2016年5月8日送付分(2016年8月6日現在未掲載)
「七弦琴」の渡来と「隋帝」との関係
(要旨)
『隋書俀国伝』に記された「五弦琴」は「五弦」と「琴」ではなく「帝舜」以来の「五弦琴」であると思われること。『林邑伝』などとの比較により「琴」はそれが先頭で使用された場合においてのみ「七弦琴」を指すと思われること。「倭国」においては「七弦琴」は「隋帝」からの贈呈品と考えられること。それは「源氏物語」において「光源氏」が「琴」の名手とされていることと彼が「聖徳太子」の投影としての人物であるとされることにつながっていると見られること。それは実際には「阿毎多利思北孤」が投影されたものであると見られること。以上を考察します。
Ⅰ.『隋書俀国伝』の「五弦」
『隋書俀国伝』では「楽」として「倭国」に存在するものとして「五弦琴」が書かれています。
「…樂有五弦琴笛…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/俀(倭)國』より)
ここに書かれた「五弦琴」が「五弦」と「琴」なのか「五弦琴」という琴なのかについては意見が分かれているようです。(註1)これを「五弦」と「琴」というように区切って理解する場合は「五弦」とは「琵琶」を意味すると考えられることとなりますが、その場合「琴」の弦数については言及していないこととなりますから、「隋」と同じで「七弦」であったと考えられる事となります。しかし、「倭国内」の遺跡からは「七弦」の琴が確認されず、当時もその前代も倭国内には「七弦琴」は存在していなかったとみられますから、そうであれば『隋書』の記述とは食い違います。そのため、この「五弦」を「五弦琴」とつなげて理解して「五弦の琴」という意味と理解することもまた可能かと思われます。
そのような理解に正当性があると思えるのは、同じ『隋書』内の「南蛮」の国々に対して「五絃」と「琵琶」が書き分けられている例があるからです。
「…樂有琴、笛、琵琶、五絃,頗與中國同…」(『隋書/列傳第四十七/南蠻/林邑』より)
「…有大小鼓、琵琶、五絃、箜篌、笛…」(『隋書/列傳第四十八/西域/康國』より)
これらの例を見ると「琴」とは別に「琵琶」と「五絃」が存在していることが明瞭に書かれており、「五絃」という表現が「琵琶」を示すものではないことは明らかと思われます。つまり「倭国」を含むこれらの国々には「五絃」と称される「琵琶」とも「琴」(七弦琴)とも異なる楽器が存在していたことを示すものであり、最も考えられるのは古代に「帝舜」が奏していたという「五絃琴」ではなかったかというものです。
『礼記』などに「帝舜」と「五弦琴」についての逸話が書かれています。
「…昔者,舜作五弦之琴以歌南風,?始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有德者也。…」(『礼記』(楽記)より)
このエピソードは「隋・唐代」においても著名であり、このことから「五弦」といえば「帝舜の五弦琴」というように連想されていたものと思われます。
またこの「五弦琴」については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものという事もあり、特に中国南方地域で強く遺存していたようです。
「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。
「(湘中記)曰「其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲『漁父吟』。」」(『太平御覧/州郡部十七/江南道下/潭州』より)
このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは『隋書』の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。
また、『林邑伝』に描かれた習俗は『俀(倭)国伝』にも近似しており、そのことは『俀(倭)国伝』の「五弦」もまた「帝舜」の「五弦琴」と関係があると考える余地があることを示します。
Ⅱ.「五弦琴」と「琴」
また、この『俀(倭)国伝』(及び『高麗伝』)において書かれている「琴」について、これが「七弦琴」を指すものとすると、『林邑伝』などで「楽」の例を挙げる場合の先頭近くに書かれる場合が多いことと食い違うともいえるでしょう。
『風俗通義』(註2)では「雅琴者楽之統也、八音與竝行、然君子常御所者、琴最親密、身於離不。」とされ、「七弦琴」としての「琴」は諸楽器の「統」であり、合奏の際にはその中心となる楽器とされています。さらに常に君主の傍らにあるべき楽器ともされていたものです。このことから「楽器類」を列挙する場合は暗黙のルールとして「琴」(七弦琴)から始められるものと思われ、「琴」(七弦琴)が存在している場合には当然「先頭近く」に書かれるものであり(読む側にしてみれば自分たちのよく知っているものが先に書かれているほうが理解しやすいといえます)、それに対し「五弦琴」は逆に南方的であることから考えても「隋」など「北朝」から見ると「マイナー」な存在であり、基本的には先頭には来ないと考えるべきでしょう。そう考えれば「五弦琴」という表記は「五弦」と「琴」ではなく「五弦琴」と連続して考えるべきです。
また『林邑伝』で「楽器」を列挙した後に「頗與中國同」と書かれているのは、その先頭に「琴」が置かれていることと関係していると思われます。つまりこの「琴」は「七弦琴」であり、それも含めて「楽器」は(「五弦」の存在を除けば)「隋」によく似た構成であるという事を意味していると思われるのです。そうであれば「倭国」や「高麗」の「楽」が「琴」から始まっておらず、「五弦」「琴」と始まっていてなおかつ『林邑伝』のように「中国」(隋)と同じとは書かれていない事もまた重要であると思われ、ここには「七弦琴」が存在していないと考えられることとなります。
Ⅲ.「七弦琴」と『源氏物語』
すでに述べたように『隋書』の中における「隋使」の報告によれば倭国内にはその当時「七弦琴」が存在していなかったこととなりますが、これに関して『源氏物語』の主人公である「光源氏」が「七弦琴」を得意としていたという記述もそれなりに重要であると思われます。
『源氏物語』が書かれた「十世紀末」から「十一世紀初頭」という時代には「七弦琴」は既に廃れており演奏されることもなくなっていたにも関わらず、主人公である「光源氏」はその「七弦琴」の名手とされています。(平安後期以降に書かれたものではあるものの、「源氏物語絵詞」などの絵画の中では「七弦」の琴が描かれている例が多数に上ることが確認されています。(註3))
この「七弦琴」は「源氏物語」の中では「きん」「きむ」と仮名書きされており「琴」(こと)とは異なるものとされています。「和琴」は「六絃」であったと思われ、「あづまごと」という別名のように「東国」(関東)にその起源を持つものでした。この事は「きん」と仮名書きされる「琴」が「外来」のものであることを示唆するものですが、その「琴」(きん)を得意としていた「光源氏」のモデルとされているのが「聖徳太子」であるとする研究があります。(註4)
それによれば『聖徳太子伝暦』という平安時代の書物に出てくる「聖徳太子」に関する記述と「源氏物語」中の「光源氏」とが非常によく似ているとされています。この『聖徳太子伝暦』は、一説には「紫式部」の曾祖父である「藤原兼輔」が書いたものとされていますから、「紫式部」が幼少の頃から見慣れていたという可能性もあるでしょうし、またその「伝暦」の原資料となったものが彼女の周辺にまだ残っていてそれを参照したという可能性も考えられるところです。そう考えると、「聖徳太子」と「七弦琴」の間に「実際に」何らかの関係があったということも可能性としてはあり得ると思われます。
ところで「七弦琴」がもたらされたとしてもそれで演奏するための「楽譜」がなければ演奏はできないわけであり、この時同時にそのような「譜」が伝来したと見るべきこととなりますが、「光源氏」が「聖徳太子」と関連づけて書かれているとすると、「物語」の中で彼や近待の人が演奏する「琴」の楽曲にそれが反映している可能性があると思われます。たとえば「源氏物語」の「若菜下」において「夕顔」などを中心とした四人で「光源氏」の前で演奏される曲をみると、そこでは「漢代」に「匈奴」との間で政略結婚をさせられた「王昭君」(王明君)の悲話をモチーフとした「胡笳の調べ」が演奏されていたことが明らかとなっています。(註5)
「…返り声に、皆調べ変はりて、律の掻き合はせども、なつかしく今めきたるに、琴は、『こかのしらへ』、あまたの手の中に、心とどめてかならず弾きたまふべき五、六の発喇を、いとおもしろく澄まして弾きたまふ。…」(『源氏物語(若菜下)』より)
これは「梁」の時代「琴」の名手「丘公」が作曲したものであり、それが『源氏物語』の中で演奏されていることから、「南北六朝」時代の「碣石調幽蘭」という「琴譜」が伝来したと見ることができると思われます。これは上記「丘公」の手による「琴譜」の一部であり、その中に「胡笳調」(胡笳の調べ)が含まれています。(註6)
この「琴譜」は人気が高くかなり頻繁に演奏されたものであり、「丘公」自身も隋代初期(開皇十年)まで存命していたこともあり、「隋帝」(特に高祖文帝)がこの「琴譜」に触れなかったはずがないといえます。このようなことはこの「七弦琴」や「琴譜」の伝来が一概に唐代まで遅れるとはいえず、むしろ「遣隋使」という存在を考えると、隋代の伝来を措定して全く無理がないものであり、そのことは「聖徳太子」の時代であるという設定や伝承とも整合すると思われます。
Ⅳ.「七弦琴」渡来の経緯
この「七弦琴についてはその当の「源氏」の中で「光源氏」本人の口から次のようなことが語られており、「琴」の出自を含め興味が持たれます。
「…この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も喜びに変はり、賤しく貧しき者も高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。この国に弾き伝ふる初めつ方まで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ぐし、身をなきになして、この琴をまねび取らむと惑ひてだに、し得るは難くなむありける。げにはた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。かく限りなきものにて、そのままに習ひ取る人のありがたく、世の末なればにや、いづこのそのかみの片端にかはあらむ。…」(『源氏物語(若菜下)』より)
これは『宇津保物語』を下敷きにした記述と考えられているようであり、そこでは「七弦琴」が廃れてしまったことを嘆くわけですが、それは「七弦琴」そのものが「倭国」においては「古来」からの伝統が全くなかったものであり、一般的な楽器ではなかったことがその理由として最も考えられるところです。あくまでも「王権」中枢の人物だけがそれを演奏していたものであり、多くの人々がそれを演奏する機会も能力もなかったと思われるわけであり、そのため継続して演奏されることがなくなっていったというのも当然と言えるでしょう。
「七弦琴」は「平安時代」以前より「琴の琴」「箏の琴」「和琴」等複数ある「琴」の中の最高位のものとされたものであり、「天皇」を始めとした「高位」にあるものしか弾くことのないものへと(必然的に)なったわけです。それはそもそも「数」が少なかったこともあるでしょうけれど、本来「隋皇帝」から「倭国王」へという至上の品であったという経歴と性格がそのようなランク付けがされることとなった原因であるといえるでしょう。
『源氏』の中でも「琴」(七弦琴)は「光源氏」の持つ特別なものという意でしょうか「秘したまふ御琴ども」とされ、またそれは特別な袋(文中では「うるはしき紺地の袋」とされる)に入れられているとされます。
このように「七弦琴」が「至高」のものとして描かれているわけですが、それは「光源氏」が「聖徳太子」に結びつけられて「源氏物語」が構成されているという構成そのものと関係していると思われるわけです。
ただし『源氏物語』の中で「光源氏」に向かって「高麗」の「相人」が語ったという「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします。」という言葉は「聖徳太子」には適合しないのは周知の通りです。彼は「皇太子」ではあったものの「即位」せず、その一生を「摂政」の身で終わったものであり、「帝王」や「国の親」というような呼称が似つかわしい地位にいなかったものです。このような呼称はその「聖徳太子」に投影されていた「倭国王」「阿毎多利思北孤」にこそ適用されるものであったと見られます。
『推古紀』に「聖徳太子」(厩戸豐聰耳皇子)が亡くなったときの記事がありますが、その中には「如亡慈父母」という表現が見られ、まさに「国の親」を失った表現であふれています。
「(六二一年)廿九年春二月己丑朔癸巳。半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時諸王諸臣及天下百姓悉長老如失愛兒而臨酢之味在口不嘗。『少幼者如亡慈父母』。以哭泣之聲滿於行路。乃耕夫止耜。舂女不杵。皆曰。日月失輝。天地既崩。自今以後誰恃或。」
これは「阿毎多利思北孤」の「崩御」時点の人々の心情を表したものと思われ、それが強く人々の記憶に残り『書紀』など各種の記録に遺存・伝承されたものと見られます。『源氏物語』もそれを反映したものの一つであったと思われるわけであり、その伝承の中に「琴」(七弦琴)もあったものと思われるわけです。
「註」
1.たとえば増田修氏はその論考「古代の琴(こと)正倉院の和琴(わごん)への飛躍」(市民の古代第十一集一九八九年市民の古代研究会編)においては「…しかも、『隋書』(魏徴、貞観一〇年・六三六)倭国伝は、「楽に五絃の琴、笛有り」という。…」とされ、「五弦」と「琴」をつなげて考えられていたようですが、その後「研究史・『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型」(『藝能史研究』芸能史研究会一四四号一九九九年一月)では「…『隋書』においては、他の個所では、五絃は総て五絃琵琶を指している。また、倭国の「五絃琴」であれば「柱」があるので、中国における楽器名で「五絃箏」と記録されるであろう。更に、この個所は、倭国の総ての楽器を記録しているわけではない。他の個所には、倭王が、隋の使者裴清を「鼓角」を鳴らして迎えたという記事もある。従って、ここでは、「五絃」は五絃琵琶、「琴」は七絃琴、「笛」は横笛を指していると考えられる。…」と「五弦」と「琴」を分離して「五弦」は「五弦琵琶」を指すとされる見解に変更されています。それが妥当と思われないのは上に述べたとおりです。
2.後漢末の学者である「応劭」の作。後漢末の戦乱により,書籍や記録類が多く散逸してしまったことを憂い、各種事物について中国古代における意義を再検討し、俗説や邪教を糾正した書とされます。
3.川島絹江「源氏絵における琴(きん)と和琴の絵画表現の研究」(『東京成徳短期大学紀要』第四十三号二〇一〇年)
4.川本信幹「源氏物語作者の表現技法」(『日本体育大学紀要』二十二巻一号一九九二年)
5.上原作和『光源氏物語 學藝史ー右書左琴の思想』(翰林書房 二〇〇六年五月)
6.これは現在中国には存在せず、一部が日本にだけあるもので、国宝に指定され国立博物館に収蔵されています。