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「不改常典」とは―「十七条憲法」との関連で(二)


「不改常典」とは ―「十七条憲法」との関連で(二)

札幌市 阿部周一

(要旨)
 前稿に引き続き「不改常典」と「十七条憲法」の関係について考察し、「聖徳太子」が作ったとされる「十七条憲法」はまさに「食国法」と言えるものであり「国家」統治に関する基本法であって、「公」の立場にいる人間に対する「道徳律」を指すものと考えられること。「三輪朝臣高市麿」の諫言から見ても「十七条憲法」が「不改常典」として「持統」に継承されていたことを示すと考えられること。以上を考察します。

T.「十七条憲法」とは
 「聖徳太子」が造られたとされる「十七条憲法」は、そのどの項目を見ても「統治」する側の立場の人間に対して「心得」を示したものであり、「統治の根本」を記したものでした。これはまさに「食国法」と称されるべきものと思われます。
 またそれは「憲法」という用語でも分かるように「法」であり、しかも「容易に」「変改等」してはいけないものでした。つまり、「不改常典」に対して使用されている「天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法」という言い方は、「憲法」という用語がそもそも持っている「神聖性」「不可侵性」に直線的につながっているものであり、これらのことから「十七条憲法」は「不改常典」という用語が使用されるにまさにふさわしいものと考えられる事となります。(「明治憲法」を「不磨大典」と称するのによく似ており、この近似を指摘した「古田氏」の炯眼には感嘆します。)
 また、このような「統治する立場の者」としての「行動原理」を「守り」「受け継ぎ」「進める」事を「即位」の際に「誓う」とすると、それもまた当然ともいうべきものであるとも思われます。
 ところで、『書紀』によると「十七条憲法」の制定は「推古十二年」(六〇四年)のこととされています。この年次は『隋書?国伝』に云う「阿毎多利思北孤」あるいは彼の太子とされる「利歌彌多仏利」の時代と考えられ、ここでは「聖徳太子」という人物は彼等のどちらかの投影であることが推定されます。
 彼等に対するその後の「倭国王権」の傾倒は今考えるよりもはるかに強かったものではなかったかと思われ、それが後に「聖徳太子信仰」として形をとって現れることとなる根本の理由なのではないかと思われます。そう考えると、彼の後継者達がその彼らが作り上げた「憲法」を変えるあるいは無視するというようなことは実際的には無理あるいは困難なことであったと思われます。
 つまり「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」以降の倭国王は「即位の儀式」の一環で「十七条憲法」を遵守することを誓い、表明することを行っていたのではないでしょうか。この『続日本紀』の記事はそれを表しているものと考えられるのです。
 これは例えて言うと、現代米国における大統領就任式の際に「合衆国憲法」の名の下に行われる「誓いの儀式」を彷彿とさせるものです。
 「合衆国憲法」は「合衆国」における最高法規でありまた大統領として「遵守」し「行なうべき」根本法規でもあります。「新大統領」はその「遵守」を「誓う」事で、「新大統領」として「承認」されるわけです。ここにおける「合衆国憲法」というものが、単なる「大統領継承法」でないことは明らかです。
 また、現代の「日本国憲法」においても「内閣」が「憲法」を遵守することを規定しており、「内閣」は最高法規である「憲法」を遵守することを義務として負っているのです。古代においても事情としては全く同じであったと思われ、新しく「倭国王」となった際には「根本法規」である「十七条憲法」を遵守することを誓うことで「即位」が成立していたものと推察します。
 またすでにこの「不改常典」について「皇位継承」の際のものと言うよりは「公法」としての意識からのものという解釈もされており(註1)、その場合「公」意識が高揚される「七世紀初め」の時代、特にそれが「十七条憲法」において顕著であることと符合するとも言えるでしょう。
 「十七条憲法」の中では「公」という用語がしきりに使用され、「公私」の区別をつけることが重要視されていました。そこでは「公務」「公事」「公賦」など、「公」の観念が突出しています。また、『推古紀』の「天皇記及び國記」記事(以下のもの)においても「公民」という用語が現れるようにこの時期「国家」(公)と「公民」つまり全ての「民」は「公民」であり、国家に属するという観念が生まれていたことが窺えます。
「皇太子。嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。」(「推古二十八年是歳条」)
 このように『推古紀』段階においては「公」と「法」の両立と一体性が主張されたものと考えられますが、このような記事群は「公」つまり「国家」の権限を重大に考え、間接的権力者の存在を許容しない姿勢の表れと見られ、そのような「直接統治」という統治体制と「公」の観念は連動していることが推定されますが、その「公」の絶対性を保証しているのが「法」であり、その極致である「最高法規」が「十七条憲法」であったものです。
 このように「六世紀終わり」から「七世紀初め」という時点において、「公」と「国家」と「法」という「三位一体」の概念が創出されたものと見られますが、「不改常典」の使用例において「法に随う」という表現によって間接的に「法」が「天皇」の上にあるという観念が現れているのは注目すべきであり、そのことと「十七条憲法」において「公」の観念が打ち出されていることの間には深い関係があると考えます。

U.「三輪朝臣高市麿」の諫言
 この「十七条憲法」がそれ以降の時代においても重要な意義を持っていたであろうということは「持統」の伊勢行幸を「冠位」を投げ出しても止めようとした「三輪朝臣高市麿」の事例からも読み取れると思われます。
「(六九二年)六年二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯。…是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
「三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。フ上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。」(『持統紀』より)
 この時「三輪朝臣高市麿」はなぜ「冠位」を捨ててまで「持統」の伊勢行幸を止めようとしたのでしょうか。それは「高市麻呂」の奏上の中に「農時」には民を使役するべきではないという意味のことが言われていることが当然ながら重要です。「農時」あるいは「農作之節」の妨げとなってはいけないとするわけですが、それは「十七条憲法」(第十六条)に反しているということが問題であったのではないでしょうか。
「十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。」(『推古紀』十七条憲法より)
 つまり「春」から「秋」までは「農桑之節」であるから「民」を使役すべきではないというわけです。(三月は当然「春」の範囲に入ります)このように「冠」を脱いで「諫言」したという例は「漢籍」にはいくつか見られますが、『後漢書』の例がこの「高市麻呂」の例に最も近似したものであり、そこでは「旱害」がある中で宮殿の造営を行っていることについてやはり「免冠」して(冠を脱いで)「諫言」しています。(註2)ただしこの時は「旱害」というのですから、天候不順があった中であり、特にその宮殿の造営という行為が非難の対象であったわけですが、「持統」の場合は確かにこの前年には「大雨」であった記録がありますが、当該年にはそのような記録がありません。このことはこの「高市麿」の諫言から見て「持統」の行為が農民にとって「実害」があったというより、それが「十七条憲法」に反するという点が彼にとって重大であったものではないかと考えられ、「十七条憲法」が当時も有効であり、国家統治を担うものにとって従うべきものであったことを示すものと思われるわけです。
 そもそも「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという誓約を行っていたことが先の「元明」の「詔」から推定されますから、これが「十七条憲法」を指すとしたら、それに違背するということとなりますが、そのことは古代においては重大なこととして扱われたはずです。
 当時の「倭国王」は「聖」と「俗」の両方で「最高権威者」であったはずであり、そのような人物が「祖先」(及び「天神」に)に対して誓った言葉を自ら破るというのは由々しき事態であり、これを必ず是正するべきというように側近(特に「三輪氏」のように本来「神」に事えるのが職掌であったと推測されるような氏族にとっては)が考えたとして不思議はないと思われます。
 つまりこの時の「高市麿」の諫言は上に見たように「十七条憲法」が「倭国王」の上位に位置する「法」であり、「伊勢行幸」がその「十七条憲法」の絶対性を認める(誓う)こと(それを「不改常典」という用語で表したものと思われる)で「即位」が成立していたことに反していると考えられたためであり、そう考えたとき初めて理解できる性質の行動ではないかと思われるものです。

 次稿では『懐風藻』の解析から「十七条憲法」の制定者について考察し、「天智」と「近江(淡海)大津宮御宇天皇」の関係を考えます。

(註)
1.宮地明子「日本古代国家論−礼と法の日中比較より−」(『古代日本の構造と原理』青木書店二〇〇八年)
2.「…永平三年夏旱,而大起北宮,意詣闕免冠上疏曰:「伏見陛下以天時小旱,憂念元元,降避正殿,躬自克責,而比日密雲,遂無大潤,豈政有未得應天心者邪 昔成湯遭旱,以六事自責曰:『政不節邪 使人疾邪 宮室榮邪 女謁盛邪 苞苴行邪 讒夫昌邪』竊見北宮大作,人失農時,此所謂宮室榮也。自古非苦宮室小狹,但患人不安寧。宜且罷止,以應天心。臣意以匹夫之才,無有行能,久食重祿,擢備近臣,比受厚賜,喜懼相并,不勝愚?征營,罪當萬死。」帝策詔報曰:「湯引六事,咎在一人。其冠履,勿謝。比上天降旱,密雲數會,朕戚然慙懼,思獲嘉應,故分布?請,?候風雲,北祈明堂,南設?塲。今又?大匠止作諸宮,減省不急,庶消?譴。」詔因謝公卿百僚,遂應時?雨焉。」(『後漢書/列傳/鍾離意』より)