有名な歌であることを意味すると思われますが、なぜ誰でも知っているかというと、公的な場で多くの人の面前で声に出して詠まれる歌という性格が元々あったからではないかと思われ、それが大型木簡に書かれていたのは、遠くから見てもわかるように、という意味であり、それは即座に多くの人が集まっている場で朗詠されたことを想起させるものです。
この「紫香楽宮」は聖武がキとして定めたものであり、「遷都」の記念式典を行ったと見られ(『続日本紀』では「(天平)十七年(七四五年)春正月己未朔。廢朝。乍遷新京。伐山開地以造宮室。垣牆未成。繞以帷帳。令兵部卿從四位上大伴宿祢牛養。衛門督從四位下佐伯宿祢常人樹大楯槍。石上榎井二氏倉卒不及追集。故令二人爲之。是日。宴五位已上於御在所。賜祿有差。…」と書かれそこで「大伴」と「佐伯」という天皇のボディガードとも言うべき両氏族により「大盾」と「槍」が「樹」てられたとされていて、確かにここがキとなったことが書かれています。)、そこから出土したと言うことは、そのような儀式の際にこの「なにはづ」と「あさかやま」が詠われたものと見られる事を示すものです。
この土地は広い意味で「近江」であると思われ、もちろんその意味から「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とのつながりはあるわけですが、それだけでは「近江」の地で「なにはづ」「あさかやま」という土地付きの歌が歌われても、違和感しか残らないわけであり、別の意味があったとみるべきこととなります。
すでに見たように「聖武」は「不改常典」を遵守することを誓約して即位しているわけであり、そのことと遷都というような重要な儀式の際に「なにはづ」「あさかやま」が詠われることは関係していると思われ、「なにはづ」「あさかやま」両歌は「不改常典」を定めたという「近江(淡海)大津宮御宇天皇」の御製ではなかったかと考えられることとなるでしょう。つまり「不改常典」と同様「近江(淡海)大津宮御宇天皇」の「権威」を自分が継承するという意識がそのような儀式をさせるものと思われるわけです。そう考えて始めて「なにはづ」の歌を詠ずるという儀式の意味が了解できると思われます。
その「近江(淡海)大津宮御宇天皇」が「天智」を指すのかというと、どのような資料においても「天智」と「難波津」の間には何の関係も見いだせず、「不改常典」が「天智」に関係があるとした場合「聖武」が「儀式」の際に「なにはづ」の歌を朗詠する儀式の意図が不明となってしまいます。
彼(聖武)は「菩薩戒」を受けた際に「沙弥勝満」という「法号」を「行基」から授与されており、この「勝満」は「斑鳩厩戸勝鬘」という名称から流用したと考えられますが(女性名であることを意識して表記を変えたものと思われます)、これが「聖徳太子」を指して使用されていたことは(これは誤用と思われるものの)確かであると思われ、その「聖徳太子」は「阿毎多利思北孤」(或いは「利歌彌多仏利」)の投影ともいうべき存在と考えられるわけですから、「聖武」の「尊崇」の対象も実は彼らではなかったかと思われることとなります。(この時代の「倭国王」は『隋書』にいう「阿毎多利思北孤」と考えられますが、あるいは彼の太子としての「利歌彌多仏利」の業績のほうが重要であったのかもしれません。近畿王権としては彼らの業績を聖徳太子という一人の人物のものとして「剽窃」しているという可能性が高いものと推量します。)
つまり「近江(淡海)大津宮御宇天皇」という呼称は「阿毎多利思北孤」に対するものであったことを示すものと思われるわけであり、「なにはづ」の歌も「阿毎多利思北孤」に関係していると見るべき事を示します。彼が「難波」に関係があるというのは、彼が「聖徳太子」に擬されているという見方からすると、『書紀』の中で「聖徳太子」の行動に「難波津」との関係が表れています。
『書紀』では彼は「対物部戦」の不利を受け「四天王」に祈願をし、それがきっかけで「四天王寺」を「難波」に建立したとされています。また『二中歴』にも「難波天王寺聖徳造」と書かれていますが、ここでいう「聖徳」は、「太子」であるという事から、「利歌彌多仏利」を指すものと考えられ、また「四天王寺」については、現地の伝承(『浪華百事談』など)では「当初の位置(上町台地の東方の低地)」から二十五年後に現在地に移転したとされており、これも同様「聖徳太子」の所業とされているようで有り、同じく「太子」であったとされる「利歌彌多仏利」の事業を指すと考えられるものです。
以上前稿までと併せ、「不改常典」とは「十七条憲法」を意味するものであり、それを制定したのは「阿毎多利思北孤」(或いは「利歌彌多仏利」)であって、持統以降の王権は彼の権威によって統治していたと思われることを考察しました。
(註)
1.今井陽美「律令国家における「大学」創始の企図」(『首都大学東京人文学報』二〇一二年など)
2.『古今集』の仮名序には「…なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。(古注略)あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて、(古注略)このふたうたは、うたのちゝはゝのやうにてぞ、てならふ人の、はじめにぞもしける。…」(岩波書店「日本古典文学大系『古今和歌集』」)とあります。
その他参考資料
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本古典文学大系『日本書紀』」(岩波書店)
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」(岩波書店)
小島憲之校注『日本古典文学大系「懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋」』(岩波書店)
江口孝夫訳『懐風藻』講談社学術文庫
佐伯梅友校注「日本古典文学大系『古今和歌集』」(岩波書店)